収束少女 ―Convergence Girl―
【ds(x0.00041,z*t)+R,dxn*dyn】
天候良し、風向き良し、体調良し、頃合い良し、準備万端。
座標確認、目標設定……『Y世界軸に存在する私』――……コネクト。
限定空間の同期を開始。
夜空に薄い膜が広がる。世界が隔離されていく。
時限爆弾のタイムリミットは、すぐそこまで迫っていた。何としても私は、この絶体絶命の危機を回避しなくてはならない。数多の世界の私がそうしたように。あの時、私の前に現れた『私』のように。
躊躇っている時間はない。あちら側からの干渉が出来ない以上、この世界の私がやるしかないのだから。大丈夫。『私』ならきっとなんとか出来る。多分、あの時の『私』もそう思っていたんだろう。結局、私も今までの『私』と同じ結果にしかならなかったのだけれど。
卑怯者、だと思う。でも、これが無ければ今の私は私足り得なかった。これが在ったから、今日まで私は私で居れたんだ。だからこれは、仕方のないこと。決まっていたこと。
そんな言い訳を愚かしくも必死に考えながら私は、導火線の短くなった爆弾を抱えてもうひとりの私を待つ。いつもの時間。いつもの場所。いつもの言葉で。
応答願う。今夜もそうして、私はこの丘へとやって来る。
応答願う。今夜もそうして、私はこの丘へとやって来た。
応答願う。今夜もそうして。
【ds(x0.25583,z*t)+R,dxn*dyn】
炎天下の太陽が教室の窓を覗き始める。こういう時ほど、窓際の席を選択してしまった自分を責めてしまいたくなることはない。あの頃の私にはどうしようもなく、窓際の席が魅力的に見えていたはずなのに。人間の心境の変貌ぶりは業が深い。一ヵ月前の私に窓際は止しておきなさい、夏場が辛いからと忠告してあげたい。
みんみんと演奏を続ける蝉のオーケストラを聴きながら、首筋を汗が伝っていく。暑い。
そんなことは関係あるまいと、教壇に立つ先生が黒板にチョークを叩いていく。蝉がバイオリンならチョークは差し詰めトランペットだ。喧しさと単調さが混ざり合う、実に眠気を催す音楽祭である。指揮者たる先生の挙動一つ一つが、睡眠術のようにも見えてくるから不思議だ。
トランペットに成り下がったチョークが紡ぎ出す文字列を観賞したみんなが突然、一斉に「えーっ!!」とスタンディングオベーションした。余所見をしていた私も驚いて視線をそちらへ向ける。
『明日の授業は、抜き打ちテストを行う』
非情な一文が、そこにはあった。
抜き打ちなのに予告するなんて優しいだろうと笑いながら仰る先生の思惑通り、私たちの顔は絶望に打ちひしがれていたに違いない。
前の席の女の子が振り向き様に「勉強した?」なんて訊いてきたが、一方の私は相変わらず睡魔を召喚する儀式の真っ最中だったので曖昧に相づちし、現実から眼を逸らすため机へと突っ伏した。
抜き打ちとは本来、予測できない事態を指す言葉であるが、今回は心優しい先生のご配慮によって事態は予言されている。よってこれは厳密に云えばそもそも抜き打ちではない。予測出来ない未来の事件を解決することは不可能だが、これより訪れる災悪を回避する手段はいくらでも講じられる。正当性を考えれば、予習と復習を行えば明日の事件はさして容易い問題なのであるが居眠り常習犯の私には死活問題である。どこからどこまでの範囲を予習し、復習すれば良いのか皆目見当もつかないのだから。
暫し悩み、結局はいつもの通りちょっとだけ抜け道を通ることにした。
自宅の裏側にある、小高い丘の上に設立された公園。夕刻にもなると子供たちは帰路に着き、商店街からも離れたこの公園に居座る物好きは存在しない。私ひとりを除いて。
これより私は、明日訪れるであろう不幸を回避するためにある作戦を決行する。端的に云えば、ずるっこする。ただし、それが誰かにばれてしまう可能性はゼロだ。言い切ってもいい。何故なら、私は私自身によって、抜き打ちテストの答えを教えてもらうのだから。
天候良し、風向き良し、体調良し、頃合い良し。
状況はオールグリーン。交信に問題ない。
座標確認、目標設定……『数学の抜き打ちテストの解答を持つ私』――……コネクト。
「応答願う」
夕陽に照らされた丘に私の影が伸びる。それを中心にして周囲にドーム状の膜が広がった。
刹那、前髪に付けていた双対のヘアピンが煌めく。
わずかにひんやりとした空気がして、瞼を開くとそこにはもうひとりの『私』がいた。
「あ、今夜も来たんだ」
私を見つけた『私』がにこっと笑って手を振ってきた。御返しに私も手を振りかえす。
「明日、数学の抜き打ちテストがあって」
「なるほど、だから『私』なのね」
「そっちの『私』は私に逢うのは何回目?」
「うーん、7回目くらいかな」
