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後日譚 パスタ・ガール


「ニィルは好きな人っている?」


 天使の仮面を付けた悪魔の問いかけに、私は盛大に噎せた。それはもう美術界の巨匠のようにゴッホゴッホと。

 テーブルの上にあるコップを二人分、勢いだけで飲み干す。額や首筋を伝う水滴は急激な水分補給の代謝によるものだ。そうに違いない。


「もう、大袈裟だなぁ」


 にこにこと頬杖をつきながらリズは私を見ていた。



 十字路通りにあるパスタのお店。

 紆余曲折、有為転変あって私たちはこうして今、注文したパスタを待つ運びとなっている。寄り道の寄り道が長過ぎたのだ。まさに無限とも云うべき、ひたすら途方もなく。

 ほどなくしてリズの大好物であるアルフレッドソースのパスタが、次いで私の頼んだプッタネスカがテーブルに並んだ。湯気立つ蒸気と食欲を刺激する香りが絶妙に絡んで、ひび割れた眼鏡のレンズを曇らせる。


「わあ、おいしそう!」


 待ち望んだ御馳走を目の前にしてリズは破顔して感動の声をあげた。クリームソースの芳香と、海鮮と夏野菜とがごった煮になった彩りとが一斉に広がる。なるほど、どうやらこの店の話題は話題だけのままで留まることはなさそうだ。


「……ごめんね、ニィル。ほっぺ、私のせいで」

「ん? ああ、これな。気にしてないよ」


 かちゃかちゃとフォーク&スプーンを鳴らし、不慣れさをこれでもかと露呈する私に、お上品にパスタを巻きながらリズは謝罪した。

 あの一連の大事件で、私の頬にはちいさな『ひび割れ』のような痣が残ってしまった。だが別段、生活に支障を及ぼすような大怪我と云うわけでもない。リズへの返答は私の本音だ。


「でも、女の子なのに……その、傷物にしちゃって」

「リズだって女の子じゃんか。大丈夫だって。向こうしばらく、お嫁に行く予定もないしさ」


 街一番の変人であるこいつのじいさん以外に私にアプローチをしかけてくるような物好きもそうそう居ないだろう。それくらい、私にとっては顔に負った傷痕などはどうでもいいことだった。今、目の前で小動物のようにパスタを巻きあげるリズの存在に比べれば、圧倒的に。


「そうなの、かな」


 眉の両端を垂らしてリズは俯いてしまう。ああ、これなのだ。私の求めていた光景は。――帰って来れた。ようやく私はそう実感できて、図らずも顔がにやけてしまう。ただいま日常、さよなら非日常。彼女と共に過ごすこの時間を取り戻すためなら私は、例え空が割れようと時空が砕け散ろうと構わないだろう。まあ、わざわざ例えたのはいわゆるひとつの自虐ジョークだ。

 一通り癒されたところで、私はだらしなくフォークに絡まったプッタネスカを口に運んだ。


「じゃあ、まだ好きな人もいないんだ」


 俯いたまま発せられたリズの言葉に、私の唇はプッタネスカを華麗なスイングでかわしていった。なぜだろう、今日のリズはやたらとこの話に食い下がって来る。私はフォークからぷらぷらと伸びきったパスタをヤケクソ気味に豪快に喰らってやった。


「まあ、これと云っては……リズは、居るの。その、す……好きな人、とか」


 いざ口に出してみようと試みると異常にこっぱずかしい。改めてそんな言葉をいとも容易く連発できる彼女を尊敬する。

 だがしかし、いくら可愛くて天使のようなリズでも、浮いた話などパンダの鳴声よろしく今まで訊いたことがない。人見知りなリズを独り占め出来るのは友人である私の特権なのだ。だから。


「いるよ!」


 だ、から。


 私の心の天蓋が、脆くも崩れ去る音がした。



 顔を上げたリズは、えらく上機嫌で、にこにこと微笑んでいて。

 対して私の顔は、時の流れがその役割を放棄したように凍りついていて。


 ――いや、待てまてマテ。おかしいだろ、どう考えても。どこだ、どこで誰が私のリズと接触する機会があったというのだ。一年三百六十五日二十四時間の内、寝る時間を除いてほぼすべての時間を私はリズと共に過ごしてきたのだ。どこにもそんな隙はありはしない、あるはずがない、ありえない。


 誰だ、同じ学校の男子か。はたまた道端で声をかけてきた紳士か。まさかとは思うがカルデアの渾天内部で発生していた可能性次元の誰かって話じゃないだろうな。そうだとしたら私はただの馬鹿野郎じゃないか。この世で最も大切なリズの、彼女の大切な人との関係を断ち切ってしまった私は……百万世界一の性悪眼鏡じゃないかーっ!


「なんか今日のニィルはおもしろいね」

「お前のせいだよ!」


 焼きたてのベイクドポテトのようにほくほくした笑顔のリズに、思わず私は絶望・落胆・自己嫌悪・嫉妬のすべてをごちゃ混ぜにした醜い感情剥き出しで怒鳴ってしまう。それでもまだ問題の恋する少女は、楽しそうに声を堪えて笑っていた。私は泣きそうになった。いや、おそらく既に、私は泣いていた。


「……ずっとね、昔から。はじめて会ったときからね、ずっとね」

「へ、へぇー。そ、そそ、そーなんだ。知らなかったらぁ」


 自分でも自分の声が上擦っているのが分かる。語尾も噛み噛みで意味不明だ。もうパスタの味もろくに分かりゃしない。


「それでね、この前久しぶりに再会出来た時にね、凄い久しぶりだったからかも知れないんだけど。その、ね……もっと好きになっちゃった」


 恋する乙女の、はにかむ照れ笑いと云うトドメの一撃が私の心臓を打ち抜いた。もう、どうにでもなってしまえ。

 リズのこんな表情を見てしまったら、勝ち目などありはしない。どこの誰かは知らないが、お前の勝ちだよ。顔も知らないそんな存在との勝負に、私は気付けば惨敗していた。自分勝手な勝負に、自分勝手に負けた。これ以上の惨めな勝敗が他にあろうか。


