四
僕とまことが一ノ瀬さくらこ、一ノ瀬ももこと一緒に街に遊びに出掛けたことは、数日後には学校中に知れ渡っている様子だった。まことが言いふらしたのか、誰かが偶然見掛けていたのか、そんなところだろうと思った。僕にとって、その情報の出所はどうでもよかった。その情報によって、周りの生徒がはしゃぎ、浮わつき、此方をにやけた目で観察し、気味の悪い声で囃し立てる、そのことが問題であった。
僕は取り返しのつかないことになったと青ざめていたが誰にも悩みを打ち明けることも出来ずにいた。これまでは他人の妄想の中でのみ成り立っていた二組の双子の関係性は、この事実によって可視化されたように思われた。
まことは誇らしげに満足そうにその話題について色々と語っていたし、一ノ瀬姉妹はその話題を振られても頬を赤く染めてにっこりと微笑んでばかりで、その三人の対応は彼ら部外者にとって何より喜ばしい反応だったようで、つまりは万事が彼らの脚本通りに進んでいるという具合だった。僕はあの日のデートのことを聞かれても、俯き、首を振ってばかりだった。それはもし言葉を発しようものなら罵声と怒号が溢れるだろう僕の口を、そして怒りを必死に抑えたからであった。
「ほら、みのるくんは内気だから、こういう話をすることに慣れてないんだよ。でもきっと、上手くいっているんだと思うな。他の三人があんな反応を見せたんだからさ」
彼らは僕の黙秘を都合よく解釈した。それは見当外れもいいところだったが、僕は特に反論も出来ずにただ黙って耐えた。
しかし、兎に角僕らが遊びに出掛けたという事実によって、色んなものが動き出した。
動き出したものはなかなか止まらない、特に僕のような無力な人間の抵抗にもなっていない抵抗では。まことと周りの願望は互いを昂らせながら上昇していくが如くでもう歯止めが利かないし一ノ瀬姉妹もすっかり担がれていた。僕はといえばそういった周りの熱望をどうにか掻い潜ろうとして成功したり失敗したりしながら必死に無言の抵抗を貫いていた。
ある日、まことは珍しく僕に声も掛けずに学校を出たようだった。いつもならば僕と下校するためにわざわざ待ち伏せているようなまことだったから、僕は特別不思議に思ったが考えていても仕方ないことなので放っておいた。僕は図書室で静かな時間を過ごした。ここで僕一人を見つけて騒ぐような輩はいなかったから、僕は本の世界に没頭出来た。頁を捲る音と鉛筆を走らせる音だけが響いていて、小声で話すような人間すら存在しなかった。図書室とは、大抵一人きりでやってきて、一人きりで何かをして、一人きりで出ていく、そして誰にも干渉せず誰にも干渉されない、そんな風に成立していたから、僕にとっては学校内で唯一安らげる場所だった。
図書室で時間を潰した僕は、気分よく学校を後にした。運動部の掛け声や、吹奏楽部の演奏に耳を傾けて、清々しい気分だった。まことも、一ノ瀬姉妹もおらず、だから僕を見てにやつくような人間もおらず、ただ孤独な自由を満喫していた。
上機嫌だった僕は、ふと思い立って寄り道しようと考えた。本屋にでも行って、新刊にでも目を通してみよう、それから何か直感で選んで本を買おう、そんなことを思いながら商店街の方へ足を向けた。
大通りはそれなりの人が闊歩していて、それなりに繁盛しているような雰囲気だった。多くは主婦やサラリーマンで、その中に学生服もちらほら見えた。僕は歩道橋を渡りながら、そんな道行く人々をぼんやりと眺めていた。夕暮れの赤い光が町に降り注ぎ、目線の高いところからの眺めはとても美しく思えて、僕は歩道橋の丁度真ん中辺りに立ち止まって暫く町を見ていた。町を、その中を行く人を、車を、ビルディングを、それらを包む夕日の光を、僕は見ていた。
そしてまことを見付けた。
まことは僕の目的地だった本屋の横を歩いていた。制服姿のまま、右手には学生鞄を持ったまま、いつも通りのまことの後ろ姿だった。いつもと異なるのは、彼の左手に繋がれた手だった。
まことは、一ノ瀬姉妹の一人と歩いていたのだった。手を繋いで、どうやら何事かを話しているように少し顔を手を繋いだ相手に向けて、歩道橋の上からでは、そして後ろ姿ではまことの顔を確認できなかったが、恐らくはとても楽しそうな表情なのだろうということがわかった。僕は歩道橋の上に立ち竦んで、目眩がするかと思った。