鞄からごそごそと解答用紙を出しながら、『抜き打ちテストの解答を持つ私』は答える。
「はいこれ、結局あんまり正解出来なかったけど」
「出題さえ解れば大丈夫、あとは自分でなんとかするわ」
「そっか。それじゃあ私は……あっ、そう云えばこの前自転車の鍵を失くしちゃってさ。そっちの『私』の鍵、貰ってもいい?」
うーん、と唸りながら考えたが、まあ解答用紙のためならば致し方あるまい。これは『私たち』が定めたルールなのだから。明日は少し早起きして歩いて学校に行かなくては。
「ねぇ、どうせだからもう少し話さない?」
私から受け取った鍵を指先でくるくる回しながら、『私』は公園のブランコに座った。そんなことをしてるから失くすんだよと云って私も隣のブランコに座る。
この『解答用紙を持ち、自転車の鍵を失くした私』と私はもちろん初対面だ。と云ってもどちらも私自身には変わりない。あくまで、可能性の違い。今の私にはない、他の可能性の道を歩む私に過ぎない。そんな数多の可能性の私と『私』は今までに七回、かくいう私は実に二十回近く出逢って来た。
「いいなぁ、ヘアピン持ちは」
拗ねるように『私』はブランコを漕いだ。ヘアピン持ちとは、私のことだ。正確には、『ヘアピンを持つ可能性の私』全般を指す。
「いろんな世界の私たちを呼び出せるのは、ヘアピン持ちの私だけだもんね」
そう。このモノトーンのヘアピンを持つ私だけが、こんな摩訶不思議現象を引き起こす力を持ち合わせている。とある世界の私曰く、実行権を持っているらしい。
ただし、この能力にはいくつかのルールがある。ヘアピン持ちの呼び出しに応えられるのは、ヘアピンを持たない世界の私であること。この丘の上にある公園でしか力が使えないこと。使える時間帯が夕方から日が昇るまでであること。公園に人がいると使えないこと。その他、天気や風向き、体調によっても変化するらしいが今のところ私の呼び出しが失敗したことはない。
それともうひとつ。これは私たちが独自に決めたルール。『物々交換制度』である。
ヘアピン持ちが実行権、即ち、自分が望む世界の私を呼び出せる。呼び出された側はヘアピン持ちの私が望む物を持っているが、それを与えるか否かはそちら側の私次第であると云った事だ。なので、ヘアピン持ちの私も相手が望むものを可能な範囲で与えなければならない。基本的に、今の私たちが必要なものと、それほど必要ないものとをうまい具合に交換し合おうというルール。
なので、どこの世界でも比較的重要度の高いものは交換の対象には出来ないことが多い。この『自転車の鍵』というのは中々交渉上手な部類に入るだろう。実際、明日からどうしようかなと思い始めているし、そうそう他の世界の私も譲ってくれるようなものではない。
「あはは、ごめん」
「いいの、気にしないで。こっちこそ助かっちゃった」
「何だったら、そのヘアピンと交換する?」
にんまりと舌なめずりするように、『私』が顔を覗いてきた。
「駄目、ルールでしょ」
「ちぇ。分かってるよーだ」
『私』はむすりと勢いよくブランコを漕ぎ出す。ヘアピンを交渉材料にしてはいけない、これもルールだ。
あらゆる可能性の私たちが存在するこの空間において、当然出逢う私たちの年齢はてんでんばらばらである。今回は解答用紙ということでおそらく同年代の私だろうが、前回逢ったのは三年前の私だった。昔からお気に入りだったペンを壊してしまい、まだそれを持っている頃の私を指定したら出てきたのがその『私』だった。その『私』はペンと引き換えに偶然私が持ち合わせていた参考書と教科書をいくつか持って行った。いい大学に進んで、科学者になりたいらしい。今の私はこんななのに、色んな私がいるもんだ。
「なるほどねぇ。あーあ、私もヘアピン持ちに選ばれたかったなぁ」
私が云うのもあれだが、この『私』もいくらか今の私と近い可能性の私なのだろう。呑気に両脚をぶらぶらさせながら、そんな話を繰り返していた。
「どうやって手に入れたの、それくらい教えてよ」
今までも何回かはそんなことを訊く『私』に出逢ってきた。なので少し面倒臭かったが、おそらく今の私も、そんな便利な道具を持って居なかったら気になってるはずなので毎回仕方なしに教えてあげることにしていた。
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大切なものを失くしたんだと思う。それが何かって云うと、思い出せないんだけれど……間違いなく、あの時の私は何かを失くしてしまった。もしくは、手に入れることが出来なかったのかもしれない。だから、そんな時に現れたあの人はヒーローみたいに見えたんだ。
「ほら、これあげる」
泣いている私の手に、お姉さんが乗っけてくれたのは可愛らしいヘアピンだった。白と黒の双対になっている、モノトーンのヘアピン。
