ヤンデレ悪役令嬢の正しい飼い方〜嫉妬も束縛も、すべて俺の鳥籠の中で〜
乙女ゲームの完璧な公爵令息、アルベルトに転生した桐生翔太。
彼の婚約者である悪役令嬢セシリアは、激しい嫉妬と過剰な束縛でアルベルトを追い詰め、やがてヒロインを虐めて破滅する運命にあった。
しかし、転生したアルベルトの中身は「重すぎる愛」をこよなく愛する生粋のヤンデレ愛好家だった。
「私以外の女なんて見ないで!」
「最高かよ。もっと俺を縛ってくれ」
嫌われるはずの束縛を特大の愛情で全肯定されたセシリアは、予想外の反応に照れてタジタジのチョロインと化してしまう。
ヒロインへのいじめイベントは甘い愛の語らいの場にすり替わり、他の男に声をかけられただけでアルベルトの隠れヤンデレ気質が爆発。需要と供給が完全一致した二人は、周囲をドン引きさせる最狂のバカップルとなっていく。
本来のヒロインが生温かい目で見守る中、ハッピーエンドに向かって(物理的な)外堀を埋め始めるアルベルト。
これは、ヤンデレ悪役令嬢が、自分以上の狂気を秘めた男に永遠に閉じ込められるまでの、最高に甘くて少し不穏なラブコメディ。
王立学園の特別棟に設けられた、貴族階級の生徒のみが立ち入りを許される豪奢なサロン。午後の柔らかい日差しがステンドグラスを通して色とりどりの影を落とす中、その空間だけがひんやりとした異様な緊張感に包まれていた。
「アルベルト様。……今、あの給仕のメイドと目が合っていらっしゃいましたわね?」
静寂を切り裂くように響いたのは、鈴を転がすような、それでいて氷のように冷たい声だった。
目の前に立つのは、真紅のドレスを纏った絶世の美少女。月の光を編み込んだようなプラチナブロンドの髪を揺らし、宝石の紫水晶を思わせる瞳でこちらを射抜くように睨みつけている。
彼女こそが俺の婚約者であり、この国で最も権力を持つブラッドレイ公爵家の令嬢、セシリア・ブラッドレイだ。
俺――桐生翔太は、前世の記憶を取り戻したばかりの少しぼんやりとする頭で、現在の状況をすんなりと、そして完璧に理解していた。
ここは生前プレイしていた乙女ゲームの世界。
そして俺は、メイン攻略対象である文武両道・眉目秀麗な完璧超人の公爵令息、アルベルト・ローゼンタールである。
目の前で扇子を握りしめ、肩を震わせている彼女は、ヒロインを虐め抜き、最終的には断罪されて破滅する運命にある悪役令嬢その人だった。
「私の愛するアルベルト様。あなたは、私だけのもの。あなたの美しく気高い青い瞳には、私だけが映っていればいいのです。他の泥棒猫を視界の端に入れることがあれば、あなたの目をくり抜いてしまうかも…」
扇子の向こう側から、ドロドロとした重く黒い感情が叩きつけられる。
「……いっそ、私以外の女など全員この世から消えてしまえばいいのにっ」
本来のゲームシナリオであれば、ここでアルベルトは彼女の狂気的で身勝手な束縛に深い嫌悪感を抱き、完全に心が離れていく。
やがて学園に現れる純真無垢な光のヒロインに癒やしを求め、嫉妬に狂ったセシリアを断罪の場へと引きずり出すのだ。
だが、転生した俺の中身は桐生翔太という、極めて歪んだ感性の持ち主だった。
三度の飯より、重い愛が好きだ。相手の人生のすべてを自分に向けられ、病的なまでの執着と依存を向けられることに、背筋が凍るほどの無上の喜びを感じる。いわゆる生粋のヤンデレ愛好家であり、自身もまた、愛した女を鳥籠に閉じ込めてしまいたいという仄暗い願望を抱えて生きてきた。
「……最高だよ、セシリア」
ぽつりと、無意識のうちに歓喜の呟きが漏れていた。
「え……? 今、なんと……?」
俺の言葉に、セシリアが扇子を少しだけ下げて目を丸くする。先ほどまでヒステリックにまくしたてていた彼女の勢いが、ピタリと止まった。
