赤い川 の巻 51
「な、なんだッ」
「かっ、川 の 神がお怒りだぁ」
頭を抱えてマニワは叫び、囲まれじりり、雲太も後じさる。
「京三ッ」
呼んで身を沈み込ませたなら、その先は言わずもがなとなった。
「はいっ」
二人して弾かれたように社へ向かい駆け出す。
「御免ッ」
断りを入れ、雲太はぽうんと社の高い床へ飛び上がった。京三もひらり、蹴り上がったところで赤い布を背に目を合わせる。うなずき合うと共に布の向こうへ身を滑り込ませた。
社の中は思うより奥が深い。松明が立ち、床にはカワラケの油へ灯された火がぽつん、ぽつん、と置かれている。のみならずまだ何の形も成していない石も幾つか転げると、ゴゴゴと揺れ動いていた。その奥に岩肌は張り出すと、濡れててらてら、光りを放っている。伝う水はぽたりぽたり、かと思えばしゃぱしゃぱと、床に半分埋まる格好で据え置かれた大甕へ落ちていた。そんな大甕はもう満杯だ。だからして水は床の下へとあふれだしており、前にしてあろうことかマソホの赤い衣をまとった者は立つと、抱えた小甕を大甕へ、今まさに傾けようとしていた。
「そこで一体、何をされておるのですかっ!」
京三が矢と声を放つ。
刺されて何者かは、はっ、と小甕を脇へ抱えなおした。わずか肩ごし、ちらりと雲太らへ振り返る。その目と目が合ったとたん、互いの間で景色は大きくたわんでみせた。まるで石でも投げ込まれた水面のようだ。わん、と波打ち、社の外へと波紋を広げる。風は、その勢いに弾かれ、ごう、と吹き出した。
「なッ」
思いがけぬ勢いに、雲太らの手からかざしていた薪がもぎ取られる。
「あッ」
京三も声を上げた時、背からマニワの声は投げ込まれていた。
「やはりわるさはヤマツ、お前かぁっ」
だが振り返った時にはもう、ぷう、と風に吹き飛ばされて姿はない。
「マニワ殿っ」
それもこれもを眺めて小甕を抱えたヤマツは足を踏み変える。雲太らへ向きなおったなら胸へ埋まるほどと引いたアゴで、ぎろり睨んで目玉を裏返した。そこにじんわり浮かんだ笑みこそ邪悪さに満ちる。
「これがヤマツかッ」
見据えて雲太は奥歯を噛み、ヤマツのアゴは、そのときぐい、と胸から持ち上がった。
「邪魔立てに来たか、この木偶の坊っ!」
声に景色はまたもやたわみ、弾かれごう、と風は吹く。
「何をっ、この身を木偶と知ったるはヤマツにあらずっ」
衣をなびかせ京三も、ありったけの声で跳ね返した。
「そこにおわすはヤマツに祟りし荒魂かッ。毒を放つは魂と見定めたりッ」
切らさずそこに雲太も続く。
「我は、流るる川の魂なり……」
図星とヤマツが強く小甕を抱えなおした。
「束ねておはす御柱のもと、この地を祟る荒魂とならん。邪魔立てするは容赦せぬっ。毒で果てまで流してくれようぞっ」
ヤマツの目が蒼く光る。腹の中まで見通せそうなほど口を大きく開いてみせた。がぁっ、と唸り声を上げて脇の小甕を頭の上へと持ち上げる。ひっくり返して、だくだくとだ。浴びるがごとく中身を飲み干した。ぽい、と小甕を投げ捨てたなら、砕ける様こそあっけない。
放ってヤマツは頭を揺らす。酒にでも酔ったかのように、げふ、と胃の腑のものを吹き上げて、雲太らへ一歩、また一歩と足を繰り出していった。するとどうだろう。その足は、あろうことかつま先から見る間に透けて中に気泡を昇らせてゆく。ヤマツの体を頭の先まで水へと変えていった。
「なにッ」
「そんなっ」
だが驚いてばかりはおれない。雲太が腰を低くした。
「参るぞ、京三ッ」
京三も剣を抜き取る。
「もちろんですっ」
柄頭の布を抜き去る動きに迷いはなく、振って鈴を跳ね上げた。お岩の狭間にジャンジャンジャン、と音は響き、耳にしてヤマツの足もぴたり、止まる。雲太らを睨んでしっかと足を踏ん張りなおしたなら、ひとたび大きく口を開いた。その丸見えとなった喉の奥からだ。ゴゴゴ、と音は迫り来る。見定め雲太も真向、打つ柏手で、寄りあうお岩の狭間から夜空へ祈請を撃ち上げた。
ならヤマツの喉の奥、跳ねる水しぶきが見えたその時だ。泡立ちごうっ、と水はあふれ出す。その量たるや荒れ狂う川のごとし。勢いは崖を駆け下るがごとしか。カワラケに松明を飲み込むと、雲太ら目指し社を走った。
どうん、とぶち当って押し止まる。
高天原からの風だ。
通じて雲太の手より吹き抜けると、そこで流れを堰き止めた。飛沫は四方へ飛び散って、宙で、じう、と消える。入れ替わりと雲太の手に光は灯り、開いたそこに塩は吹いた。吹いて高天原からの風を雲太の手から遮ってゆく。
「後をお願いしますっ!」
目にした京三の動きこそ早い。雲太の背へ身をひるがえすと、肩を押し当て突っ張った。
そこで風はついに途絶える。乗り越え、突き切り、飲み込まんと、ひと思いと水は二人へ押し寄せた。