「付けてごらん、きっと似合うよ」
そう云って微笑むお姉さんの顔がとっても優しくて、かっこよくて。私はつい顔が熱くなってしまった。云われるまま、前髪に付けてみた。
お姉さんの手鏡で見てみると、私は思わず「わぁ」なんて声を漏らしてしまった。
「それは、あなたを幸せにしてくれる魔法のヘアピンなんだよ」
単純なもので、すでに私のご機嫌は修復されていたのだろう。はしゃぎまわってお姉さんにお礼を云ったのを覚えている。物に釣られるなんて我ながらなんともちょろい女だ。
最後に、大切にしてねと云い残し、お姉さんの姿は霧のように消えた。
以来、私があの時のお姉さんに逢うことはなかった。
【ds(x0.01061,z*t)+R,dxn*dyn】
話し終えると、『私』は決まって同じ反応をする。
「それ、私も覚えてる」
子供の頃、この公園で、『私』は泣いていた。それはきっと、どこの可能性の世界においても同じことで。
「なんで私は選ばれなかったんだろう」
いつの間にか、『私』はブランコを揺らすのを止めて、真剣な面持ちで考えていた。
「なんで、そっちの『私』は選ばれたんだと思う?」
単なる偶然、だと私は思っていた。が、そう云われると不思議に思えてくる。
「そのお姉さんってさ、もしかしてどこかの世界の『私』なのかな」
それは気付いていた。時間が経つに連れ、歳を重ねるに連れ、あのヘアピンをくれたお姉さんは成長した自分自身だっていうことに。
「どれくらいの年齢の『私』だった?」
興味津々で『解答用紙を持ち、自転車の鍵を失くした私』――長いので『回転ちゃん』と呼ぼう――が質問責めしてくる。
「多分、今の私や回転ちゃんと同じくらいだったよ」
「回転ちゃんって、私のこと?」
人をヘアピン持ちと呼んでくるような私たちだ。たまには仕返ししてやっても罰は当たるまい。
少々納得していない様子だったが、構わず回転ちゃんは自分の考えをまとめていた。
「私ね、気付いたことがあるの」
「気付いたこと?」
「まだ七回しか他の私とは出会ってないから、確信はないんだけど」
難しい表情で、回転ちゃんは私を見る。
「あのね、もしかしたら……私はもう他の私に出逢えないかもしれない」
「どうして」
「ヘアピン持ちは、大人になった私に逢った事ってある?」
突然の問い掛けだったので、私はうーんと唸ってしまった。そう云われれば、確かに……。
「でしょう? 私、今まで一五歳以上の私に逢ったことってないの」
「あ、今の私たち」
「そう、ちょうど十五歳。それに来週はもう誕生日だったよね」
気が付かなかった。条件指定で呼び出される私は、完全にランダムだと思っていたからだ。
「小さい頃は十五歳でも大人と見分け付かなかったけど」
「凄い、回転ちゃん探偵みたい」
素直に感心してしまった。先ほど云った私に似ていて呑気云々のくだりは撤回させて頂きたい。
「ちょっと考えれば、これくらいちょろいぜ。……って、そうじゃなくてさ」
照れるように頬を掻く回転ちゃんが、自分自身だと分かりながらも少し微笑ましく思ってしまったところをチョップで妨害された。
「もしかしたらヘアピン持ちも、もう力を使えなくなるのかも知れないよ」
「へっ?」
なるほど、そこまで考えていなかった。回転ちゃんの云うことが事実なら、十五歳以上の私に出逢えないということは、この力はヘアピンがある方も無い方も、双方十五歳以下に限定されるということになる。
「ど、どどどどーしよう?」
「落ち着いて、ね」
狼狽える私の肩を掴んで、回転ちゃんはしっかりと顔を合わせてくる。
「多分、こっちの私は今回が最後だと思う。でもヘアピン持ちは実行権を持っている。つまり、少なくとも来週までは呼び出しが可能なんだよ。だから、きっとそこで何かが分かると思う」
「何かって?」
「それが分かんないから何かなんだってば」
今度は頭突きされた。私にしてはアグレッシブな私だ。流石、回転ちゃん。
「今のうちに、私に伝えておきたいこととかってない? 最後かも知れないしね、ちゃんと訊いておきたいの」
そうだ、私には伝えておくべきことがあるはずなのだ。もしかしたら、そっちの世界の私ならまだ、間に合うかも知れない。
「じゃあ、云うね」
「うん」
ごくり、と回転ちゃんが喉を鳴らした。
意を決し、私は伝える。
「窓際の席は、夏場が辛いよ」
がくり、と回転ちゃんが膝をついた。
「一ヵ月前に云ってよ、それ……」
【ds(x0.00147,z*t)+R,dxn*dyn】
私は今、全力で走っている。息を切らし、全身の筋肉を奮い立たせ、死に物狂いで。
今日は昨日の明日。ともなれば、必然的に数学の抜き打ちテストの日。これは偽りようの無い世界の法則。そのために、私は昨日、回転ちゃんに自転車の鍵を差し出してまで、解答用紙を手に入れ、ずるっこだと自覚しながらも、一夜漬けで頭に叩き込んだと云うのに。それなのに。
