赤い川 の巻 43
寒い。
思い、かたや京三はまぶたを開ける。そうしていつの間にか消えている火に気づき、やれやれと身を起こしていった。暗くなれば獣も、もののけも動き出す。火が消えれば寒いだけではなく、そんな気配も気がかりだった。
夕げのかまどへ落ち穂を寄せ、手探りで荷から石を取り出す。カン、カン、両の手に握り打ちつけたなら、飛んだ火花は落穂へ移り、消えぬよう京三は天照が魂を吹き込んだ時のように優しくそこへ息を吹きかけた。かいあって火は静かに大きくなってゆく。隣で大の字になり寝ころぶ和二の姿を照らし出していった。だがもうひとつあるはずの影こそない。気づいてしばし目を泳がせた。
とその時だ。まさに恐れていた獣の鳴き声は、うぉう、うぉう、と聞こえてくる。おぞましきその響きに咄嗟と腰の剣へ手を伸ばし、握りしめて京三は、屈みこんだままの姿勢で急ぎ和二を揺さぶり起した。
「これ、これ」
「……なん、なのだぁ」
目をこすりながら答えて返す和二は呑気なものだ。
「獣の、いえ、なにやらもののけの鳴き声がします。そうは遠くない。ですが雲太がおりません」
おかげで目も覚めたらしい。跳ね上がった和二が京三へとすり寄ってゆく。辺りを睨むと同じに身を低くしていった。
「火を。雲太を探します」
促して京三が立ち上がれば、燃え始めた薪をつまみ出して和二も後ろにつく。二人して雲太の名を呼び、しばし山道をあと戻っていった。
と、どれほど歩いた辺りか、それまで聞いていたもののけの声は頭の上から降ってくる。たどって京三と和二は顔を跳ね上げ、そこで茂る枝葉が激しく揺れるのを目にした。かと思えば割れて何かはどさり、落ちてくる。
様子に上げた悲鳴は二人ともが同じであった。すっかり腰を抜かして後じさり、果たして何が落ちてきたのか。どうにか持ち上げ、恐る恐るとのぞき込んでゆく。
「な、なんですと?……」
咆哮の正体見たり。むしろ身を潜めているもののけの方が逃げ出すに違いなかった。探す雲太はそこにいる。しかもぐお、だか、がは、だか、唸った後で、落ちたことがよほど面白いのか、がはは、と笑いだしていた。そう、雲太はしたたか酔っている。そんな酒がどこにあるのかなど、どちらでもよい。なにしろこたびも違わず素っ裸ときているのだから、死ぬほど驚かされた京三の眉間はとたんぴし、と割れていた。
「……このっ、痴れ者がぁっ」
食らった酒に手足を取られた雲太は今や、やんや、やんや、と踊り出している。
眺めるほどに冷えてゆくのは京三の心持ちで、その顔つきこそ、そらおっかなかった。
「ふん、ここであれば誰の目にもつきはしないでしょう。好きにしておればよいのです。猪なと、やぶ蚊なと、雲太なんぞとっとと食われてしまえばよいのです」
ならこのさい夜など明けない方がよいのだが、しかしながら月は山を下りてゆく。今宵も月夜見の眠たげな欠伸から、朝もやはゆるゆる、吐き出されてゆくのであった。
「おぅい……」
しこうして、朝。雲太はとぼとぼ山道を歩く。先行く和二と京三へ呼びかける声は弱々しく、うつむいていた顔をそうっと上げた。
さて、その顔はといえば、これがひどい。知らぬ者が道端で出くわしたなら叫んで逃げ出してしまうほど真っ赤と腫れ上がっていた。それもこれも京三の言ったとおりだ。酔いに任せて眠った夜、雲太は顔のみならず体中をことごとくやぶ蚊に食われたのである。おかげでかゆいどころか熱すら持つと、鈍くうずいて目覚めた時から雲太をたいそう悩ませていた。とぼとぼ歩くのもそのせいで、すっかりばれた酒の一件のみならず、朝からこうしてうなだれることとなっていたのでる。
「おおぅい……。聞こえんのかぁ……」
二人を呼んでまたか細い声を上げた。
なら京三が面倒臭げに足を止める。細いアゴで振り返ると、その目でまず何ですか、と問いかけてからこう口を動かした。
「……何ですか、雲太」
「川を見つけてだな、なんだその、食われたところをしばらく冷やしたいと思うのだが……」
雲太がおずおず申し出たなら、京三はまたもや口より先に目で、ほう、と語る。
「なにをおっしゃられますか。恩を返しての祠づくりとはいえ、先だっての村でわたしたちは幾らか余分に日を過ごしてしまいました。酒を食らい裸踊りなんぞをして食われたやぶ蚊の手当など、しておれるような時間こそございません」
あしからず、とかしこまって会釈を返す。持ち上げちらり、雲太を盗み見た。たまりかねて、ぷ、と吹き出す。
「なんだ」
様子に雲太は憮然と返すが、京三は、いえ、と返しただけだ。
「ささ、和二。止まってはなりませんよ。後ろの不細工な赤鬼に頭から食われてしまうやもしれませんからね」
聞えよがしに声を弾ませた。なら和二も確かめて振り返る。雲太の顔を見るなり、うひゃ、と飛び跳ね、きしし、と笑ってたちまち、わー、と叫び逃げ出していった。様子に、待たんか、と雲太は声を上げるが、やぶ蚊に食われた顔では誰も止まってくれそうにない。気づけば、これこれ、と笑っていさめる京三にさえおいてけぼりを食らわされていた。
「ふ、二人して、わしのことをばかにしておるな」
とはいえ身から出たさびだ。腫れぼったい顔と体で、雲太もまた渋々、山道を辿ってゆくのだった。