02 浮かれ少女がみるべきは
王立アゾート学院は、貴族の子女が多く通う学び舎である。
この国での学問は庶民のためのものではなく、ある一定階級以上の者達が、自らの格を上げる為に修める。
学院は中等科と高等科に分かれており、各二年の間に学問や上流階級の作法を学ぶ。望めば、騎士になるための戦技や、魔法学を習得することも出来た。
ただし四年間の学費はけして安いものではないので、平民の場合は才能がある者でも二年間通うのがせいぜいらしい。
私は幸運にも中等科から通うことを許された。男兄弟の中に娘ひとり、両親も十分に甘やかしてくれた。
天真爛漫、というよりも考え無し……むしろ阿呆であった私が過ごした中等科の二年間。
いま思い出すとクッションに顔を埋めてバタバタしたくなる日々だった。
十四歳で中等科に入学すると、幼く狭かった私の世界は一気に広がった。
同じ年頃の少年少女と共に過ごすのは楽しかったし、勉強もそれほど嫌いでは無かった。残念ながら魔法の才能は無かったけれど、身体を動かすのはとても好きだった。
それだけであれば、下級貴族の娘として、身の程にあった学園生活を送っていただろう。
しかし、私には不可思議なちからがあった。
学院で出会ったのは幼少時に共に駆け回った、泥まみれの少年達ではない。由緒正しい家柄の、貴族のお坊ちゃん方である。磨かれぬいた血統が姿形にあらわれ、整った容姿の子息たち。
そんな身分も高く、麗しい少年達と話す機会はけして多くない。けれど、少ない筈の機会は、三つの選択肢の助けがあれば、格段に跳ね上がる。
やがて、彼らの方から声をかけられる事も増えた。廊下でのちょっとした擦れ違いでも、教室でも、偶然街を歩いている時でも。
重ねて言えば当時の私は十四歳。お伽噺の王子様のように眩しい少年達に、ちょっと、かなり、瞳にお星様やハートが飛んでいた。……平たく言えば、舞い上がっていたのだ。
紳士的な侯爵の跡取りも、魔術の才がある宰相の息子も、カリスマ的な生徒会長も、少し影のある伯爵令息も。
お姫様のように、綿菓子のように、繊細なガラス細工のように、天上の華のように。私に与えられた時間は、ふわふわとした夢のよう。
つまるところ、私はちやほやされた。
その頃にはぼんやりと理解していた、三択のうち強調されたひとつを選ぶと私に対する好感度が上がるようだということ。
相手も喜ぶし、私も楽しい会話を続けられるし、良いことなのだろうと思っていた。
ちなみに現在の私が一番欲しいものは、長い長い、過去まで届くような、とても長い柄のハンマーである。
それを手に入れたら躊躇い無く、過去の私の後頭部を殴打するだろう。
残念ながら、今現在も私は当時の自分に一撃を与えることが出来ない。結果、無邪気という名の阿呆の子が現実を知ったのは、それから少しの事だった。
「エステル=リューブランさん、貴女、自分の立場をわきまえていらっしゃるの?」
公爵令嬢であるセヴリーヌ=ラクロワ嬢は、気品と尊大さにあふれる、上級貴族としてごく当然であろう問いかけを私へ投げかけた。
身分が高く美しい少年達を、下級貴族の娘が抱え込んでいる、まわりにいる少女達はそう思っていた。
嗚呼、客観的に見てその通りとしか言いようがない。そういった旨をセヴリーヌ嬢の取り巻きが口々に私へと言い立てる。
その勢いにキョトンとしていた私だったが、すぐに最悪の返答をした。
「学院ではある程度の自主性は認められていて、生徒同士の交流は推奨されてますよね?」
──長柄ハンマーを光の速さで超回転したら、過去の自分に届いたりしないだろうか。
この頃の私には怖いものがなかった。敢えて言うならば、イタズラや無茶をした時の母のお怒りくらい。
家族はほぼ無条件に私を愛してくれていたし、市井の子供達は喧嘩はすれど仲直りも早かった。上流社会の機微などは知ろうともしていなかったし、空気は吸うものだった。
学園という貴族社会の縮図に異端として現れた私を、排除しようとした彼女らを責める気にはなれない。出る杭は打たれる、当然のことだ。
状況を理解できていなかった自分が悪いのだし、上手く立ち回ればよいものを、そんな事と考えつきもしなかった。
そう、すべては。
同年代の少女達を率いる公爵令嬢セヴリーヌ=ラクロワに対し、手向かうような態度を見せた私は、まわりの同性ほとんどを敵に回したと同義だった。