俺はゆっくりとソファから立ち上がり、彼女の元へ歩み寄る。そして、扇子を握りしめたまま微かに震えている彼女の細く白い両手を、自分の手でそっと包み込んだ。
「セシリア。君は、なんて愛情深いんだ」
「……は、はい?」
「俺のような男のために、そこまで心を痛めて嫉妬してくれるなんて。君のその重圧なまでの愛が、俺はたまらなく嬉しいよ」
完璧な公爵令息としての極上の微笑みを浮かべながら、俺は一切の嘘偽りなく本心を告げた。脳内では歓喜のファンファーレが鳴り響き、アドレナリンが全身を駆け巡っている。
なんて素晴らしい世界だろう。俺の一挙手一投足を監視し、他の女と目が合っただけでこの世の終わりのような強烈な嫉妬を向けてくれる美しい婚約者。
前世で夢にまで見た理想の女性が、今、確かな熱を持って俺の手の中にいるのだ。
「あ、アルベルト、様……? 怒って、いらっしゃらないの……? 私、また重いって、嫌われるようなことを……っ」
セシリアの紫水晶の瞳に、すっと怯えの色が浮かんだ。
彼女は自分が普通ではないことを、心のどこかで自覚している。過剰な束縛が相手を遠ざけることも頭では分かっているのに、見捨てられる恐怖と圧倒的な自己肯定感の低さから、その執着を止められないのだ。
ああ、なんという愛おしさだろう。その不器用で痛々しいほどの愛情表現を、誰が否定できるというのか。
俺は彼女の耳元にゆっくりと顔を寄せ、甘く、溶かすような声で囁いた。
「怒るわけがないだろう? むしろ逆だ。君のその美しい嫉妬心は、俺への愛の深さの何よりの証明だ。だから、もっと俺を縛ってくれていい。四六時中、俺を監視して、君だけのものにしてくれ」
「――――っ!?」
「俺も、君以外の女なんてただの石ころにしか見えないからね」
「ひゃ、あ……っ」
想定外の特大の肯定を真正面から浴びたセシリアは、顔を茹でダコのように真っ赤にして完全に硬直した。彼女の処理能力は限界を突破し、大きく見開かれた瞳は潤み、口をわなわなと震わせている。
「あ、愛して……わたくしも、愛しておりますわっ! でも、今日はこのへんで失礼いたしますっ!!」
ついにパニックに陥った悪徳令嬢は、勢いよく俺の手を振り払うと、ドレスの裾を翻して逃げるようにサロンから飛び出していった。
バタンと重厚な扉が閉まる音が響き、再びサロンに静寂が舞い戻る。
取り残された俺は、自身の両手を眺めながらうっとりと微笑んだ。
この愛おしい獲物を、どうやって一生愛し尽くしてやろうか。逃げ道など最初から用意するつもりはない。俺の胸の奥底で、暗く甘い熱がどろどろと渦を巻き始めていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「あ、あの……! ありがとうございます、アルベルト様」
王立学園の中庭。見事に咲き誇る薔薇園の片隅で、俺は一人の女生徒が落とした重そうな羊皮紙の束を拾い集めていた。
淡い亜麻色の髪に、新緑のような淡い緑色の瞳。小動物のように肩をすくめている彼女こそが、この乙女ゲームにおける本来の主人公――アリア・ホワイト男爵令嬢である。
特待生として入学してきた彼女は、持ち前の純真さと優しさで、心に闇を抱える攻略対象たちを次々と救済していく光の存在だ。
本来のシナリオ通りであれば、婚約者の重すぎる愛情に疲弊していたアルベルトもまた、この中庭での偶然の出会いをきっかけに彼女の優しさに惹かれていくことになる。
「気にすることはないよ。次からは気をつけて」
俺が完璧な貴族の微笑みを作って羊皮紙を手渡すと、アリアは頬を微かに染めて「はいっ」と頷いた。