世界は非情だった。こんなことなら自転車の鍵を譲るべきではなかったのだ。つまるところ、私は寝坊した。
汗だくになりながら教室の前までやってきた。しんとした空気が漂っている。すでにテストは始まっているのだろう。勇気を振り絞り、私は扉に手をかけようとした、のだが。
なんと、扉は自動で開いた。そんなハイテクな学校だったかしらんと目を丸めてしまう。
「いいから、とっとと入ってテストを始めなさい」
先生の冷酷な声で我に返った。私はそそくさと背中を丸めて教室に入る。周りからくすくすと聴こえてきたが、甘んじて受けるほかなかった。
トライアスロンよりもきつかったであろう扉から窓際までの距離を、私は見事耐え切ってみせた。自分の席に着き、裏のまま置かれていた解答用紙を表返す。なあに、こちらには無敵の解答用紙予習がある。持ち時間の遅れなどハンデにもならないはずだ。
そして、私は驚愕した。
何かがおかしい。テスト用紙には歴史の用語が羅列していた。
嵌められた。私は尊大なる先生の甘言をまんまと信じ切ってしまったのだ。
そうか、これが抜き打ちの本当の意味か。私はひとつ大人になったような気がした。それと同時に、無意味に自転車の鍵を失ってしまったことに対する後悔の念が襲ってきて、すでに戦意喪失もいいところだった。
案の定、私の解答用紙は見るも凄惨な結果となった。当たり前だ、ダ・ヴィンチからダートマス会議を足しても引いてもリンカーンになるはずがない。せめて=アインシュタインが関の山だろう。涙目で答案が滲んだ。
わずか四十分足らずの間に大人の階段を転げ落ちた私に、不憫に思ったのであろうか前の席の女の子が声をかけてきた。
「結構むずかしかったね」
「数学の抜き打ちだって、云ってたのに……」
未練がましくも悪態付く私に、女の子は「あれ、そうだっけ?」と首を傾げていたが、これ以上の反応は今の私には不可能なほどに打ちのめされていた。
「気晴らしにさ、この後遊びにいかない? 十字路通りにさ、美味しいパスタ屋さんが出来たんだって」
お店のチラシだろうか、簡易的なメニュー表とお店の内装について表記された紙を見せて、その子はあれやこれや楽しそうに語っていた。私と云えばどうにもそんな気分になれず、せっかくの申し出を断ってしまった。
自転車を失った私の唯一の移動手段である徒歩で、その日は帰宅した。
途中、丘の上の公園に寄ってひとりベンチに座っていた。
溜息を洩らしながら、今日の失敗を振り返る。
結論は十秒で辿り着く。やはり、ずるっこはよくない。
夕日が丘を照らし出す。いつもなら、この辺りが『私』を呼び出す頃合いだろう。だが今の私に必要なものといえば、せいぜい小腹を満たすような食糧か、自転車の鍵くらいなものだ。流石に他の世界の自分に食糧を求めるのは意地汚い気がするので、思いとどまった。こんなことなら、お誘いに乗ってパスタを食べに行けばよかった。急に罪悪感が押し寄せる。
そうだ、お昼に買ったサンドイッチがもう一切れ残っていたはず。そう思って鞄から取り出すと、目の前には『私』が立っていた。
「あれ、なんで?」
辺りを見渡すと、いつものドーム状の膜が私を中心に広がっていた。しまった、どうやら無意識のうちに呼び出しをかけてしまったらしい。しかし、一体どこの世界の私を呼んでしまったのだろうか。今の私に自転車の鍵を譲ってくれるという心優しい世界の私が存在したのならば、それこそ頭が上がらない。
恐る恐る私は『私』を見た。その『私』は、今まで出会ってきたどの『私』とも異質だった。
ぼさぼさの髪で、薄汚れた頬。ぼろぼろの、布きれのような毛布を身に巻いているだけの、幼い日の私だった。まだ十歳くらいだろうか。
「あ、あの。こんばんは」
あまりにも間抜けな声で挨拶してしまう。この『私』は、他の私に出逢ったことがあるのだろうか。もしも初めての応答であれば、私にはこの場におけるルールを説明する義務が生じる。
『私』は無言で私を見つめている。私も緊張してしまい、声が出せなくなってしまった。
……ぐぅぅー。
獣のような鳴き声が響く。はっとして私は自分のお腹を隠した。
……ぐぅぅー。
そんなことはお構い無しに、鳴き声は響き続ける。よく聴くと、それは目の前の『私』から聴こえてきた。
「あの」
立ちすくむ『私』に私はサンドイッチを差し出す。
「よかったら、食べる?」
涎を垂らしながら、『私』がきらきらとした目で私を見つめてきた。ちょっと怖かったので、とりあえずうんうんと頷いておいた。
むしゃむしゃとサンドイッチを平らげた『私』はちいさくけっぷと唸り、口許を腕で拭って私に向き直った。
「ありがとう、ヘアピン持ち」
「どう致しまして。そっか、知ってるんだね」
