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来 神 ’  作者: N.river
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くしみたま の巻  32

「おとうさぁんっ」

 心地よいほどよく通る澄んだ声だった。それは振り返りざま父を呼び寄せるものだとして、邪な響きこそない。応じる気配もだからして、どこか間の抜けたようなあんばいでもあった。

「ほら見て。人が倒れてる」

 言うのを雲太は聞く。

「おお、ほんに。人じゃ。しかも初めて見る顔じゃ」

「どっちだっていいわ。こんなところに倒れているんですもの、山を越えて来たに違いないわ。すごい」

「おお、おお、子供もおるな」

 かと思えば声は、尻を突かれたかのように裏返る。

「こらいかん、行き倒れかっ」

 だからしてわけを話そうと雲太は思った。だが言われたとおり腹がすきすぎて倒れていたなら、体は思うように動かない。

「そうよ、浜の龍のせいで何も食べていないんだわ」

 いや、腹をすかせているのは炊いて食うナベを失くし、イナゴの包さえ失ってしまったからだったが、これも言ってきかせることはできそうもなかった。そうこうするうちにも声はさらに近づくと、雲太をのぞき込む。

「もし。もし、もし」

 呼びかけられて雲太は、うーん、と唸った。おかげで死んでおらんと分かった声は、そこから先、矢継ぎ早となる。

「もし、山を越えていらした旅のお方とお見受けします。今、何か腹の足しになるものをお持ちいたしますから、どうかそれまで気をしっかり」

 そうしてすくっ、と立ち上がった。澄んだ声を凛と雲太の上で響かせる。

「おとうさん、あたし水を汲んできて穀の用意をするから、急いで窯の準備をお願いっ」

「ようしわかった。火を起こそう」

「背中の、ナベを……」

 その時、ようやく雲太から声は出て、聞きつけ衣擦れの音はまた近づいた。

「おナベ?」

 問いかけたかと思うと確かめて、柔らかい手で雲太を探りだす。

「ナベはどこにもないようよ。あ、でも穀はある」

 触れた背の荷に、小さくこぼした。

「ナベを失くして食えなかったのですね。なら、この穀をいただきます」

 雲太は精一杯にうなずき返す。なら荷の合わせから穀の入った包みは抜き取られて、抱えた気配は遠ざかっていった。

 それは鳩を祓ってから二晩だ。雲太らはひたすら水だけで腹を膨らませると、山道を辿っていた。途中、降りた川で魚へ掴みかかり、目についた実をもいで口へも入れたが、魚は弱った体をあざ笑って逃げ、木の実はどれも食えぬほど渋いものばかりだった。

 もう足が前へ出そうになくなったとき、三人して鈴を鳴らし手を打つかと相談したが、その頃にはずっと下りが続いており、あともう少し頑張ってみましょう、と京三が応じていない。

 だからして山を抜け出し広がる小さな村を目にした時は、誰もが心の底からほっとして、へなへな、腰を抜かすとこうして山のふもとで倒れ込むことになってしまったのだった。

 辺りで何度も足音は行き来する。

 やがて火を吹く音は聞こえ、燃え始めた薪の臭いが漂った。何かを刻んでとんとん、と小気味よい音は連なり、ついに雲太の鼻先を良い匂いはかすめてゆく。

 粥だ。

 思ったとたん、まぶたは持ち上がっていた。それは和二と京三も同じらしい。恥ずかしげもなく三人共がモソモソと起き上がりはじめる。

 前でナベのフタは取られると、もわりと湯気を上げていた。グツグツいう穀の音もはっきり聞こえ、かきまぜ、すくい上げる様を幻のように雲太らは眺める。そうして注がれてゆく汁はまばゆく、満たした椀は雲太らの前へ差し出されていた。

「さあ、たんと召し上がって精をつけてください」

 湧いて出る唾が口からあふれ出しそうでならない。ごくり、雲太は飲みこみ、吸い寄せられるまま夢中で這い寄った。しかと両手で受け取ったなら、中をそうっとのぞき込んでゆく。

 そこには炊かれた穀の粒のほかに、柔らかそうに煮えて透けた大根と、刻まれたその葉が青々浮いていた。味噌も溶かれているらしい。見下ろす雲太の前でゆったり心地よさげと渦を巻いている。

「おお……」

 熱いのでどうぞお気をつけて、と声は言うが、もう我慢ならない。一口、含んだ。おっつけ熱さにほうほう息を吹き、犬のようだった体を起こしてごくり、飲みこむ。熱く落ちた久方ぶりの食い物を受け止めて、とたんねじれるほどに腹は笑った。それだけで血と気は再び巡り始めると、次はまだかと雲太を急かす。せがまれるままだ。雲太は次々、粥を流し込んでいった。

 美味かった。

 一粒、一滴が、体の隅々まで行き渡るようでもあった。

 同じように椀をすする和二が、あちち、と声を上げている。いつもなら美味しい、の一言を欠かさぬ京三もまた無言ですする音ばかりを響かせた。さすれば最初の一杯などあっという間に底が見える。三人ともがだ、同時におかわりの椀を突き出していた。


 膨れた腹がずっしり重い。ふらふらしていた足も今やしっかと地を踏みしめていた。そうして雲太は広がる里を、その向こういそびえる次なる山を、気持ちも新たに見渡してゆく。

 見渡し、ようし、で胸へ息を吸い込んだ。止めてふん、と腰を落とす。傾けた体で振り上げるのは右の足で、つま先で天を指すと地へ叩きつけた。再び、ふん、と息を吐いたなら、地を踏みしめ身を沈み込ませる。するとじんわり地から力は伝わって、腹の底へと染み渡った。その力に押し上げられるまま身を持ち上げ、精一杯に伸び上がったところでひとたび腰を落として今度は反対側の足を振り上げる。今一度、力いっぱい地を踏みしめた。

「ふんッ」

 繰り返してシコを踏めば汗は吹き出す。満ちる気に、何もかもがうまくゆくように思えてならなくなっていた。

「ま、お見事」

 背から涼やかな声は聞こえてくる。隣でトントン、真似てシコを踏む和二へも、お上手、と褒めて声をかけた。

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