うん、確かに可愛い。ゲームのヒロインらしく、庇護欲をそそる愛らしさがある。だが、俺の心は欠片ほども揺れ動かなかった。
何故なら、俺の視線はすでにアリアを通り越し、彼女の背後――薔薇のアーチの影からこちらを睨みつけている『極上の気配』へと注がれていたからだ。
「……ずいぶんと、楽しそうですわね?」
絶対零度の声が中庭に響き渡った。
周囲の温度が一気に数度は下がったかのような錯覚を覚える。アリアがビクッと肩を跳ねさせて振り返ると、そこには真紅のドレスを纏ったセシリアが立っていた。
夜会のためにあつらえたかのような豪奢なドレスに身を包んだ彼女の背後には、取り巻きの高位貴族の令嬢たちが数人控えている。
誰もが冷ややかな視線をアリアに向けていたが、セシリアの放つプレッシャーは群を抜いていた。
「セ、セシリア様……っ」
「わたくしのアルベルト様に、蛆虫風情が気安く話しかけないでくださる? ……アルベルト様、まさかこんな小娘のほうがお好みなの?」
セシリアの紫水晶の瞳には、ハイライトが一切ない。その声には、単なる身分差を理由にした傲慢さだけでなく、自分のテリトリーを侵された猛獣のような、ドロドロとした黒い嫉妬が渦巻いていた。
「あ、あの、これは違って……私が資料を落としてしまったのを、アルベルト様が拾ってくださって……!」
「言い訳など聞いておりませんわ。……あなた、以前から目障りでしたの。特待生だか何だか知りませんけれど、その卑しい手でわたくしの婚約者を惑わそうなどと……万死に値しますわよ」
ジリッ、とセシリアが一歩前へ出る。
きた。これぞ乙女ゲーム名物、悪役令嬢によるヒロインへのいじめイベント(通称:断罪へのカウントダウン)である。
本来なら、ここで怯えるアリアをアルベルトが庇い、「君の嫉妬にはもううんざりだ!」とセシリアを突き放すことで、決定的な亀裂が入る重要なシーンだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、アリアとセシリアの間に割って入った。
「そこまでだ、セシリア」
あえて、少しだけ声を低くして彼女の名前を呼ぶ。
その瞬間、セシリアの肩がビクッと大きく跳ねた。彼女の瞳からさっきまでの恐ろしいまでの怒りがスッと消え去り、代わりに『見捨てられるかもしれない』という切実な恐怖が浮かび上がる。
「ア、アルベルト様……これは、その……っ」
怒られる。嫌われる。軽蔑される。
そんな絶望に染まっていく彼女の表情の変化が、俺にはたまらなく愛おしかった。彼女はこんなにも俺の顔色をうかがい、俺の心を繋ぎ止めることに必死になっているのだ。
俺は歩み寄り、怯えて後ずさろうとしたセシリアの腕を強く引き寄せた。
「きゃっ……!?」
「セシリア。君は、俺とこのホワイト男爵令嬢のやり取りを見ていたんだね?」
「は、はい……っ。申し訳、ありません、わたくし、また出過ぎた真似を……」
「どこから見ていた?」
「……え?」
震える声で謝罪しようとしたセシリアが、予想外の質問にきょとんと目を丸くする。俺は彼女の細い顎に指を添え、クイッと上を向かせた。
「教えてくれ。君は、どこから俺を見ていたんだ? 俺がこの中庭に入ってきたときからか? それとも、彼女が資料を落とす前からずっとか?」
「そ、それは……わたくし、アルベルト様が教室を出られた時から、ずっと……後ろを、ついてきておりまして……」
つまり、完全なストーキングである。
本来なら「俺を監視していたのか!」と激怒する場面だろう。だが、俺の口から飛び出したのは、歓喜に満ちた甘い溜息だった。
「素晴らしい」
「……えっ?」
「君のその執着心、独占欲。俺の胸が今、どれほど高鳴っているか分かるかい?」