ルールを把握している『私』だと分かって、安堵する。『私たち』のことについて一から説明するのは案外大変なことが多いからだ。
「逢うのは二回目だ、あまり詳しくはない。お前は前に銃をやった私とは違うんだな」
「じ、じゅう!?」
驚いた。そんな物騒な物を必要とする私が存在するなんて思っていなかったから。
「食糧と引き換えにやったんだ。そいつの世界じゃ、武器の製造は行われていないらしい。何に使うかは訊いていない」
「あまりおめでたい理由ではなさそうだもんね」
「お前は何が欲しいんだ、そのために呼んだんだろう? 銃か、ナイフか。ミサイルは少し値が張るぞ」
「そんなものいりません」
自分の表情が青ざめているのが分かる。本当に、色々な世界の私が居るものだ。この世界の『私』についての生い立ちは、あまり伺いたくない。
「実のところ、私もなんで呼んだのかよく分んないんだ」
「そうか。でも私はお前から食糧を貰ってしまった。なにかを譲らないといけないルールだろう」
「そうなんだけど……」
思い当たる節がないのだから、困っているのだ。強いて云えば自転車の鍵だが、と云っても、この『私』の世界に果たして自転車が流通しているのかは甚だ疑問である。
思いあぐねていると、ちいさな『私』は隣にちょこんと座ってきた。年下の『私』に出逢うといつも思うのが、妹が出来たような気がして少し嬉しくなってしまう。
「やはり、お前は前の私とは違う」
「その、どんな私だったの?」
「思い悩んでいた、償いを求めていた。お前はいいな、悩みがないのが悩みらしいところが」
見かけによらず難しい言い回しをする私だなぁ、とか思っていたら核心を突かれてしまった。
年上らしく、ここはいっちょお説教してやりましょうかしらとも考えたが、多分負ける。
「前のお前より、今日のお前の方がいい。安心する。私にも、お前のような可能性があるんだな」
「毛布ちゃんの世界は、ごはんがないの?」
「いや、あっても食べることが出来ない。汚染されてしまったんだ。綺麗な食糧は金がかかる。だから私は武器を売って金を稼いでいる」
「大変だぁ」
自分自身の事なのに、偉く遠い世界の話のような気がする。事実、まったく違う世界の私の話なのだけれど、もしかして、もしかすれば……あったかも知れない可能性の私の世界なのだ。
「お前たちの世界の食料は美味いな、それに綺麗だ。前の私がくれた食糧の中に写真も入っていた。なんというんだっけ、これは」
毛布ちゃんの私が見せてきてくれたのは、どこかのお店のパンフレットと割引券だ。
「えーと、これはパスタだね。……あれ、ちょっと待って。これって」
私はこのパンフレットに見覚えがあった。そうだ、学校で前の席の女の子が見せてくれた新しく出来たお店のものに違いない。
「お前の世界にもこれがあるのか、羨ましいな。私もこんな綺麗な物を食べてみたい」
「……あのね、毛布ちゃん」
さっきまでうだうだ考えていたことが急に虚しく感じた。そんなのはやっぱり、私らしくなかった。せめて、この世界の私くらいは。
「やるよ、これが欲しいんだろう」
「本当!?」
「写真だけでは、喰えないからな」
そう云って、毛布ちゃんは私にパンフレットと割引券を譲ってくれた。これを持って、明日は私があの子を誘ってみよう。そんな目標を立てることが出来たのだから、収穫は上々だ。
改めて私は毛布ちゃんにお礼を云った。櫛を使ってぼさぼさの髪を梳いてあげた。擽ったそうにしていたが、整った髪を見てまんざらでもなさそうだったから良しとしよう。
そろそろ行くよ、と毛布ちゃんが手を差し伸べてきたので私も握手で返す。
「こんな世界だが、私は私なりに幸せだ。お前もお前の幸せを見つけろ。それじゃあな」
別れ際の毛布ちゃんの言葉が、あの時のお姉さんの言葉と重なる。
大切な物を失った記憶。今までないがしろにしてきたその記憶が、今では堪らなく愛おしい。
兎にも角にも、回転ちゃんの推理では私の力も残りわずかなのかもしれない。だったら、残りの力は私の幸せを探すことに費やしても、いいんじゃないだろうか。
夜中にそんなポエムを考えひとりほくそ笑み、私は眠った。
【ds(x0.00076,z*t)+R,dxn*dyn】
透き通るような、青空。不思議なことに、私は青空と夕陽、そして星の散らばる夜空しかみたことがなかった。さらに不可解なのは、その事に今さら気付いたということ。なぜ、今まで疑問にも思わなかったのだろうか。気付けた理由は明白だ。その日、空にはひびが入っていた。
学校に着くと、先生が前回の抜き打ちテストの答案を返していた。
「自分の答案を取ったら、後ろの者へと送ってくれ」
そう云って先生は私の机に答案の束を置いた。
自分の答案を抜き取り、後ろの人へと回す。
