尽きぬ富 の巻 76
「お空から……、お空から降りてこられますっ」
否やむりむりと雲太の手より、角髪に結われた髪は姿を現した。続いて穏やかな眼差しは牛をとらえ、髪に差された穀の穂もたわわと五穀豊穣の神、瓊瓊杵尊は現れ出でる。萌木色の衣をゆらり、ゆるゆる、なびかせて市に立つと、花びらでもつまむように三本の指を口元へあてがった。すり合わせつつ、ふう、と吹きかけた息は柔らかい。飛ばされて、何かは指の隙間から現れ出でる。小さなそれは風に乗ってくるくる舞い飛ぶと、牛の体へ、市のあちこちへ、所かまわずくっついていった。
種だ。
証拠に見る間に芽吹いてゆく。
光景に雲太らは眉を跳ね上げ、あいだにも若芽はどんどん背丈を伸ばし、通りに、立ち昇るすすに、踏み潰された大屋根に根を下ろして緑を茂らせた。
その根に絡まれ、牛の動きが鈍ってゆく。足を地に縛りつけられて引き剥がそうと首を振った。かなわないなら鈍い鳴き声を市に響かせ、背を膨らませる。だが緑はそれさえ絡め取ると牛を覆い、覆ったところから牛を土くれへ変えていった。変えて市のただなかに、こんもりとした小山と牛を鎮めていった。
だが緑の勢いはまだ止まらない。その後も青々と葉を広げ、小さな花をつけたかと思えば落として根元を膨らませる。
おかげで見渡す限り一面だ。
市は黄金色に染まっていた。
頭を垂れる穀の畑と、今やすっかり姿を変えてしまう。
「なくした財の代わりです。みなで刈ってお分けなさい」
吹く風に市中がざざざ、と音を立てていた。その見事な出来栄えにも、すっかり秋めいてしまった風景にも、雲太らは、いや雲太こそが目を見張る。なぜならその時まこと市は錦と輝いて、雲太の目の中、すすと消え去ることのない確かな財を果てなく広げていたのだった。
あくる日。黄金色の市を、沈みゆく日が真っ赤に染める。
そのいくらかはすでに訪れた者らに刈り取られ、今もなお多くの者が仕事に励んでいた。瓊瓊杵尊と獅子が去ったところに塩の柱も立っていたなら、ひとすくい持ち帰ろうとする人の列も切れる様子がない。
さて、銅銭はすすと舞い上がり土くれとなったうえ、すべては貧乏神の仕業であったのだからシソウの落ち込みはひどいものだった。何も知らず今日にも市を訪れた者らも同じで、懐で、袂で、すすと消えてなくなってしまった銅銭にひどく嘆き悲しんでいる。
それもこれも、あまた国津神らが行き交う市であればこそ、悪しき者も紛れ込みやすいのでありましょう。こぼした瓊瓊杵尊は、ゆえに市を治める神として祀るがよい、と雲太らへひとつの石を残していた。それはのんびり座った牛の形に似た石で、牛山を背に社を建て納めたなら、たとえ刈られた穀に牛山が解き放たれようと二度と暴れることはない、という。
その石を雲太はシソウへと差し出す。
「承知いたしました。このような災いを招いた大国の者として、二度と起こらぬようお祀りすることを、再び市を豊かとたてなおすことを、ここにお約束いたします」
昨日、一日、嘆いたことでどうにか落ち着きを取り戻したシソウは穀の刈り入れにも精を出したせいか、今では憑き物が落ちたような面持をしている。見送りに出てくれた市の外れでしかと石を受け取ると、雲太らへ深々と頭を垂れていった。
見て取り雲太も眉を下げ返す。
「なに、貧乏神に憑かれ、わしも危ういところであった。だからしてお前がダイコク銭に憑かれたのもよく分かる。しかしそんなわしが元へ戻れたのも兄弟や嫁がおったからこそ。お前も周りの者を大事にするが、まこと富める道だとわしは思うぞ」
最後まで耳を傾け聞くシソウに、もうたてつく素振りはない。
「はい。刈った穀を持ち、明日にでも一度、村へ帰る心積もりでおります。よくぞ田畑を守り、待っておったとタカに詫びねば……」