「あ、アルベルト、様……?」
「俺が他の女とほんの数秒、言葉を交わしただけで、君はこんなにも激しく嫉妬し、怒り狂ってくれた。ああ、なんて可愛いんだ。君の頭の中は、俺のことでいっぱいなんだな」
俺はうっとりと微笑みながら、セシリアの頬を優しく撫でた。
取り巻きの令嬢たちは「え?」「は?」と顔を見合わせ、完全にフリーズしている。地面にへたり込んでいたアリアも、ポカンと口を開けたまま俺たちを見上げていた。
「いや、でも……わたくし、アルベルト様に相応しくない、見苦しい嫉妬を……」
「見苦しいなんてとんでもない。君の嫉妬は、世界で一番美しい愛情表現だ。むしろ、もっと見せてほしい。俺が他の誰かに微笑みかけたら、君はどうする? その女を消してしまいたくなるか? 俺を部屋に閉じ込めたくなるか?」
「そ、それは……っ」
「遠慮しないで教えてくれ。君の重くて暗い感情を、俺はすべて受け止める。いや、むしろ俺から望んで浴びたいくらいだ」
俺の言葉のシャワーを至近距離で浴び続けたセシリアの顔は、みるみるうちに沸騰したように赤く染まっていった。彼女の目には涙が浮かび、恐怖ではなく、キャパシティを優に超えた『過剰な愛情』に対する照れと混乱で震えている。
「あ、あああ……アルベルト様、わたくし、もう、頭が……っ」
「こんな場所で時間を潰している場合じゃないな。行こう、セシリア。君のその素晴らしい情熱の続きを、二人きりのサロンでじっくりと聞かせてもらうよ」
俺はセシリアの腰を強く抱き寄せると、そのまま踵を返した。
彼女の取り巻きたちは、完全に置いてけぼりを食らって石像のように固まっている。
「あ、あの……!」
ふと、背後からおずおずとした声が掛かった。アリアだ。彼女は立ち上がり、困惑しきった顔で俺たちを見つめていた。
「えっと……私は、どうすれば……?」
「ああ、ホワイト男爵令嬢。すまないが、俺たちはこれから深く愛を語り合わなければならないのでね。気をつけて帰りなさい」
「は、はい……?(えっ、私、虐められそうになってたんじゃ……ないの……?)」
完全に蚊帳の外に置かれたアリアが、状況を飲み込めずに立ち尽くしている。
俺はそんな彼女を一瞥しただけで興味を失い、腕の中で真っ赤になって「アルベルト様、アルベルト様……っ」と壊れたように呟き続ける愛おしい婚約者を連れて、足早に中庭を後にした。
俺の世界には、もうこの重くて愛おしいヤンデレ令嬢しか存在していない。
背後で、アリアが「……お幸せに?」と、小さな声で呟いたような気がしたが、俺の耳にはもはやセシリアの甘い吐息しか届いていなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王立学園の講堂を改装して行われた、秋の夜会。
天井から吊るされた巨大なシャンデリアが眩い光を放ち、オーケストラが奏でる優雅なワルツに合わせて、着飾った貴族の生徒たちが談笑している。
俺は壁際に立ち、グラスの縁を指でなぞりながら、少し離れた場所にいる婚約者の姿をじっと見つめていた。
真紅のイブニングドレスに身を包んだセシリアは、間違いなくこの会場で一番の美しさだった。しかし、今の俺の胸中を占めているのは、彼女の美しさに対する賞賛ではない。どす黒く、冷たく、そしてドロドロとした『苛立ち』だった。
「……あの虫ケラは、なんだ?」
俺の視線の先には、セシリアに話しかけている一人の男子生徒の姿があった。
見覚えのない顔だ。おそらく下位貴族の令息あたりだろう。セシリアは公爵令嬢としての完璧な社交辞令で、扇子で口元を隠しながら相槌を打っているだけだ。だが、男の方は明らかに頬を染め、熱のこもった視線を彼女に向けていた。