瞬時に違和感があった。わたしのせきは、いちばんまえにあっただろうか。
答案を見ると、化学の問題が羅列している。点数は中の下。
私はすぐに教室を飛び出した。駐輪場へと来たところで、自転車の鍵がないことを思い出し、そのまま正門を走り抜けた。商店街を抜け、十字路通りへ。もちろん、パスタ屋などどこにもありはしない。ひとっこひとり、そこにはいない。
おかしい。何かがおかしい。
そして、それは丘の上にある公園についた時、確信に変わった。
青空に、巨大な孔がぽっかりと空いていた。その奥には、広大な宇宙が、漆黒の中に輝く星々の海が広がっている。
誰か、誰かいないのだろうか。誰でもいい。誰か。
すぐに私は状況を確認する。
天候不明、風向き無風、体調悪化、頃合い知るもんか。
状況はオールグリーン。交信に問題ない。
座標確認、目標設定……『答えを知る、私』――……コネクト。
「応答願う!」
叫ぶのと同時に、世界は砕け散った。そこに残されたのは、丘の上の公園の広場と、満点の星空に囲まれた私と……『私』だけ。
「お誕生日、おめでとう」
『私』はそう云って、私を向かい入れた。
私は『私』へと駆け寄って、問い詰める。
「どういうことなの」
「世界が収束を始めているの」
捉えようのない、抑揚のない声だった。そして、私は気付いてしまった。
「あなた、まさかあの時の」
「そうね、久しぶりかもね。あなたにとっては、だけれど」
私に、ヘアピンを託してくれた、あの時の、私。
「急ぎなさい、X世界軸……ヘアピン持ちの世界の収束を止めるには、Y世界軸……ヘアピンを持たない可能性世界の私へとそのヘアピンを託さなくてはならない。これ以上、収束を続けると私たちの可能性はすべて消え去ってしまう。潰れてしまうX世界軸の代わりに、Y世界軸をX世界軸へと書き換えて、代わりにX世界軸をY世界軸としてすり替えないと、拡散し続ける宇宙を維持できないの」
そのタイムリミットが、私の誕生日だったと。だとしたら、このモノトーンのヘアピンとはいったいなんだと云うのか。なぜ、あの時の『私』は、私にこれを託したんだ。
「時限爆弾」
私の前髪に触れて、『私』が云う。
「あの時の私には、これが必要だった。そして今、その役目を終えたこれは世界を壊しかねない爆弾と化している。これは、『私たち』の罪。大切なものを失ってしまった『私たち』の、罪だ」
「あなたは、それを思い出したの?」
「いいえ」
悲しそうに顔を伏せ、『私』は首を横に振った。
「私には思い出せなかった。そして、あなたにも。だから、私は最後の役目を果たしに来たの。あなたに真実を伝え、爆弾を送りに行かせる役目を」
「他の世界の私を犠牲にして、今の私が生き残るっていうこと?」
「正確には、少しだけ違うの。X世界軸からY世界軸へとヘアピンを送らないと、そもそもX世界軸と云ったものが存在しなくなってしまう。そうなれば、双対となるY世界軸の存在理由も失われる。世界にはXもYもない、なにもない世界が生まれてしまう。数多の可能性に散らばった世界は、この二つの世界によって成り立っていたのだから、片方が潰れてしまえばもう片方も失われてしまうの」
頭がこんがらがりそうだった。とりあえず、なんとかしてこのヘアピンをY世界軸……つまり、ヘアピンを持たない私へとバトンタッチしなくてはならないと云うこと。でも、それは結局のところ、無限に続く爆弾のリレーなんじゃないだろうか。
「いつか、どこかの世界の私が、壊れない世界の観測に成功すれば、あるいは」
疲れ切ったように語る『私』を見て、私は居た堪れなくなった。
でも、もう少しで。あともう少しで私は見付けられるはずだったんだ。私にとっての、幸せを。あの時のあなたが云ってくれた、私だけの大切な何かを。
「……夜明けまでは、時間がある。私には出来なかった答えを、それまでに見つけてみて。私には、出来なかった。世界を救うことも壊すことも、他の世界の私たちを消してしまうことも。そして、思い出すことも」
「ありがとう。私、精いっぱい考えてみる」
最後に少しだけ、あの頃のお姉さんのように笑って、『私』は消えた。きっと、自分の選んだ世界へと戻ったんだ。その可能性の世界を壊すのも、救うのも、私の答え次第ってわけか。回転ちゃんの世界も、毛布ちゃんの世界も。今まで出逢ってきた沢山の私の世界も。未だ出逢うこともなく、しかして無限に広がる可能性の自分たちの世界も。すべて。
今までの私たちが選んできた選択を、私もまた選ばなければならない。
そうか、これがその理由。私たちの未来には、これ以上先の保障がない。回転ちゃんはやっぱり名探偵だったんだ。
夜空は変わり映えなく、私の真上を巡っている。残された時間は、あまりにも少なかった。
【ds(x,z*t)+R,dxn*dyn=JOSS】
「どうじゃ、結論は出たかのう」
