前日譚 流星少女 -meteor girl-
天に散りばめられた光の粒。
誰の世界にも存在しない、私。
凍えるように寒くて、呑み込まれるほどに拡がった静寂の夜。
その女の子は、流星と共にやってきた。
あれは今から、三千七百二十八日と二十二時間四十五分三十三秒前のこと。
商店街を縦横断する十字路通りにある喫茶店。ほろ苦いコーヒーと温かい紅茶が売りであるそのお店が、私とニィルのお気に入りの場所だった。
学校の帰り道。いつものように二人揃っての寄り道。ニィルが硝子側の席で、私が内側の席。些細なことかも知れないけれど、そこまで含めて私たちの暗黙のルールだった。ふたりだけの、きまりごと。
紅茶を啜る私の顔をニィルはいつだってにやにやした顔で眺めてくる。その視線を浴びて、私はいつだって満足する。今、目の前にいるニィルの世界に確かに私は存在するのだと実感して、それがとても心強くて、安心しきって、そして嬉しくなってしまうのだ。
「そう云えば昔さぁ」
毎度の事ではあるが、毎回ニィルは同じ切り口で話を始める。彼女は自覚していないかもしれないが、この話題とまったく同じ内容の話をするのは私とニィルが出逢ってから今日までで二十四回目だ。
そして彼女自身は既に忘れてしまっているのかも知れないが、私は彼女と初めて出逢った日の夜を忘れない。
世界からも、時間ですらも見失ってしまう私を、この世界でただ一人みつけてくれた彼女のことを、ずっと。
三千七百八十何日前だったかのこと。
子供だった私は祖父であるジョスおじいちゃんから、隣に住んでいる女の子の噂を訊かせてもらった。その女の子はとても腕っ節が強いらしく、近所の男の子たちでも敵わないくらいのお転婆娘で、近頃は私たちの住む街の中だけに留まらず隣町の方にまでその勢力を伸ばし始めているらしい。世界に弾かれてしまった私には想像も出来ない規模の話である。どうやらおじいちゃんはその女の子のファンであるらしく、将来はお嫁にもらいたいくらいだと笑っていた。
おじいちゃんの書斎で本を読んで暮らすことしか出来ないでいたあの頃の私にとって、自らの意思で世界を拡げていけるその子の生き方が、とても羨ましかった。
三千七百二十七日前。季節は五度目の冬になっていたが、時間の外れた場所で籠城を決め込んでいた私にとっては何の変わり映えもしない毎日の連続に違いはないと思い込んでいた。爛々とした顔でおじいちゃんが持ってきた、流星群のパンフレットを見るまでは。
科学者だったおじいちゃんは殊更天文学の研究に熱心だった。その日も良い機会だからと幼い私の手を引いて、おじいちゃんは夜の広場へと繰り出した。
広場には黄昏時にも関わらず既に大勢の人で溢れていた。私は逸れないように必死におじいちゃんの手にしがみ付いていたのを覚えている。それこそ、死に物狂いだったのだ、世界に観測されない私にとっては。一度おじいちゃんが私を見失えば、もう二度と彼が私を見つけ出すことは出来ない。それが『世界に置いていかれた者』の末路なのだから。
人々の期待するざわめきが落胆へと変化していったのはそれからすぐのこと。冬の空には分厚い雲がもくもくと立ちこみ始め、ついには雪まで降ってくる事態になってしまった。これでは天体観測どころの話ではない。
最後の最後まで粘っていたおじいちゃんも、さすがに諦めざるをえなかったようでがっくりとした様子で帰路に着こうとした。その時だった。雲の切れ間から、蒼然たる星の煌めきが垣間見えたのは。
第一目撃者の歓声を皮切りにして、一斉に人々が夜空を仰ぎ見た。おじいちゃんもそのひとりだった。既に一筋の流れ星は消え失せ、分厚い雲の壁が憎たらしく阻んでいただけで、そして落胆して顔を下ろしたところには、それこそ一瞬の星の煌めきのように、私の姿は存在しなかった。