その光景を見た瞬間、俺の脳内で何かが『ブチッ』と音を立ててちぎれた。
前世の桐生翔太としての俺は、重すぎる愛を向けられることを至上の喜びとしている。だが、それはあくまで「俺が愛した女からの愛」に限る。
そして、ヤンデレを愛好する者の中には、往々にして自身もまた、常軌を逸した独占欲と執着心――すなわち『ヤンデレ気質』を併せ持っている者が少なくない。俺もその例に漏れなかった。
俺のセシリアだ。
俺にだけその重い愛を向け、俺にだけ狂おしいほどの嫉妬を見せ、俺の存在なしでは生きていけないほどに依存してくれている、俺だけの可愛い鳥。
その鳥に、他の男が馴れ馴れしく近づいている。
彼女の鼓膜を、俺以外の男の声が震わせている。
彼女の視界の端に、俺以外の男の姿が映り込んでいる。
「…………許せないな」
俺はグラスを近くのテーブルに置くと、完璧な貴族の微笑みを顔に貼り付け、一直線に二人の元へ歩み寄った。
「セシリア。探したよ」
「あ、アルベルト様……!」
俺の声に気づいたセシリアが、パッと花が咲いたような笑顔を向けてくる。それだけで少しだけ溜飲が下がったが、俺の目は笑っていなかった。
「あ、ローゼンタール公爵令息閣下。わたくしは、その、セシリア様に少しご挨拶を……」
「そうか。それはご苦労だったね。だが、俺の婚約者は少しお疲れのようだ。これ以上、彼女の貴重な時間を奪わないでいただきたい」
「ひっ……!」
声のトーンはどこまでも穏やかだったはずだ。だが、俺の瞳の奥に宿る完全にハイライトの消えた光(あるいは闇)に当てられたのか、男は顔を青ざめさせると、逃げるように人混みへと消えていった。
「アルベルト様? どうなさいましたの? わたくし、別に疲れてなど……きゃっ!」
俺はセシリアの腕を強く掴むと、返事も聞かずにそのままバルコニーへと向かって歩き出した。
厚いカーテンを引き、夜風が吹き込むバルコニーへと出た瞬間、俺はセシリアの体を石造りの壁へと乱暴に押し当てた。いわゆる『壁ドン』の体勢で、彼女の退路を完全に塞ぐ。
「ア、アルベルト様……? お手が、少し痛いですわ……それに、そんな怖いお顔をして、一体……」
見上げくるセシリアの紫水晶の瞳が、困惑と微かな怯えに揺れている。
いつもは彼女の方が俺を監視し、嫉妬に狂っているのに、今は立場が完全に逆転していた。
「……あの男は誰だ?」
「え……? 先ほどの方は、ただのクラスメイトで、社交辞令の挨拶を交わしていただけで……」
「ただの挨拶? なぜ、彼に微笑みかけた?」
「ほ、微笑んでなどおりませんわ! わたくしはただ、公爵令嬢として角が立たないように……!」
「言い訳など聞いていない」
俺は顔を近づけ、彼女の唇が触れそうな距離で低く囁いた。
「君の視界に、俺以外の男が映るのが耐えられない。君の鼓膜を、俺以外の男の声が揺らすのが許せない。……ねえ、セシリア。君は俺だけのものだろう? なのに、どうして他の男の言葉に耳を傾ける必要があるんだ?」
「っ……!」
セシリアが息を呑む音が聞こえた。
俺の口から次々と紡がれるのは、彼女がいつも俺に向けているのと同じ、いや、それ以上に自己中心的で、身勝手で、狂気に満ちた独占欲だった。
「いっそ、君を誰の目にも触れさせたくない。このままドレスごと抱え上げて、誰も知らない場所へ閉じ込めてしまいたい。君の美しい瞳も、愛らしい声も、俺以外の人間には一切与えたくないんだ。……俺は、おかしくなってしまったのかな」
演技ではない。本心からの重い感情をぶつけながら、俺は彼女の首筋にそっと顔を埋めた。
普通なら、ここで悲鳴を上げて逃げ出すだろう。完璧だと思っていた婚約者が、実は自分以上に恐ろしい執着を抱える狂人だったと知れば、どんな女性でも恐怖にすくみ上がるはずだ。