「大丈夫ですよ。戻れば必ずタカ殿は喜んでくれます。村といい、市といい、シソウ殿こそ大変な目にあわれましたね」
京三が肩を落とすシソウの肩を撫でた。
「いえ、どれもこれも荒ぶる神のなされたこと。わたくしには、どうにも」
などと浮かべたシソウの笑みはどこかせつない。おかげで兄弟は顔を見合わせることとなる。うん、とアゴを引いたなら、心配するな、と雲太は呼びかけていた。
「出雲へ着いたならこのことは国造りを進めておられる御仁へ、わしらの口からしかと申し伝えよう。御仁が奮えばこのようなことは二度と起こるまい。だからしてシソウもくじけることなく市に村に、みなのために尽くせ」
聞いたシソウの目がたちまち丸くなってゆく。
「旅の途中であるとうかがいましたが、そのような旅であったのですか」
感心して、かわるがわる三人の顔を見比べた。前で雲太らは照れてはにかみ、つくしがくすくす笑ってみせる。
見守る日はいつしか山肌を滑ると、今にも葦の茂みへ隠れそうだ。少しでも早く出雲へ辿り着きたいならこうして名残惜しんでばかりいられない。雲太は、しからば、とシソウへ頭を下げる。シソウも旅の無事をお祈りいたします、と深々体を折ると、歩き始めた雲太らが見えなくなるまで見送った。
果たして貧乏神にあれほどの力はなく、与えたのはいかなる者か。道すがら雲太らは話し、すぐにも京三が、貧乏神が消え入る間際「ぬし様」とこぼしたことを思い出す。聞かぬ名に、これもまた探す神の仕業か、と勘ぐれば、雲太はことのほか眉を詰めてゆくのだった。
そんな誰もの前に最後の山はそびえ立つと、近いのは出雲のみならずそんな神やも知れぬ、と思いを過らせる。
抱く誰もの足元から道はまっすぐ伸びていた。背から日もまた力強く差して、押され雲太らはまた一歩、大国主命の元へと歩みを進めるのだった。
かたやはあはあ、と息が荒いのは烏だ。
「途中でばらばらになられるなどと。足は三本あろうとも、さすがの八咫もこの身は一つにございますよ」
何しろ市で目にした八十神らを追えば、馬にまたがった八十神らは四方八方へ散り散りとなっていったのだから一大事だ。しかも馬は神が手綱を引く神馬である。足の速さは獣と比べるにあたわず。すぐさま空へ舞い上がるとこずえを草原に変えて疾風となり、追いかける烏をたいそう戸惑わせたのだった。
だからして一頭に定めた烏はその後を追っている。山たる山を飛び越え、流るる川に鏡のような湖をまたぎ、やがて野も奥深きところ、人里離れた山の懐へたどり着いていた。
さて、たどり着くまで周りなんぞ見ておる暇のない早さだったのだから、どれほどの時間をどこまで飛んだのか烏にはよく分かっていない。ただ辺りはすでに闇に覆われ、虫も遠慮がちに鳴く夜と様子を変えていた。ただ八十神が目指す先に立つ社には覚えがあり、おや、と気づいて首をかしげる。
「足名椎命と手名椎命のお社ではありませんか」
そう、足名椎命と手名椎命といえば素戔嗚の嫁、櫛名田姫の両親だ。その名にも刻まれておるとおり足名推命は足がべらぼうに長く、手名推命は手がべらぼうに長い、天津神であるところの素戔嗚と縁を持ったことですっかりハクもついた国津神だった。その社はこんもり茂った楠の下に見えている。
と、こんな時間にもかかわらず八十神は、迷うことなく戸板を滑らせ中へ上がり込んでいった。
あまり行儀のよろしくない兄弟神らであることは烏も重々承知しているが、これではあまりに無礼が過ぎる。烏はいぶかり、ようよう息も整ったところで再び翼を広げた。とまっていたこずえを離れ、社の屋根へ舞い降りる。とんとん三本の足で跳ね、反った屋根の合わさったところ、ちょうど烏の大きさならば潜り込めそうな煙抜きの穴を目指した。
どうも盗み聞きするようで心苦しいが、致し方なしだろう。何の用があってのことか、中へそうっと頭を潜り込ませてゆく。