あの時、とっさのことで手を離してしまったことをおじいちゃんはずっと後悔しているようだが、私はさして気にしてはいない。確かにその後の数時間を考えると、子供ひとりで冬の夜を彷徨っていたのは生命活動的にも恐ろしいことかも知れないが、それでも私はおじいちゃんに感謝しているのだ。
あの夜。あの時。あの瞬間。無意味だと知りながらも、世界の表舞台に私を連れ出してくれたおじいちゃんのことを。
冬の夜は寒く、夜の雪は残酷なまでに私を追い詰めていく。
誰に知られることも無く、誰に見つかるわけでもなく、ただ道端に落ちている石ころのように、私は冷えていく身体を摩って震えていた。
繋がれた手が弾かれた瞬間、私は広場を離れることにした。あのままその場に立ち続けていても、私は誰の目にも観測されることはない。だから群衆の中にただ茫然としていても、蹴り飛ばされるデメリットこそあれ、メリットなどなにもないのだから。
気付けば街の外れにある丘の上まで私は来ていた。
夜空には相変わらず灰色のカーテンがたなびいていたが、不幸中の幸いか雪は降りやんでくれたようだった。
歩き疲れ、凍える身体を抱き締めるようにして私はベンチに座った。見上げてみてもそこにはあの美しい煌めきの筋は見えやしない。
そしてこのままひとりぽっちで消えていくのだろう。幼心に、そう決心した。
――五秒前。
死神の笑い声みたいな風の音。
――四秒前。
灯の消えかかった街灯。
――三秒前。
遠くに見える家々。
――二秒前。
漠然としていく視界。
――一秒前。
近付く、足音。
――わりぃ、遅れた。
見上げるとそこには雲の割れた隙間から降り注ぐ流星と……傷だらけの女の子が立っていた。
「お前が今夜の決闘相手か、覚悟しろよ」
それが、私とニィルの出逢いだった。
その後、決闘相手と勘違いしていたニィルに抱きついてわんわん泣いていた私を汗だくになって街中を走り回ってくれていたおじいちゃんが見付けてくれた。奇跡とも云えるニィルに観測されたことによって私はまた一時的に、この世界へと戻ることが出来たようだ。
何がなにやらと云った様子のニィルの顔を、私は今でも鮮明に覚えている。それでも彼女は家に帰るまでずっと私の手を握っていてくれた。
それから私は、しばしば彼女に連れ出されるようになった。ニィルが居てくれたから私は戻って来ることが出来たのだから、拒む理由などありはしない。むしろ今現状を含め慕い続けている真っ最中なのだ。
彼女と出逢い、そして友達になった日から七百五十四日と十五時間六分四十二秒後のこと。私は今まで伸ばしたまんまだった自分の髪をばっさりと切り落とした。ニィルが私のように髪を伸ばすと云ったから、私もニィルのように髪を短くすることにしたのである。
その初お披露目の日。ニィルは私の前髪に今まで自分が付けていたお気に入りのヘアピンを刺してくれた。感極まって私はまた泣きそうになってしまう。だって、これでようやく、私は彼女の一部になれたのだから。ニィルのためだけの私でいられると、そう感じたのだ。このヘアピンこそが、私が私で在り続けられる理由。
だから、ニィルも私を見失わないように。私だけを見つめ続けてくれるようにという想いを込めて、私が愛用していたピンクの眼鏡をプレゼントしたのだ。彼女の容姿には、まるで似合ってはいなかったのだけれど。
決して口には出さないけれど、でもきっとそれでも彼女は私の手を離さず掴まえたままでいてくれるはずだ。
そんなこんなで、私は毎度彼女の語る穴だらけの昔話に耳を傾けている。彼女が忘れてしまった過去だとしても、私が世界に置いていかれてしまった存在だとしても、私だけは覚えている。
「リズのじいさんって、いま幾つだっけ?」
「今年で七十三歳」
ニィルが訊いて、私が応える。
そう、きっとこんな一瞬のうちに見失ってしまう流れ星のように儚くて他愛のない記憶だけれど。たとえ暗闇の中をもがくように漂う無限の星屑のひとつだったとしても。
彼女が私を観測し続けてくれる限り、私は、永遠に。