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来 神 ’  作者: N.river
53/90

赤い川 の巻  53

 声にごう、と炎は渦巻いていた。なびかせ軻遇突智命は天を仰ぐと、がはは、と大いに笑う。そうして吐き出された熱にあちち、と雲太が身を躍らせたなら、呼び寄せ、こいこい、手招いた。

「わ、わしか?」

 とにかく熱いのだから遠慮したい。だが他に名乗りでる者もおらず、かざす手で熱を避け雲太はどうにか這い寄ってゆく。

「清めた魂はこれに納めたり。川と共に祀るがよいぞ。ん、ん」

 そんな雲太へ軻遇突智命は、つまんだ何かをぽとり、と落とした。急ぎ受け止めた雲太の手にあったのは、一羽の小さな兎だ。しかも焼けて真っ赤に光っていたなら、たまらず落ち穂へ落として雲太はふう、ふう、手へ息を吹きかける。あらため落穂の中から、袖で包み拾い上げた。

 目にして声は、おお、と上がる。袖の中、見る間に冷めてゆく兎はまるで水を固めたように透き通った石へ姿を変えていた。遅れて歩み寄ってきた京三も、すっかり兎へ見入っている。上へ軻遇突智命の声は降っていた。

「そうら木偶ども、夜が明けるぞ! 持ち帰り、見せて里と和を結ぶがよい!」

 むっ、と熱気も増して、軻遇突智命はぽん、と跳ね上がる。再び火球とその身を丸め、仰せの通りに、と雲太らが頭を垂れる間もなく尾を引きひゅるる、と空へ舞い上がっていった。消え入るほどに小さく縮んで、どん、と爆ぜる。

 音に目を覚ましたヤマツがうひゃ、と跳ねた。

 大輪の花はそんな誰もの頭上に白く開く。

 中から飛び出した小さな欠片だけが遠く高天原へと飛び去ってゆき、やがて散りほどけた花からぱらぱら、それは降った。肩からつまんでしばし眺め、雲太はそうっと舌へ乗せる。

 塩だ。

 ひと悶着終えた山を、お岩を、流れる水を、軻遇突智命の塩は清めて優しく降り続けていた。


 軻遇突智命が爆ぜっても逃げず馬が木立へつながれていたことは幸いで、透き通る兎を懐へかくまい雲太はその背へ飛び乗る。

 野原の底はすでに白々と明けつつあった。だが眠気などというものは今、目の当りとした光景に吹き飛んでかけらもない。

 目を覚ましたヤマツはといえば、社でのことをよく覚えていないと言う。だからして雲太は馬を駆りながら毒にまつわる村と里の成り行きをヤマツへ語って聞かせた。マニワの背にしがみついて聞くヤマツはその全てにほとほと驚き、身の上に起きたことを今度は雲太らへ話している。それは昔から社の祭壇、その大甕に川の神のご神託が映るという言い伝えであり、だからしてヤマツはその日、どうしようもない己を見極めるため水源の社へ向かったことであり、すめばすぐにも村へ帰るつもりでいたことについてだった。


 かざした火が揺れ動く。

 辺りはしん、と静まり返って、ヤマツは一人、社を見上げた。

 暗がりの中、浮かび上がった社はたいそうおっかない。だからしてそろりそろり、と高い床へよじ登ってゆく。垂らされた赤い布をめくりあげ、火を差し込み息を殺すと奥へ進んだ。

 ちょろちょろ、ひたひた。水の音は近づいてくる。

 かざす火に、お岩から滴る水のきらめきは見え始め、受け止める大甕もまた、ヤマツの前にふてぶてしく浮かび上がっていった。

 ごくり、生唾を飲んだヤマツは大甕の前で足を止める。傍らへ火を立てかけたなら、はあ、ふう、聞こえるほどに息を整えなおし、村からこっそりくすねてきた染物をひと巻、懐から抜き出した。捧げて床に伏すと、ご神託を請うて強くまぶたを閉じる。

