たまご の巻 15
吸い込んだ臭いの強さにここでも、む、と顔をしかめる。ままに見回した住まいの中は、地に刺し、立てかけられた杭の壁が土座を取り囲んでいた。風通しの窓はなくひどく暗い。ただワラ屋根はそのひと所だけが抜け落ちると、住まいの中にひと筋、光を差し入れていた。その光に照らし出されて土座は片隅だけを白く浮かび上がらせている。
「おとう。おとう。おいらが卵をとって来たぞ。おとう、食え」
呼び掛けるミノオの声はその光の中から聞こえていた。見定めんと雲太は目を細め、やがてムシロをかぶり横たわる者がおることに気づく。
「それから人を連れて来たぞ。おとうは喋れるようになるかもしれんぞ」
向かい足を繰り出していた。かまどの暗がりにうずくまる影に気づいたなら、ぎくり、立ち止まりもする。
「し、失礼するぞ」
それもまたミノオの兄弟だと分かったところでじいっ、と見つめる四つの瞳へ断りを入れた。
「おとう、おとう。ほら、この人だ。起きられるか? おいらが手を貸すぞ」
あいだも呼びかけるミノオはかいがいしい。だがよほど具合が悪いのか。父は自ら動く様子がない。手伝ってやらねばと、雲太も案じて土座へ上がりかける。間近と目にしたその姿に、たちまち顔を強張らせていた。
どうにも住まいに子供らが臭うわけだと思う。ミノオが抱えて起こさんとしているのは、頭の毛も抜け落ち目も窪んだ、骸だ。だからしてかぶされていたムシロの網目には小さな虫も這いまわると、よく目を凝らした暗がりには数え切れないほどのハエが飛び交っている。
だがミノオはもろともしない。
前にして雲太こそ、しばし言葉を失った。
ハエはそうして動かなくなった雲太へもたかってゆく。まとわりつかれて握る花を振り回した。夢中で払えば花は散り、息は切れ、だがそれでも骸から離れようとしないミノオへ雲太は振り返る。履物のまま土座へ上がりこもうと無礼だとは思えない。ミノオの傍らへ腰を落とすと掴んだ肩を、力任せと雲太は揺さぶった。
「ミノオ、これは死んでおるぞ。お前のおとうは、もう死んでおるぞ」
だがミノオは見向きもしない。
「おとう! おいらだぞ。おいらが帰ったぞ! いっつもみたいに返事をしろ!」
呼び掛け揺すればその勢いに、腐れた体からアゴがガクリと外れ落ちた。中からざわわ虫は這い出して、むごさに雲太は思わず身を引く。それでもミノオは父を呼び続け、尋常ならざる光景に、これはいかん、と雲太の覚悟もそのとき決まった。
「わっぱッ、わしの声が聞こえんのかッ」
かっ、と両目を見開く。ミノオの襟首を掴んで骸から引き離した。勢いにミノオは土座で尻もちをつき、たちまち、わーっ、と力の限りに暴れ出す。振り上げた足が卵を割って、骸さえもを蹴りつけた。ムシロの下でぐにゃりと曲がった骸はもう生ける者のカタチをしておらず、目にしたミノオはなおのこと、あー、あー、と言葉にならぬ声ですがりつこうと手を伸ばす。押さえて雲太が力づくと引き戻せば、互いは土座でもんどりうった。それでもおさまらなければ、ミノオめがけて雲太は手を振り上げる。言うて聞かぬなら、とバシン、頬を打ちつけた。
「しっかりせいッ。お前のおとうはとうに死んで、もうおらんッ。見ろッ。これはただの腐れた骸だッ。お前にはもう何も喋りはせんッ」
声は大きく、打ちけられてそっぽうを向いたミノオの動きはそこで止まった。むしろそれは痺れたような具合で、住まいの中にいる誰もがそうだった。
やがて開いたままだったミノオの目はひとつ、瞬く。ねじれていた首をゆっくり戻していったなら、恨めしげと睨みつけた瞳から大粒の涙をこぼした。
目にして雲太は我に返り、おかげで緩んだ手からミノオはさっと抜け出してゆく。声をかける間などなかった。それきりミノオはヒザを抱えて小さくなると、声も上げずに泣いていた。
かまどの影に潜んでいた二人の子供らを呼び寄せる。並べば、和二が手をつなぐ子供が一番末っ子だとうかがえた。
母はその子を産んだ時、命を落としたらしい。それから父が四人の子供らを育てることになったようだが、その頃からだった。菜も穀も思うようにとれなくなったのだという。
ここなら海も近い。魚を獲るもひとつだろう。だが田畑に尽くした父に船を用意することはかなわず、ゆえに足りない分を山でみつくろうことにしたようだった。とはいえ海に比べて山は遠く、出向けば田畑を一日、二日、空けることになってしまう。世話を怠った田畑はなおのこと荒れて、今のような姿になってしまったとのことだった。
それはずいぶん暖かくなってからのことらしい。数日ぶりに山から帰った父は最後の食い物を置いて横になると、それきり喋らなくなってしまったそうだ。
おそらくこの時もう、ミノオは父が死んでしまったことを悟っていたように思われる。だがミノオには田畑を耕す力もなければ、山へ分け入り四人の食い物を集める知恵もない。そのことを誰より知るのは父であり、知る父がミノオらを捨てて去ってしまうなどあるはずないと、ミノオこそが信じられずにいたようだった。
その日からミノオは父へ話しかけ、早く元気になるよう励ましてきたという。あいだ父が持ちかえった最後の食い物は底を尽き、ミノオらは浜の貝や、虫やら蛙を捕まえて食ったそうだ。時には隣の畑から盗んで食ったこともあったと聞かされる。だが父が起き上がることはなく、むしろ日に日にその形をほどいてゆくと、こうして雲太らが訪れるまでおぞましい姿を晒し続けることになってしまったようだった。
たとえ住まいとは言え、臭いもさることながらそれはもう生ける者がくつろげる場所ではない。京三は子供らを表へ連れ出し、かまどを作ると、穀を分けて粥を炊いている。自分らの持ち合わせも限られていたなら薄い粥には違いなかったが、ミノオも下の兄弟たちも、ものも言わずに最後の一滴までをすすり上げていた。
雲太はミノオを打ったあと何も言わにず住まいを抜け出してしまい、戻っていない。だからして京三は一段落ついた子供らの様子を見回すと、かまどを離れることにしていた。
相変わらず緑ばかりだ。その中を雲太の姿を探して歩く。しばらく行ったところで投げ出された足を見つけたなら、そこでようやく歩みを止めていた。
「ここにいましたか」
あぜの立ち上がりへ背を預け、雲太は寝転がっている。ずっとそうしていたのだろう。青い空との間に手のひらをかざすと、じいっと見つめ続けていた。