伏せていた目線を上げる。黒い帽子に、まっちろい髭面。帽子のつばに隠れて、その顔は半分も確認できない。だが、私は知っていた。
私は、この人を知っていた。はずなのに。
「ほっほ、仕方のない事じゃ」
それでも、この人は笑っていた。笑ってくれた。名前も、顔すらも思い出せない私のことを、優しい仕草で。優しい口調で。
「分かっておるはずじゃ、そんなものに意味などない。意味などないのじゃから、わしとてそもそも、意味などない。ジョージ・シュフタンでも、リヒャルド・ガルトネル・ワーグナーでも、逢沢浩一でも、マスターでも。そのどれで在っても構わぬし、どれでもないかもしれん。わしが果たして誰であっても、お前に意味などない。そういうものじゃ」
分かっている。これはきっと誰でもない。
残照となっていく、私の意識。夢。妄想。
「正しくは因果じゃ。わしはお前を取り巻く因果の収束体に過ぎぬ。故にわしはお前自身であるとも云える。お前を捉えて離さない因果の鎖じゃ。自己隔絶拡散宇宙、つまり今お前の居るこのプトレマイオス宇宙のことじゃな。もうじきこの因果も放たれようとしておる。じゃが、それがいかん」
前髪に挟んだ、ヘアピン。
「それは本来、お前の因果においてイレギュラーなものじゃ。存在してはならないもの、と云ってもよいじゃろう。お前が持っておったのは、こっちだったはずじゃ」
彼の手にあるのは、ピンク色の縁をした可愛らしい眼鏡。
そう、私はもともと、ヘアピンなど持っていなかった。私が持っていたのは……。
なら、だとしたら『これ』は、いったいどこから現れたのだ?
どこの因果で、私は『これ』を手に入れたのだ?
「じゃから、それで正しいのじゃ。イレギュラーはその存在を許されぬ。それがルールじゃ。しかし、確かにお前は、あの時子供だったお前は、これを持っておった。これが無ければならなかった。必要だった。代わりにお前は失った。眼鏡だけではない、大切なものを、すべてを」
ここではない、どこか遠くの世界で。弾け飛んだ宇宙の果てで。
そうだ、私は――あの時、あの人と。
「世界は無限であり、有限じゃ。個であり、全じゃ。すべてのお前はお前であり、お前そのものじゃ。わしはお前の代わりに、これを渡しにきた。本来これはお前のものなんじゃから、因果であるわし自身が因果を正しに来たようなものじゃな」
本来在るべき、私。この世界において、なくてはならない、私。
でも、ならきっと……この世界こそが、本来あるべき私の世界。
私が正さなくてはならない、私の、因果。
「ほれ、そろそろ時間のようじゃぞ。答えは見つかったかのう? ……ほっほ、愚問じゃったな」
そうして、彼はにっかと歯抜けた顔で笑ったのだ。
「グッドラック」
【ds(x0.00038,z*t)+R,dxn*dyn】
天候良し、風向き良し、体調良し、頃合い良し、準備万端。
座標確認、目標設定……『Y世界軸に存在する私』――……コネクト。
限定空間の同期を開始。
夜空に薄い膜が広がる。世界が隔離されていく。
時限爆弾のタイムリミットは、すぐそこまで迫っていた。何としても私は、この絶体絶命の危機を回避しなくてはならない。数多の世界の私がそうしたように。あの時、私の前に現れた『私』のように。
躊躇っている時間はない。あちら側からの干渉が出来ない以上、この世界の私がやるしかないのだから。大丈夫。『私』ならきっとなんとか出来る。多分、あの時の『私』もそう思っていたんだろう。結局、私も今までの『私』と同じ結果にしかならなかったのだけれど。
卑怯者、だと思う。でも、これが無ければ今の私は私足り得なかった。これが在ったから、今日まで私は私で居れたんだ。だからこれは、仕方のないこと。決まっていたこと。
そんな言い訳を愚かしくも必死に考えながら私は、導火線の短くなった爆弾を抱えてもうひとりの私を待つ。いつもの時間。いつもの場所。いつもの言葉で。
応答願う。今夜もそうして、私はこの丘へとやって来る。
応答願う。今夜もそうして、私はこの丘へとやって来た。
応答願う。今夜もそうして。
【ds(y0.83306,z*t)+R,dxn*dyn】
この日、私は泣いていた。悲しかったのかもしれないし、悔しかったのかもしれない。
そのどちらでもあると云えるし、どちらでもなかった可能性だってある。
ただ、泣いていたのだ。
私は目の前の、幼い頃の私を眺めていた。思えばこの時、このモノトーンのヘアピンを貰ってから、私の運命は拡散した。欲しいものはなんだって手に入ったし、テストで百点を取るのも容易いことだった。
でも、たったひとつだけ。手に入らないものがあった。ようやく、それに気付けたのに。
「ほら、これあげる」
私は、選んだ。
「付けてごらん、きっと似合うよ」
私は。
