くしみたま の巻 35
しゅっ、と鋭く刃は滑り、後戻りできぬ傷を負わせた証拠と、木くずは血潮のように噴いて雲太の足へ降る。
かまわず鋸を押し戻し、力いっぱいまた引いた。繰り返すほどに刃は幹へ沈み込み、茶色だった木くずも白へと変わってゆく。動きは慣れるほどに調子がついて、鋸の音と散る木くずもかわるがわると雲太の動きへ合いの手を入れた。ヒノキと一体だ。雲太は鋸を引き続ける。気づけば吹き出した木くずが積って足を覆い、息は切れて、にじむ汗が玉と浮かんだ。だがしゅっ、と切り裂く鋸の音と、ぱっ、と散りゆく木くずの間合が乱れることこそない。やがて手が痺れ始めた頃った。その時は訪れる。ヒノキの芯から弾けるような音は鳴り、それまで不動であった幹はふわふわ揺れた。かと思えば遥か空を指していこずえは、谷へ向かって傾き始める。
動きを止めることはもうできない。残りわずかとつながっていた皮もビシ、ビシ爆ぜてゆく。
見上げて雲太は鋸を引き抜き、かたずを飲んで見守っていた和二と京三を呼び寄せた。離れた木立の下へ飛び込んだなら、頭を低く身を隠す。
そんな雲太らを待っていたかのように、山へどうっとヒノキは身を投げ出していた。巻き込まれてあたりの木立から折れた小枝が飛び散ってゆく。地響きもさることながら勢いに吹きつけた風は緑を揺らし、ヒノキの香りを雲太らのところまでふうん、と運んだ。おさまったところでようやくだ。そろそろ雲太らは木立の影から抜け出してゆく。
横たわるヒノキは見上げていた時より、ずっと大きく感じられてならなかった。三人はその立派な姿に見とれてしばしその周りを歩く。だからと言っていつまでも眺めておれば、たちまち日は落ちてしまうだろう。鋸は雲太の持つ一本しかなかったが、枝払いの鎌なら和二と京三もクメから借り受けていた。日暮れまでに必要なだけをふもとへ運んでおきたく、三人は好きにするがよいと身を投げ出したヒノキへ群がる。
ならこの話はたちまち村に知れ渡ることとなった様子だ。そうこうしている間にもヒノキの倒れる音を目印に、手に手に道具をたずさえた年寄りが、和二ほどの子供らが、水の入った筒を抱えて女どもが、山を登って雲太らのところへ現れていた。雲太が礼を言えば、めっそうもないと手を振られ、皆で手分けしてヒノキの皮を剥ぎ、形を整えにかかる。運びやすい長さに分けたなら、そうれ、のかけ声で、力を合わせて山から引き下ろしていった。
祠に要りような分が雲太らの倒れていた山の入口まで運び込まれたのは、まさに空が真っ赤と染まる夕の刻だ。誰もがほとほと疲れ切ったことは言うまでもなかった。だがどの面持ちも晴れ晴れとし、年寄りも子供も女も笑って互いの労をねぎらい合う。それは今日この村を訪れたばかりの雲太らも同じだった。まるでとうの昔からここで暮らしていたかのように、皆と心行くまで笑い合った。
その夜もまた、腕をふるうタカの御馳走になる。
味付けに文句もなければことのほかすいた腹も手伝って、上がり込んだ土座の上、囲炉裏を囲んで三人は昼間にもまして粥をかきこんだ。
そのうちにも集まってきたのは穀や菜や、鹿肉の干物までもを手土産にした村の者たちだ。そうして口々にぜひとも浜で暴れていた龍の話を聞かせてほしい、とせがんだ。気づけば囲炉裏の周りは好奇の目で埋め尽くされ、かたずを飲んで聞き入る村の者へ雲太は一部始終を語って聞かせる。鳥居の身であることについては伏せたが、天からの助けで龍が虫と散っていったことを、祠におさめる和魂こそが操っていた鳩であったことを、包み隠さず伝えていった。途中つい力が入り過ぎて龍と獅子の争う様を事細かに語ってしまったなら泣く子供や怯える女がでたものの、最後はみな手を打ち喜び踊るに終わっている。
囲んだ火は、いわずもがな暖かかった。だが、そんな人いきれがなにより雲太らを暖める。その夜はまさに宴となり、賑やかなままにふけていったのだった。
一晩明けた次の朝。切り出し皮を剥いたヒノキは不思議なほどすっかり堅く乾き切り、その気で雲太らを待っていた。雲太らもまた夕げの残りをかきこむと、意気揚々と祠づくりに取り掛かる。
とは言え、明かせば三人共が祠づくりなど初めでだった。そうそう思うように運ばない。ああだのこうだの三兄弟して頭を寄せるが、過ぎてゆくのは時間ばかりで気づけば昼を前ににっちもさっちもゆかなくなっていた。
そこへひょっこり現れたのは昨夜、同じ囲炉裏を囲んだ年寄りだ。宴のさなか聞いた名前を思い出すにタツノ、と名乗る者だった。それこそ神のお導きか、タツノは途方に暮れる雲太らへ歩み寄ると、自分はもう手がいうことをきかないが、これでも村の住まいを幾つか手がけたことがある者だからして知恵を貸すことはできると言う。それこそ初めて試みる三人に足りないものであったなら、むしろ雲太は頭を下げてタツノに教えをこうた。
そこから先は昨日とまるで同じだ。どうなっているだろうかと様子をうかがい村の者は集まり始め、人手はみるみる増えてゆく。タツノはそんな村人を右へ左へ振り分けると、祠の足場を固めて積み上げる石を探してこさせ、屋根として葺くワラの準備をいいつけた。一方で雲太らへはヒノキの扱いを教え、雲太らも見よう見まねで幾度も失敗を繰り返しながら祠のかたちを整えてゆく。すべてはタカらが世話してくれたことへの恩返しだ。一日も早く稼ぎに出た働き手たちが帰って来るよう、気持を込めて精一杯に励んだ。
などとよく働けば日が落ちるのは早い。仕事を切り上げ住まいへ戻れば道すがら、雲太らは祠が山の入口から少しばかり里へ下りた、田畑と住まいを見渡せる一角に定められたことを知る。そこにはすでに石の土台が積み上げられると、周りに柱を立てる窪みが掘られていた。あたりは神のおわす場所であることを示してカワラケに塩は盛られると、しめ縄すらもう張られている。目にして雲太らは、これはますます励まねば、と気を引き締めた。
二日目の日はしこうして昇ると、気持ちも新たとヒノキの元へ向かう雲太らの足取りも軽い。昨日、失敗を繰り返して身に着けた技も確かと、昼過ぎにも数本ある柱の全てを仕上げていった。