 さあ、果たして何とたまわるのか。思いの限り念じたヤマツは、火を手に大甕の中をのぞき込んでいった。なみなみ満たされた水面に映る己の顔へ目を落とす。

 ままにしばらく、かたずをのんでヤマツは待った。

 だがついぞ大甕にご神託が浮かび上がることはなかった。

 眉をへこませヤマツは肩を落とす。

 きっと染めをせぬ自分は村の者ではないからして、川の神も何も告げぬのだろう。ただため息をもらした。

「どうしておいらはマソホの者だいうに、染め物よりも生き物ばかりが気になるんじゃ。兎も馬も、この手で写してみたいのう。生きとるように彫ってみたいのう……」

 しかしかなわず、村の者らはどうして染めをせんのか、とヤマツを責める。それはマソホにおるのだから当然だとヤマツにも分かった。しかしそう思えば思うほど、染めに心を定めようとすればするほどだ。生き物を写したくて仕方なくなるこの心根だけはどうすることも出来なかった。

「どうしてみな、こんなおいらを分かってくれんのだろうか。マソホに生まれたが悪かことじゃろうか……」

 吐いてぎゅう、と口を結ぶ。今度は水面に映る己の顔を、しかりつけていさめる村の者と見立て睨みつけた。すると水面で顔は、閉じたはずの口をそのとき開く。

「……そうか、お前は野原におる人がそうも憎いか。ならわしが、好きなだけお前に生き物を彫らせてやってもよいぞ」

 聞えた声にも光景にも、ヤマツは目を見張っていた。腰を抜かすもしかりだったが、ご神託を賜りに来たのだ。ついに、と水面の顔へ声は上がっていた。

「ほ、本当でございますかっ」

 さらにぐっ、とのぞき込む。そんなヤマツの後ろ頭へひたり、ぱしゃり、お岩の水は降り注ぎ、かぶった火がじう、と音を立てて消え入った。だが大甕の中に己が顔は映り続け、ヤマツへこう語りかける。

「その代り、お前の体をわしに貸せ」

「お、おいらの体を?」

「そうよ。お前のために、わしは写せるだけを用立てしてやろうと言うておるのだぞ。お前も何か、わしのために尽くせ」

 などと、喜び跳ね上がっていたヤマツも穏やかではおれなくなる。

「それともマソホへ帰るか。もう生き物を写すは諦めたのか。何もよこせといっておるのではないぞ。生き物を写すに石や道具がいるように、わしには降りて宿る身が入りようなのだ」

 その口ぶりは早く答えねば消えてしまいそうで、ヤマツは懸命に考えを巡らせた。そうして、ただ生き物を写してみたい、そのためにここまで来たことを思い出す。何よりマソホを守る川の神が仰せられるのだ。ついに思いもひとところへ定まっていた。

 その時、目は閉じられていたように思い出される。ままにヤマツはえいっ、と水面へうなずき返していた。


「おいらは一度でええから、生き物をこの手で写してみたかっただけじゃぁ」

 野原の端にまあるく日が浮かび上がっている。差す光で今日も、はびこっていた闇をさっさと掃き清めていた。

「そのあと、お岩からたくさんの水が降ってきよって、おいらは大甕の中へ落ちてしもうた。昼も夜も好きなだけ生き物を写したように思う。けれど何が何だかよう覚えておらん。気がついたらこんなことになってしもうておった。毒も戦も……、そのせいでわらしべが捕らわれておるなんぞ……」

 こけた頬を日にさらし、それきりヤマツはうつむいてしまう。

「しかしよう出来た兎の彫り物 で あったぞッ」

 励ましたのは、馬の腹を蹴りつけた雲太だ。京三も思うところは同じだった。

「ええ、生きておるのかと見間違えて追い払おうとしたくらいですっ!」

 そうしてヤマツへこうも続ける。

「悪しき魂につけ入られるすきがあったことは、ヤマツ殿の省みるところ。ですが魂の前に立てば人などひとたまりもないのです。拒むことは至難の業。こたびのこと全てはそもそも、そんな荒魂の祟りがなしたこと。ヤマツ殿も村も里も、みなはその荒魂に祟られておっただけなのです」

 言葉にはっ、とヤマツは顔を上げている。その目で京三を、うなずき返す雲太をとらえた。みるみるたまりゆく涙を、差す日に光らせる。

「おいらが、おいらがしっかりせなんだからじゃぁ。みんな、おいらが生き物なんぞ写したいと思うたからじゃぁ」

 声を上げてヤマツは泣いた。

 引きずり馬は野をひたすら走った。

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