「それは、あなたを幸せにしてくれる魔法の眼鏡なんだよ」
私は――選んだんだ。
「お願い。いつかきっと、あなたを探しにやってくる女の子がいる。その子はとってもとってもかっこよくて、とってもとっても世話焼きで、とってもとっても目が良いの。だから、絶対にあなたを見つけてくれる。だから、その時には……」
世界が私の身体を蝕んでいく。ルールを犯した私の存在を食い潰そうと。
拡散する世界は収束を始める。急速に宇宙は形を成し、私を観測出来ない彼らはその内側へと取り込もうとするだろう。でも、これでいい。
「ごめんね、って伝えて欲しいな」
すべてを託した私は、押し寄せる星屑の津波に呑み込まれ、消えていく。
【ds(0,0,t)+R,dx*dy*dz=null】
なにもない。
なにもない。
なにもない、世界。
結局、すべてはゼロとなってしまった。
拡散した私の宇宙は、収束に呑み込まれ消滅した。
もう、私の存在出来る世界は、無くなった。
これは、私の最後の我儘だった。
前髪に付けたモノトーンのヘアピン。
あの人から貰った、私の宝物。
他の誰にだって、渡すもんか。それが例え、自分自身であっても。
ああ、つまんないなぁ。
これから一生……というか、無限に、かな。ずっとこのまっくらな世界で、私はひとりぽっち。
ポケットを漁ってみる。なにかが指先に触れる。
これは……なにかの紙。
なんだったっけ。パスタの写真が載っている。
ああ、そうだ。これは商店街の、十字路通りに新しく出来たお店。
ふたりで食べに行こうねって、誰かと約束してたような気がする。
……誰かって?
誰だっけ。思い出せない。
モノトーンのヘアピンを外して、握りしめる。
――応答願う。
小さく、囁く。
――応答願う。
誰を?
――応答願う。
誰が?
目標設定……『null,null,null』
そう、なにもないんだ。もう、私には、なにもない。
〈neil〉,〈neil〉,〈neil〉
声が聴こえた。
「誰?」
私を呼ぶ声だ。ふざけている、なにもないのに声など聴こえるはずなどない。そもそも、私に名前などあったのか。そんなことは、この空間に於いてあってはならない。ならないのだ。
しかし、声は聴こえる。名前を呼んでいる。私の、名前。
〈neil〉,〈neil〉,〈neil〉
世界にひびが入る。光が、漏れてくる。
声が聴こえる。リズを呼ぶ声が。
「それは、私?」
誰が。忘れたとでも云うのか。
「あなたは」
立ち上がって、見上げる。ひびは、徐々に、だが確実に、広がって行く。
〈neil〉,〈neil〉,〈neil〉
「ニィル」
途端、天蓋は崩れ去った。
光の中から、私はリズへと手を伸ばす。
「わりぃ、遅れた」
「ニィル! ニィルニィルニィルーーーーーー!!」
ふわふわマシュマロ天使小悪魔系が何やら奇声を発しているが、そんなことは知ったことではない。私には急ぎでこいつを穴倉から引っ張り出し、世界の前に突き出してやらなくてはならない使命があるのだ。
リズの青白くなった細い腕を掴み、よっこらしょと私は彼女を引きづり出す。少女ひとり分しか収納できないほど収束したプトレマイオス宇宙は、まっしろい結晶となってさらさらと消滅していった。
引き上げたそこは、砂漠にある砂浜……とでしか形容しようがない。波がすぐ足元まで迫っていたのだから、おそらく砂浜なんだろう。
さっきからずっとしがみ付いて離れないこんちくしょうの頭を撫でてやって、私はこの瞬間のために溜めに溜めたあの言葉を云い放ってやろうとした。
「もう、私から離れる――」
「ばかっ」
頭突きされた。何故だ、不憫過ぎるだろう。
「どうして、いつもそんな無茶なことばっかりするの」
「いや、それはお前の方だって」
「ここがどこだかわかってるの、下手したらニィルも世界の収束に巻き込まれて消えちゃうところだったんだよ」
そんなことを云ったら、こいつは宇宙を粉々に砕いた張本人である……が、今はそんなことをわんわん吠えている場合ではない。なにより、リズの生み出す拡散宇宙――プトレマイオス宇宙の崩壊によって、新たに収束された宇宙――コペルニクス宇宙が形成され始めているのだ。このままでは、カルデアの渾天内部に存在する私たちも宇宙の一部と化してしまう。そんなのは断じて御免被りたい。私は、何の因果か分らずこんなこんこんちきな場所まで来てしまったが、至極常識に捉われた善良たる一般人なのだ。
「帰ろうか、リズ」
再び、私は手を差し伸べる。リズもそれに掌を重ねる。
星屑の海が足下を撫でていく。それは拡散した世界の名残。カルデアの渾天。
眼前に広がるのは無量大数の世界の結晶。その砂漠を私とリズは歩んでいく。
急がなくてはならない。 十字路通りにある、パスタのお店が閉店する前に。
私とリズの休日は、まだ終わっちゃいないんだ。