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来 神 ’  作者: N.river
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つくし の巻  60

 さて、とはいえここは山の中である。カワヤなど探したところであろうはずもない。だからしてどこですませようがかまいはしないのだが、落ち着くところを探してしまうのが人の心だ。

 どの辺りがよいか。雲太はしばし茂みを下って歩く。前に低い木立が立ち塞がったなら、この向こうがよさげだと、がさごそかき分け通り抜けた。とたん風は吹き上がる。また鳩の仕業ではなかろうか。思わずにはおれないほどの景色は目の前に広がっていた。

「おぉ」

 見渡す限りと足元に青い山は連なっている。遮るもののない空は手が届きそうに低く、真っ白な雲をとうとうと流していた。向かって突き出るお岩は一枚、足元にある。一歩、踏み出す心地はまるで吸い寄せられてゆくようだ。

「野は、これほどまでに広いのか……」

 創りたもうた天津神らの力に、雲太はついぞ言葉をもらす。やおらうぶぶ、と身を震わせた。残念ながら震えは天津神らの力を畏れてのものでない。我慢もここまで、という合図だろう。だとすればこれほどの場所はない。たどり着けたことこそ天のお導き。ようし、と雲太は岩の上でくくり袴の腰ヒモをほどく。岩の縁に立つと空へ向かい、そうら、そらそら、で小便を放った。

 緩やかな弧を描いて舞う小便は、日の光を浴びると虹がごとくきらきら輝き、そんな虹の下に芦原の野は広がる。もう痛快でたまらない。得意満面、有頂天だ。天まで届け、と雲太は小便を飛ばしに飛ばす。

 その背で茂みががさごそ、揺れ動いたのはその時だった。やっぱりおいらも行く、というのはこれまでにもいくらかあったことで、和二だな、と雲太は振り返る。たちまち、うひゃ、と跳ね上がった。小便が散ってまた、うひゃひゃ、と跳ね踊る。なにしろ茂みをかき分け姿を現したのは見も知らぬ娘御だ。これはえらいところへ現れたものである。とにもかくにも雲太は小便を切り上げにかかる。だがそれこそ思うように止まらない。そして娘御に、叫んで逃げ出す気配もなかった。それどころか岩の上をまっすぐ雲太へ向かい歩きだす。なおのこと雲太はうろたえ、娘御はそんな雲太の背をそそ、と通り過ぎると、岩の切っ先から空へ足を繰り出した。

「な……」

 次の瞬間、娘御の体はひゅっ、と岩の下へ吸い込まれる。

 いかんっ、と思えば雲太の小便もここぞで切れた。

 身をひるがえす動きはつむじ風より早く、岩の切っ先に腹ばいとなって雲太は娘御へ手を伸ばす。触れたところで力の限りに掴んだ。

 ずん、と重みが雲太へのしかかる。

 堪えて雲太は目をつむった。

 ひとたび開けば目も眩むほどの深さで谷は、そこにぱっくり口を開いている。めがけて伸ばした手に娘御はぶらさがると、風に吹かれて今にも落ちてしまいそうに揺れていた。

 そんな娘御が雲太へアゴを持ち上げてみせる。

「何をなさるのですか。どうぞその手をお離しくださいっ!」

 言うものだから、雲太の目は白黒、裏返っていた。

「な、何を言っておるかッ。離せば落ちる。落ちたら死ぬぞッ」

「そのつもりで、ずっと山を歩いておったのですっ!」

「い、一体、お前は何をしておるのだッ」

 唖然とすれば、これまたあり得ぬことに娘御は、ぺしぺし、握る雲太の手を叩いて嫌った。

「かまわずこの手をお離しください。わたくしなど、わたくしなど、死んでしまえばよいのですっ!」

 足さえ振って暴れ出せばもう、娘御を掴んだ雲太の体さえずるり、谷へ引きずり込まれてゆく。

「こらぁッ、じっとしておらんかッ。いいかッ、この世に死んでよいものなどおらんッ。それともお前は死んで、みなを悲しませたいのかぁッ」

 怒鳴り雲太は娘御の体を、どうにか両手でつかみなおした。

「いいえ、悲しむ者などおりませんっ! 親はできそこないのわたしを嫌って捨てました。そんなわたくしを誰が嫁にもろうてくれましょうか。生きておっても仕方がないのですっ! いっそ死んだ方がましなのですっ!」

 懲りず暴れてぺしぺしと、娘御はよりいっそうそんな雲太の手を叩く。また雲太の体はずるり、谷へ引き込まれて、もうだめだ、いつしか汗にまみれてさすがの雲太も諦めかけた。だがここで手を離すことこそ出来はしない。とはいえ一緒に落ちるわけにもゆかないならもうやぶれかぶれだ。雲太は叫ぶ。

「わッ、分かったぁッ。わしが嫁にもらってやるッ。だから大人しくしろぉッ」

 そうして口をつぐむと、むぐぐ、と唸って、引きずり込まれかけていた体を岩から浮き上がらせていった。右、左、足を岩へ突き立て踏ん張る。爪先からぱらぱらと、小石は連なり谷へ落ちた。あいだ息継ぎでもしようものなら頭からごろり、谷へ落ちてしまいそうになるのだから雲太の顔はもう真っ赤だ。

 様子を、動きを止めた娘御がおずおず見上げていた。黒々とした瞳に映してひとつ大きく瞬きする。吸い込んだ息に唇を結びなおしたなら自らの手を、握る雲太のそれへ添えてみせた。

 離すまい、と強く握り返してみせる。

 様子にようし、と引き寄せ雲太も娘御の着物へ手をかけなおす。

 ままにかっ、と両目を見開いた。うぉぉっ、と上げた雄叫びで、上背をこれでもか、と起こして反り返る。

 瞬間、娘御の体は宙を舞っていた。まさに釣り上げられた魚だ。岩の上へと放り上げられる。勢いを持て余した雲太もそれきりどうっ、と倒れて身を投げ出していた。

 そよぐ風が静けさを連れてくる。

 破ってあはあ、雲太の荒い呼吸だけが聞こえていた。

 耳に雲太は疲れ果てると目を閉じる。

 と、まぶたの向こうに影はさして、おっつけしっとり冷ややかな感触が雲太の頬に触れていた。火照っていたなら心地よく、誘われ雲太はまぶたをそうっと開いてゆく。間近とのぞき込む娘御の黒い瞳を見つけたなら、ぎょっ、としたのも束の間のこと。冷ややかともう一方の手で、再び雲太の頬へ触れたのだった。

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