あのまことの左手を握っているのは、どちらだろう。さくらこだろうか、ももこだろうか。しかしそれは僕にはもうどうでもよいことのように思えた。二人の、まことと一ノ瀬姉妹のどちらかの、その握られた手の中で僕の何か大切なものが握り潰されてしまっているように感じて、僕は胸の辺りがぎゅうと締め付けられたように感じて、そして声もなく叫んだ。
今見えている世界の美しさとは裏腹に、この世界はあんまりにも残酷で僕に優しくはないことを痛感しながら、ただ歩道橋から降りることも出来ずにまことの姿が見えなくなるのを待った。まことと、あの女の手が握られているのが見えなくなるのを、ひたすらに待った。
暫くの後に、僕は歩道橋を降りて家に向かって歩き出した。もう本屋に寄るような気力は残されていなかったし、またそのほかのすべてのことがどうでもよいと思えた。僕は歩きながら、ずっと自分の乱れた呼吸を正そうと必死だったし、また脳裏に焼き付いたあのまことと女の姿を振り払おうと必死だった。
あれは、そう、確かにまことだった。他の誰でもない、僕の双子の兄。そうだ、あれは僕ではない。まことは恐らく幸せで、だから最悪の状況では、全然ない。僕は自分を宥め、押さえ付けて、足をどうにか動かして、心がばらばらになるのを繋ぎ止めて、そうして家を目指した。今がどんなに辛くとも、まことがまだ不幸せでないのだから、きっと大丈夫なのだと、どれだけ言い聞かしても、しかし僕は嗚咽が止まらなかった。
僕と全く同じ外見の人間が、あの忌まわしい双子のどちらかと、あの忌々しい周りの醜い願望通りに、ことを進めている。僕はまるで自分自身が一ノ瀬姉妹と手を繋いでいるような錯覚に陥って、吐き気を耐えた。自分の左手がとても不浄なもののように感じられて、やすりか何かで削ってしまいたい衝動に駆られた。自分の幸福は全て遠く、自分の罪はあまりに深く、自分は永久の責め苦を科されたのではないかという想像をして冷や汗が止まらなかった。なんとおぞましいことだろう、と、しきりに口にしていた。
どうにか家に辿り着いた僕は、自室に籠ってがたがたと震えながら過ごした。まことはまだ帰ってきてはおらず、そのまま二度と帰ってこなければよいのにと思っていたが一時間程の後にまことは平然と帰宅した。
部屋の扉をノックする音が聞こえて、布団の中で震えていた僕が返事をする間もなくまことが入ってきた。
「あ、みのる、帰ってたか。いやあ、今日は一緒に帰れなくてごめん。それでさ、聞けよ。俺、ももこちゃんと付き合うことになったから」
まことは事も無げにそう言って、太陽のように眩しい笑顔を僕に向けた。僕は何かが今度こそ崩壊するのを感じながら、おめでとう、とだけ言った。
「お前もさ、さくらこちゃんに告白してみたらどうだ?あのさ、ももこちゃんに聞いたんだけど、家ではお前のこと、随分話しているみたいだぜ。なあ、脈、あるんじゃねえの?」
まことは何を言っているのだろう、と僕はぼんやり考えていた。きっと僕には全然関係のない、世界の遠いところで起こっている話なんだろう、としか思えなかった。
僕が対した反応を見せずにいたからか、まことは
「まあ、そこら辺は個人の自由か。とりあえず、明日もきっと俺はももこちゃんと帰ることになるだろうから、ごめんな」
と言い残して部屋を出ていった。
それからの僕は、まるで機械仕掛けのように淡々と過ごした。ただ漠然と夕飯を食べ、漠然と風呂に入り、漠然と寝た。その時の僕が何を考えていたか、僕は覚えていない。きっと何も考えていなかったのだろう。いや、考える、という機能が故障してしまったようだった。
翌日も、何も感じず、何も思わず、何も考えずに学校に行った。外界と僕の間に薄い膜が張られたように全てのものはぼんやりとしていた。人の声も、弁当の味や匂いも、まことや他の生徒の顔も、誰かが僕の肩を叩く感触も、全部が全部はっきりとせず、夢の中の出来事のように無為なものに思えた。僕の五感はきっと正常に作動していないのだな、と思ったが、しかしそれすらどうでもよいことにしか感じられなかった。
まことは何人かの生徒に囲まれて、何事かを楽しそうに話していた。まことの隣には一ノ瀬ももこもいて、まこととももこを取り囲むように他の生徒が陣どっていて、とても和やかでしかし華々しいような空気が漏れ出していたが、それはただ物語のことだとか、映画やドラマの出来事みたいにしか僕の目には映らなかった。
体育を終えた僕が教室に戻ると、机の中に見慣れない二つ折りの紙切れが入っていた。開いてみると、中にはさくらこの名前と、放課後に図書室で会いたいという内容のメモ書きがあって、まともな判断の出来ない僕はそれをそのままポケットに入れた。
