さらば三兄弟 の巻 89
つまり高天原でもそれはぽとり、落ちる。すすけている、などとはもはや言えまい。もとより黒いその身に磨きをかけて烏は開いた嘴から、ぽ、と煙を吐いだ。
「や、八咫を、なめては、いけまへん、よぉ……」
「八咫っ!」
声に天照は天浮橋を飛び降りる。穴だらけの雲を飛び越え烏へ走った。
「おお、これは畏れ多くも天照御柱自らおこしいただくとは。それもこれもすべて八咫の失態。面目ない次第にございます」
烏は目をしょぼしょぼさせて詫び、うんうん、聞いて天照はその口を開いた。
「自らよく矢に当ってくれた」
「お声はいつでも、八咫の耳に。おかげで祓われ、もう、いつも通りの八咫でございますよ」
ほほほ、と苦笑いで烏は返す。
「それより野は、野はどうなっておりますか」
確かめんと、痛む体を起こしていった。
言葉にはっ、と我に返ったのは天照だ。雲の裂け目から急ぎ足元をのぞきこむ。たちまち、ああっ、と呻いて両の手を己が頬へ押し付けていた。
それほどにも、もう何をどうすればいいのか見当がつかない。祟りはどうにか祓えたものの、この騒ぎに野は、いや見回せばこの宇宙がか、外れたタガのまま均一に戻らんとゴミを漂わせだぷだぷ、うごめいている。
目にしたなら溺れておるのは天照も同じであった。高天原の雲も穴を大きくする中で、狂ったように野へ手を差し出す。
「たく、仕方ないねぇ」
そんな天照の声がかすかに届く、こここはさらなる高みだ。見おろし女はこぼしていた。
待ち合わせは今も変わらぬ国中之柱であったが、立てた姿はもうどこにもない。だからしてあったろう所で屈み込み、足元の様子を眺めていた男もすくっ、と立ち上がっていた。
「お、またお前から声をかけたな、伊邪那美神め」
開く肩で振り返る。
「は、あんたがトロいのさ、伊邪那岐神」
口ぶりに女も返した。
さて顔を合わせるのは黄泉津比良坂で別れて以来か。そもそも黄泉の国ですっかり変わってしまった伊邪那美神の姿だったが、駆けつけたそれはいくらも整っている。まとった衣も美しく、なびかせ伊邪那美神は伊邪那岐神へと歩み寄っていった。
「どうりで黄泉の国も騒がしいはずだよ。なんだい、こちとら命、賭けて産んだ大八島だってのに」
見つめる顔は苦々しい。
「立て方が甘かった。鳥に蹴られて倒れるとは不甲斐ない」
並ぶ伊邪那岐神も隣で眉をひそめてみせる。
「ともあれ、これではお前が一日に千人黄泉の国へ連れ込んで、こちらが千五百人産ませる勝負の決着もつかんことになる」
顔を伊邪那美神はちらり、盗み見ていた。小さく笑んで、その目を再び野へ向けなおす。
「なら、一時休戦で文句はないね」
口調は実にさっぱりしたものだろう。
「するしかあるまい。何より造化三神の命だ」
伊邪那岐神も迷わず懐へ手を伸ばした。すかさず伊邪那美神も己が懐へ差し入れたなら、互いに取りい出したる物はそう、どこへ行ったか誰もが不思議に思っていたハイテクノロジーのあの矛だ。最初、泥であった野を固めたそれは二つに分けられると、二柱がそれぞれ大事とかくまい続けていたのである。
「久しぶり過ぎて、うまくできるかしら」
「うむ、やり方を忘れてしまったかもしれん」
などといぶかる双方がすけべえであるとか、ないとかはさておいて、国造りと未来のため、女男が合体するは定めなのである。
ゆえに、そうら、で握る矛を二柱は高く頭上へ持ち上げた。掲げたそこでぴたり、一つと組み合わせる。長らく使っていなかったのだから不安はあったが、さすが造化三神が持たせたものだ。たちまちぶうん、と音は鳴り、温度は上がってばりばり辺りへ白くプラズマ、飛び散らせた。技術確かと勢いも猛烈に、ひとたび動作し始める。
吹き飛びそうな矛を、二柱は手に手に固く握りしめた。そうして狙い定めるのは、火を噴き終えたうがつ穴の真ん中だ。三輪の山がありしところへ切っ先を、力の限り振り下ろす。
叫ぶ天照の傍らを、矛はそらものすごい勢いで突き抜けていった。
やがて泥に揉まれるつくしの、剥がれた空からぶわ、と姿を現す。
様子など空から大岩が降ってきた、と記されてもおかしくないほどの唐突さで、伊邪那岐神と伊邪那美神の振り下ろす矛は果てにずどん、野へ突き立った。
弾けて泥が、再び波とめくれ上がる。
立った波と波が激突し、せめぎ合うまま高く空を駆け上がった。その影が野へ落ち、やがてもんどりうつと波は野へ降りかかる。かぶって星中から、わぁっ、と悲鳴は上がっていた。かまわず捻じれ、そのねじれを思うがままにほどきながら、泥の波は天津神も国津神も、大国主命もその幸魂も奇魂も、溺れていた野の者らも、住まう獣も、魚も鳥も全部、全部、飲み込んで、この世の果てまで押し流してゆく。
雲太っ!
京三が呼び止める。
荒れ狂う野はもう遠く縮み、塩を使い果たした雲太らは天照に分け与えられた魂のみとなって、破れた兵士か天津神らか、数多、魂と共に光となり宙を飛んでいた。
そんな雲太らの目指す先には輝く一本の柱が立っている。それが何であるかなど、知ろうが知るまいがひどく懐かしいのだから天照で間違いない。
あれは、伊邪那岐神と伊邪那美神の矛かッ。
振り返って雲太は言う。
そうです。これで野は再び元通りと固まるはず。
京三が力強く返してみせる。
きっと、きっと、元通りにしてくれるんだぞっ!
振り上げた握り拳が見そうなほどに、和二もそこへ加わった。
だったとして。雲太は思いふける。
みなは、つくしは無事か……。
約束はでまかせとなり、気が気でならない。しかし今となってはもう雲太に知り得る手立てはなかった。
命が、命がついておられます。
迷いながらも言い切ったのは京三だ。
今度は日差しとなって野へ戻りましょう。見えぬからこそ、つくし殿は感じ取って下さるはずです。会いに、探しに、向かいましょう。
だったらおいらはどこを照らそうかな、と早くも思い巡らせる和二は呑気なものである。けれど京三の言い分は、雲太の思いを断ち切らせるに十分だった。
果たしてわしはあの木であったのだろうか。思い、いやどちらでもかまわない、ただそれがよかろう、とうなずき返す。
雲太らの前で光はもう余るほどの大きさとなっている。なら眩しいが柔らかいそこから、よく戻りましたね、とねぎらう声は聞こえていた。
開かれたように見えて、中へ身を溶かしてゆく。
雲太らは柱の中に、懐かしくもしっとりと包み込まれていった。
ついに、むわさ、と矛から塩は吹きだす。
伊邪那岐神と伊邪那美神はここからが腕の見せどころだと慎重極め、在りし日と同じく野をかきまぜ始めた。
こおろ、ころころ。
こおろ、ころ。
唱える声に合わせて吹きだした塩と泥が混じり合う。波は静まり、それが人とて山とて天津神とて、やがて野にあるべきものは泥の中から浮かび上がって、うがつ穴は綺麗さっぱり埋め合されていった。整うカタチに緩んでいた星もみるみる縮んで引き締まると、浜は浜、海は海、野は野と、在りし日のままに線を引いてゆく。