 さようなら、マイフレンズ。そなたの行末に幸多からんことを。

 どこかの誰かさん。リズを悲しませるようなことをしたら覚えておけよ。

 ……いや。他でもないリズの選んだやつだ。そんないい加減なやつじゃないことを私が信じてやらないでどうする。

 リズを信じて、リズの選んだ相手を信じること。惨めな私の、最後の強がりだった。


「ねえ、ニィル。ニィルは、本当に好きな人……いないの? だれかのお嫁さんにいったり、本当にしないの?」

「……ああ。もう、いいんだ。もう」


 グランドスラムを放たれた大リーグピッチャーのように、マウンドに崩れ落ちた私から云える精いっぱいの反応がそれだった。

 そんなだから私は、リズのきつく噛み締めた唇から放たれる次の言葉なんて、これっぽっちも想像つくはずなかったのだ。


「――じゃあ、私がもらってあげる! 私がニィルを幸せにする!」


 リズの声が店内に響き渡っても、彼女はまっすぐ私を見つめたままだった。


 食後のコーヒーが運ばれてくる。笑顔のウエイトレスが私にウインクしたので急激に首から上が熱くなる。

 そんなことはお構い無しに、リズはマイペースにミルクとシュガーを入れて優美にスプーンでくるくるしていた。


 事故だ、これは。というか最早こいつはただの当たり屋だ。

 結局、私は話題のパスタをただの一口もじっくり味わうこともなく、ほろ苦いブラックを一気飲みして思考を麻痺させることしか出来なかった。


「私ね、どっかで期待してた」


 落ち着いた物腰でリズが口を開く。


「あの日、私が世界と時間をばらばらにしてしまった時。ニィルのために、なんて偉そうなこと云っておいて、でもきっとニィルなら迎えに来てくれるはずだって。結局、ニィルに甘えてるだけだった」


 絵画に描かれた女神のような表情で、カップを持つ指先は繊細な彫刻のようで、コーヒーを啜る唇は甘いハチミツのようで。リズは云った。


「ニィルさえ生きててくれれば、なんて綺麗事取り繕って。でもやっぱり、私のすぐ隣にニィルが欲しくって。自分の求めることばっかり求めて。最後まで貫き通せなくって。今まであったはずの二つの世界も、ばらばらにしちゃったあとの世界も、その両方とも壊しちゃって。ニィルまで危ない目に巻き込んで。それでもやっぱり、ニィルが来てくれた時、凄く嬉しくって。狡いよね、私」

「そんなこと」


 そんなこと、あるわけない。だって私も、同じだったから。

 だからそんなリズを狡いなんて、私が思えるわけがない。


「たぶん私はずっと、ニィルになりたかったんだ。ニィルみたいに強くて、綺麗で、カッコよくて……自分もそんな風になれたらな、って。だからね、今度は私がニィルを守ってあげたい。ニィルのために、私は生きていたい。ニィルがずっと私を観測してくれたから、私もずっとニィルを観測していたい。もう、私からニィルを離したくない」


 そう云って、リズは笑った。だから私も、照れ臭いけど笑った。

 だってそうだろう。私は、どうしようもないくらい、リズのことが大好きなのだから。

 可愛らしく「えへへ」と微笑む彼女の手を、私はもう離さない。他でもない私が、そう決めたんだ。


「ところでさ。もしもさっき私が好きな人がいるって答えてたら、リズはどうするつもりだったんだ?」


 思えばこの時。私が興味本位で軽く訊いてしまったことがいけなかった。


「え? ……だってニィルは昔から私のこと、大好きだったでしょう? 私がこんなにニィルのこと大好きなんだもん。それならニィルもきっと同じだって、信じてたから」


 無邪気にそんなことを言い放つこいつは、やはり悪魔に違いなかった。


 会計を済ませて、ふたり並んで店を出る。

 休日の十字路通りには、いつもと変わらず人混みが出来ていた。


 ふと、傍らのリズと私の身長差が少しだけ縮まっているような気がする。

 新たに収束したこの世界では、リズも普通の女の子と同じように観測されているのだろうか。だとしたら、私はちょっとしたジェラシーを感じずにはいられなかった。私だけのリズだったのに。世界を相手に嫉妬したところで、どうしようもないのだけれど。


 それでもきっと、たったふたりの女の子にとってやはり世界は大きすぎるし、道に迷ってはぐれてしまうことだってあるはずだ。もちろんふたりの女の子とは私とリズのことである。断っておくが、意地ではない。

 私もまた、ひとりの無力な個で、こうしてリズに手を引いて貰わなきゃ道を見失ってしまうか弱い女の子なのだ。……流石に無理がある気がしてきた。


「行こう、ニィル」


 あの日、あの時、私が伸ばしたはずの手を、今度はリズが差し出した。

 私はしっかりと彼女の手を掴まえる。

 空に浮かぶ渾天の残照が、きらきらと輪を創り見下ろしている。

 軒先を越えて、私たちは光射す通り道へと飛び出した。


 数多の宇宙を巡る非日常から、先の見えないたったひとつの日常へ。

 大好きな友達を求める日常から、大好きな友達と過ごす非日常へ。

 絡み合い、甘く芳醇なハーモニーを奏でるパスタのように。

 目がくらむような喧騒の光へと、ふたりで。




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