だが。
「あ…………ああ……っ!」
俺の腕の中に閉じ込められたセシリアの口から漏れたのは、悲鳴ではなく、甘く熱を帯びた歓喜の吐息だった。
「アルベルト様も、わたくしと、同じ……? わたくしだけを見て、わたくしに執着してくださっているの……?」
「ああ。君がいない世界なんて考えられない。君が他の男を見るくらいなら、君のその美しい目を……」
「嬉しいっ……!!」
セシリアは俺の背中に両腕を回し、力強く抱きしめ返してきた。
彼女の瞳からは怯えなど完全に消え去り、代わりに圧倒的な幸福感と、狂気的なまでの愛情が溢れ出している。
「もっと! もっとわたくしを縛ってくださいませ! 閉じ込めて、わたくしのすべてを奪って! ああ、アルベルト様……愛しております、愛しておりますわっ!!」
自分以上の重い愛をぶつけられ、セシリアの心の中にあった「いつか見捨てられるかもしれない」という不安は完全に消し飛んでいた。彼女は今、自分と同じ温度の熱狂で愛し返してくれる存在を見つけ、絶頂にも似た喜びに打ち震えている。
俺もまた、その重圧な愛を全身で受け止めながら、暗い悦びに口元を歪めた。
需要と供給が完全一致した、狂気的で完璧な共依存。
バルコニーの暗がりで、俺たちは互いの存在を確かめ合うように、周囲の目も忘れて深く、深く抱き合い続けた。
「あ……ちょっと休もうと思ってバルコニーに……って、えぇ……」
時を同じくして。
喧騒から離れて夜風に当たろうと、バルコニーのカーテンに手をかけたアリア・ホワイト男爵令嬢は、その隙間から中を覗き込んで完全に硬直していた。
月明かりの下、壁際で互いにすがりつくように抱き合い、「君を閉じ込めたい」「一生出さないで」と常軌を逸した愛の言葉を囁き合う、学園一の完璧な貴族令息と悪役令嬢の姿。
あまりにも濃密で、ドロドロとしていて、そして他人が入り込む隙など微塵もない異様な空間がそこにはあった。
「(……うん、見なかったことにしよう)」
アリアは無表情のまま、スッと音を立てずにカーテンを閉めた。
彼女は「私は絶対に関わらないぞ」という強い意志を胸に秘め、早足でワルツの流れる安全な広間へと戻っていくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
王立学園の昼休み。美しく手入れされた中庭の中央にあるテーブルは、今や学園の生徒たちから完全に「不可侵領域」として扱われていた。
そのテーブルから少し離れた木陰のベンチで、アリア・ホワイトは持参したサンドイッチを齧りながら、無表情で前方のテーブルを見つめていた。
「アルベルト様。今日のお弁当は、わたくしが朝早くから厨房に立って作りましたの。……毒見は済ませておりますけれど、もしお口に合わなければ」
「セシリアの手作りだって? なんて素晴らしいんだ。君の愛情が詰まった料理なら、たとえ猛毒が入っていたとしても俺は喜んで飲み干すよ」
「あ、アルベルト様……っ! そんな、わたくしがあなたに毒を盛るわけがありませんわ! わたくしの命に代えても、あなたをお守りしますのに……っ!」
「知っているよ。さあ、君の手で食べさせてくれないか」
「は、はいっ。あ、あーん……ですわ」
周囲にピンク色のオーラ――というより、もはや他者を物理的に弾き返すほどの高密度の結界を張り巡らせながら、二人は今日も常軌を逸した甘やかな空間を作り上げている。
悪役令嬢がヒロインを虐める気配など微塵もない。彼女の頭の中は、いかにして婚約者を喜ばせ、繋ぎ止めるかでキャパシティの上限を突破し続けているのだ。
「(……うん。平和ですね)」
