尽きぬ富 の巻 72
「けぇにぃいっ」
おかげで和二は一人ぼっちである。取り残されて声を上げ、雲太らと共に大屋根の向こうへもぐりこんで行ったつくしを諦め京三を追いかけた。
その背がふらり、大屋根と大屋根の間へ消えたなら、和二も飛び込み裏手へ飛び出す。野はそこに葦を茂らせ広がると、品々に気を取られて下ばかり向いていた目へ、雲の流れる空を久方ぶりと映し込んだ。日はもうその真上を過ぎており、和二へ日暮れが近いと知らせている。にもかかわらず京三は気にかけず、どこへ行ったかと探す和二の前、背丈まで伸びた葦の茂みへ潜り込もうとしていた。
見失っては大変だ。再び跳ねて和二は走る。右、左、背丈より幾らも高い葦へ手をかけ、自らも中へ肩を押し込み分け入った。思いのほか混んでいたなら、ふん、ふん、息を弾ませ奥へと進む。
やがてさらさら、水の音は聞こえていた。葦の隙間から川べりに座り込む京三の後姿もかすかにのぞく。目指して最後の葦をえい、と和二は押しのけた。ついに京三の後ろへ出たなら、ふう、と吐いた息で、立てたヒザの間へ顔を埋める京三の様子をしばしうかがう。そんな和二に気づいているだろうに、京三が見向きもしなかったなら和二もまた腰を下ろすと、真似ていそいそ、隣でヒザを抱え込んでいった。
「うんには、おかしいのだ」
川へ向かい言い放つ。
「出雲へ行くのは、おいらたちの大事な命なんだぞ。あんなことを言うのはきっと酒を飲んでいるからなのだ。いっつも見ているから、おいらにはわかるのだ。そんなうんにいの尻は、おいらがぺんぺんしてやる。な、けいにい」
振り返ると呼びかけた。
「今すぐ、うんにいを連れ戻しにゆくぞ」
誘うが京三に動き出す気配はない。
「どうした、けいにい」
首を傾げてもしや、と和二は思い至る。
「けいにも、腹が痛いのか」
それにもうんともすんとも返してこなかったなら、弱って和二は眉をへこませた。
「なあ、けいにい。つくしはついていってしまったぞ。おいらたちはいいのか。それにもう日が暮れてしまうぞ。いつまでここにいるのだ。また屋根を借りるのか。ぺんぺんは明日でいいのか」
これにもさっぱり京三は答えなかった。まさか眠っておるのではなかろうか。思い、和二はそうっとヒザに埋もれた京三の顔をのぞき込んでゆく。
どきん。
胸が音を立てていた。銅銭を握りしめた京三は、そこで声を殺し泣いている。これまで何があろうと大丈夫です、と和二を励まし、気丈と雲太をいさめてきた京三だった。そんな京三が泣いておるなど、たちまち和二の脳裏に、これはとんでもなく大変なことになってしまったに違いない、と思いは過る。なら、これから一体どうなってしまうのか、心細さに襲われて、和二の目へもおっつけ次から次へあふれんばかりと涙はたまっていった。
と見つめる先で、わずか京三の額はヒザの間から浮き上がる。
「……わたしたちは、食うために、歩いておったのではありません」
絞り出すような、それは声だった。
「……楽しむために、ひもじい思いを堪えておったのでも、ありません」
その声は怒りに震えてもいる。
「それもこれも野が……、野が、ひもじい思いをすることもなく、みなが楽しく暮せるようにと願えばこそっ!」
などと急に大声を出すものだから、ついに和二も泣き出していた。
声にごり、と奥歯を噛みしめた京三のこめかみがくぼむ。堪えきれやしなければ、おっつけ吹き出すように嗚咽をもらした。
それきりだ。悔しくて情けなくて、声を上げておいおい泣く。心細くて怖くて、ぶえぶえ、びいびい、和二もそこへ泣き声を重ねた。なだめる者がいないのだから仕方ない。涙が果てるまで二人はひたすら泣き続けた。
果たしてどれほど経っただろうか。揺れる葦の先へ夜は迫り、そんな空を突き破らんばかりがば、と京三は、濡れた顔のまま立ち上がる。
「わかりましたぁっ!」
まだ喉は、ひっくひっくと音を立てていたがかまわない。
「当てたというなら全ては雲太のダイコク銭で間違いなしっ! だのに分けて与える大国が間違っておるのですっ! 行ってわたしが全てもらい受けます。牛だろうと馬だろうと、引いて抱えて出雲へ向かいますっ!」
そうして結んだ唇は、それでもまだ言い足りない何かにうごめいた。堪えて尖らせ京三は、肩で風切りきびすを返す。大股でざくざく、茂みを後にしてゆけば、置いてゆかれそうになった和二が血眼となり追いかけた。そんな和二へ京三は、大国が閉まっておれば話にならぬから、と明日、朝一番に向かうことだけを告げている。
その夜、二人は、どこぞの大屋根の裏で身を丸めた。ナベがないのだから粥は炊けない。果たして雲太が騒いでいるのかどうなのか。通りから聞こえてくる喧噪を背に、冷たい風にさらされ芯まで冷えて眠りについた。
翌朝、川のせせらぎに肩を叩かれ目を覚ましてからというもの、和二と京三は言葉を交わしていない。互いは黙ったまま川へ下ると、口をゆすいで腫れぼったい顔を洗った。
いつも朝げはナベの残りであったが、炊いていないのだからあるはずもない。投げ与えられた銅銭を使う気にこそなれず、二人はそそくさ出立の準備を整える。早くから賑やかな通りを大国の大屋根目指し歩いた。
道すがら、もうどの大屋根にもムシロの品にも惑わされることはない。
辿り着いたそこで赤い布を払いのける京三の手もまた、食っておらぬとは思えぬほどと力が入っていた。