授業が終わると、まことは僕の方を一瞥して何か声も発せずに口を動かし、そのままももこと一緒に教室を出た。他の生徒が何か大声で騒いだり、手を叩いたりしているのを眺めながら、僕は操られたように図書室に足を運んだ。そこにさくらこがいるかどうか、またさくらこがどのような用件で僕を呼び出したのか、といったようなことを、僕は考えることもなかった。指示通りに動くマシンのように、メモ書きの通りにただ向かった。
図書室に入ると、どうやら一足先に来ていたらしいさくらこが僕の方を見てさっと立ち上がり、奥の方に歩いていった。僕はまるで命令されたかのようにさくらこの後を追った。本棚が日の光を遮って薄暗く、埃と黴の臭いのする場所にさくらこはいた。この辺りは確か地域の歴史だとか学校史だとかの資料のあるところで、だから滅多に人は近付かないなと、どうでもよいことを考えていた。
「みのるくん、呼び出したりしてごめんなさい。でも来てくれて嬉しい」
さくらこは僕にだけ届くくらい小さな声でそう言って、はにかんだように笑った。
「あのね、もう知っていると思うけれど、ももことまことくんがね、その、付き合うことになったんだって。うん、ちょっと吃驚したけれど、私はとても喜んで、ももこにおめでとうと言ったわ。だって、ももこったら、あんなに幸せそうに顔を綻ばせていたのだから」
僕はさくらこの話を聞きながら、ばらばらになった心から何かが芽生えてくるのを感じた。それはとても雄々しく、また激しく、そして大きな熱量を持っていた。
「で、ね。私は勿論、ももことまことくんのことを応援するわ。みのるくんも、そうでしょう?だって、私たちの双子の兄と妹なんだもの。私たちが一番応援するのは当然だよね」
僕はさくらこの声を、いつの間にかとても疎ましい、煩わしい、醜いものだと感じていた。目の前の女は笑顔で何の話をしているのだろう。僕が昨日、ただ機械的に過ごしながら、しかし洗面台の鏡を見て、それに映っているのが兄のまことと全く同じ顔で、それを見た僕が嘔吐したことを知っていて、それでこんな話をするのだろうかと思うと、先程芽生えたものがより一層激しく燃えるのを感じた。
「それで、ね。別にももこにあてられたってことじゃあなくて、ううん、でもももことまことくんのことが一つの切っ掛けになったというのは確かに事実なんだけれど、私もね、あの、少し、もっとね、仲良くしたいなあって、思っちゃったのね。ああ、ごめんなさい、別に今の関係もすっごくいいなあって、そう思うのよ。それは本当。ほら、趣味も合うし、それは、そう、なんだけれど。あれ、なんか言いたいことが上手く言えないや、えへへ、ごめんね、でもね」
さくらこの声、まことの楽しそうな顔、ももこの幸せそうな顔、それらは僕の心の中の何かを強く素早く育てているように思えた。それはもう止めることは出来ずに、ただ芽吹くのを待つだけのように、僕には感じられた。僕はすっかりその生まれた何かに取って代わられたみたいだった。だからさくらこの、
「ええと、うん、つまりはね、みのるくん。あの、私と」
という言葉は、そしてそれに続く言葉は、もう脳にまで到達しなかった。
僕はその時には、どうやって三人を殺すかと、そればかり考えていた。今日のうちに台所から包丁を盗んでおいて、そして明日の朝、学校に向かう途中にまことを刺そう。胸を一つ突いて、それから顔を滅茶苦茶に切り刻んでしまおう。その包丁を持ったまま学校に行って、一ノ瀬姉妹も刺し殺してしまおう。きっと皆は呆然と見ているばかりだろうから、いつ、どこで実行してもきっと二人をきっちり殺しきってしまえるだろう。そうだ、そうしてしまえば僕はきっと、自由になれる。
さくらこから、図書室から、学校から、どのようにして離れたか、僕は覚えていない。僕はすっかり目が覚めていたし、これからちゃんと自由になれるのだという幸福で一杯だったから、そんなことを気にもしていなかった。ただ早く、殺したいと、それだけを願った。一刻も早く、まことの顔を、僕と同じ顔を、切り刻んでしまいたいと、そればかり願っていた。
そのように、これは終わった。始まりがいつだったか、ということは非常に曖昧で、僕が生まれたときか、一ノ瀬姉妹に出逢ったときか、まこととももこが手を繋いでいるのを見掛けたときか、さくらこの声を疎ましく思ったときか、それはわからないけれど、終わりは実に明確に存在した。
つまり、僕がこの手で終わらせたのだった。