アリアは温かい紅茶を一口飲み、小さく頷いた。
最初は、過剰な嫉妬と束縛を向けるセシリアの姿に「アルベルト様が可哀想」と正義感を燃やしかけたこともあった。しかし、あの日バルコニーで目撃してしまった『真実』以来、アリアは一切の干渉を放棄した。
あの二人は、同じ形の狂気を抱えた者同士、パズルのピースのように完璧に噛み合ってしまっているのだ。まともな常識を持った人間が割って入れば、真っ先にすり潰されるのは自分である。
アリアは「私はただの壁。あるいは中庭に生える一本の木」と自己暗示をかけながら、生温かい見守り役に徹することにしたのだった。
「今日も世界は平和だなぁ」と、アリアは静かにその場を立ち去った。
それから数年後。
ローゼンタール公爵家の広大な屋敷の一室。分厚い遮光カーテンが引かれた薄暗い寝室で、アルベルト――いや、桐生翔太は、腕の中でスヤスヤと眠る愛しい妻の寝顔を見つめていた。
学園を卒業し、晴れて夫婦となったセシリアの美しさは、年を重ねるごとに磨きがかかっている。
彼女は今でも変わらず、俺が屋敷のメイドとすれ違っただけで顔を青ざめさせ、「あのメイド、次にアルベルト様に近づいたら殺してしまおうかしら……」と顔を真っ赤にさせ問い詰めてくる。その度に俺は、彼女に数時間かけて過剰なほどの愛の言葉を囁き、心身ともに満たしてやるのだ。
「……ん、ぁ……アルベルト、さま……」
寝言でさえ俺の名前を呼ぶ彼女のプラチナブロンドの髪を、指先で優しく梳く。
ああ、なんて愛おしいんだろう。俺の顔色一つで天国にも地獄にも落ちる、俺だけの可愛い小鳥。
前世で夢にまで見た『究極のヤンデレヒロイン』は、今こうして、俺の腕の中で完全に依存しきって眠っている。この圧倒的な支配感と幸福感は、何物にも代えがたい。
「……愛しているよ、セシリア。君は本当に、俺がいないと何もできない可愛い子だ」
そっと額に口付けを落とすと、セシリアは安心したように身をすり寄せてきた。
その無防備な姿を見下ろしながら、俺の口角は自然と、深く、暗く釣り上がっていく。
彼女は嫉妬に狂ったあと、落ち着くといつも「見捨てないで」「どこにも行かないで」と怯えている。
なんて愚かな心配だろう。俺が彼女を手放すわけがないというのに。むしろ、俺が恐れているのは、彼女がこの外の世界の空気に触れ、俺以外の人間に興味を持ってしまうことの方だ。
この数年、俺は少しずつ、しかし確実に外堀を埋めてきた。
彼女の取り巻きだった令嬢たちとは物理的な距離を置かせた。実家であるブラッドレイ家からの手紙も、すべて俺が事前に検閲し、彼女を不安にさせる要素は握り潰している。
それでも、まだ足りない。
「……明日から、屋敷の改築工事を始めようか」
眠る彼女の耳元で、誰にも聞こえない声でひっそりと囁く。
「この寝室の窓はすべてレンガで塞いでしまおう。外の光なんて必要ない。君を照らす光は、俺が灯すロウソクの火だけで十分だ。扉の鍵も、外からしか開けられない重厚なものに付け替えよう。……食事も、着替えも、排泄も、すべて俺が世話をしてあげるからね」
彼女が起きてそれを知ったら、どういう反応をするだろうか。
一瞬だけ戸惑うかもしれない。だが、俺が「君を愛しているから、誰の目にも触れさせたくないんだ」と甘く微笑めば、彼女はきっと歓喜の涙を流してそれを受け入れるはずだ。
なぜなら彼女もまた、俺の狂気を愛してしまっているのだから。
「今度は絶対に……逃がさないよ」
なぜ「今度」という言葉が出たのか、自分でもわからなかった。遠い、ここではない過去の話だったか。
俺は完全に光を失った真っ暗な瞳で微笑み、永遠に飛べなくなった愛しい鳥を、その腕の骨が軋むほどの力で抱きしめた。