もちろん私にはそういう気持ちはなかったのだが、そんなことは関係が無い。夜にランプの明かりを消すように、至極簡単に世界の色は変わった。
孤立するのは当然のこと。身に覚えのない中傷、知らぬ間に消える私物。歩いていて足を引っかけられたり、バケツの水が上から降り注ぐこともあった。
切り刻まれて読めない教科書、ロッカーに詰め込まれた雑巾。鳥の糞も頭に落ちてきたが、カラスをあそこまで飼い慣らしたご令嬢にはいっそ拍手を送りたい。
セヴリーヌ嬢も顔を合わせれば嫌味混じりの注意を投げかけてきたが、堂々と真正面から正論を述べてきたので、状況を理解していなかったのは私の方だろう。
私を囲んでいた少年達はどうしたかというと、様子のおかしい私を心配し、庇ってくれた。
まあ、それが、火に油を注いだのですけどね。
彼らに構われているから故の状況でもあるのに、代わる代わるに現れて私を慰めるので、余計に事が荒立つ。苛められる私、慰めてくれる少年、よりエスカレートする苛め。今思えば、まるで喜劇である。
しかし、まだ少年だった彼らが、そこまで冷静で完璧な行動を出来るはずもないし、私も彼らにしか最適な行動は出来なかった。
そして阿呆な私はようやく気付くことができた。現状と、過去の要因と、その過程に。
遅すぎる、とは言わないでほしい。自分が阿呆な自覚はたっぷりあります。
中等科の二年目となり、春も終わりかという頃。
私はキレた。
美しい貴族の子女に比べれば、私は平凡といえる容姿だ。けれど海色の瞳と、背中まで伸ばした蜂蜜色の髪は、目を引くものらしい。
ゆるくウェーブがかった髪は、お転婆な私の唯一の自慢でもあった。
目の前で、わざとこぼされた花瓶の水。それは机においてあった鞄と、その中に入っていたお菓子をびしょ濡れにする。ストレスのたまる日々のささやかな癒し、それも授業が休みの日にわざわざ街に出て並んで買った人気店の限定焼き菓子だった。
びしょ濡れの机と教科書、食べられる状態ではなくなったお菓子、背後で聞こえる薄笑い、身動ぎも忘れた自分。
なにがどうして、こうなったのか。
『──────ッッッダン!!!』
教室中に届き渡るようなそれは、私が手のひらで机を叩き勢いよく立ち上がった音。
休み時間の談笑をしている生徒達も、驚きで一斉にこちらを見た。
「なっ、なんなの、よ……」
水の入っていない花瓶を持つ少女は、狼狽えながらも強気の姿勢を崩さない。だが限りなく目の据わった私が見ているのは、彼女ではなかった。
かといって、教室内の誰かを見ているのでもない。私の元へ訪れようとして入り口で固まった少年達でもない。
見るべきものは、自分。
そう、すべて自業自得なのだ。
気易くちからを使い、起きうる出来事を想像しようともしなかった私。
ごめんなさい、目の保養である美少年は共同財産ですね、独り占めしてごめんなさい。あと焼き菓子を駄目にされてプツンときたけど、別にそんなに食い意地は張ってないです。本当です。
刺繍の授業のために入っていた布切り鋏を、鞄から取り出した。突然の凶器に目の前の少女が小さく悲鳴をあげる。
苛められていた少女による、真昼の兇行。血に染まる教室。学院史に残る悪夢。そんな期待に応えられなくて申し訳ないが、私は空いた方の手で自身の長い髪をまとめ引き寄せた。
鋏がバツ、バツン──と音をたてる。
蜂蜜色の糸が机の上にバサリと落ちた。私は手を止めず、鋏の音を響かせ続けた。
やがて、うなじを晒すまで短く切られた私の髪に、教室の誰もが声を発さなかった。
こんな短い髪、まるで平民、いいえ──平民の娘ですらしないだろう。貴族社会において、女性の髪はある程度伸ばされるものだ。社交の場であるパーティなどでは、ドレスをまとい、髪を結って飾るのが通例なのだから。
髪は女の命、という言葉もある。そうなると、私は貴族も女もやめたようなものか。
雑な作業を終えると、私は机に撒き散った自分の髪をひっ掴み、教室の出口へと向かった。扉をくぐり、身じろぎもしないイケメン達の横をすり抜ける。彼らの表情は見なかったが、一様に強ばった表情だろう。
私の姿が消えた教室は、ざわざわと騒がしくなっていたが振り向く気もない。
──その日から私は、『ちょっと関わっちゃいけない系の子』となった。