桜の帰り道、君の隣で
新しいクラスの空気は、まだ少しだけ他人行儀だった。
窓の外では桜が揺れている。二年三組の教室には、担任の声と、机を動かす音と、初対面同士のぎこちない会話が混ざっていた。
朝倉悠真は、自分の席に座りながら小さくため息をついた。
「また知らない奴ばっかだ……」
人付き合いが苦手というわけじゃない。でも、積極的に輪の中心に入れるタイプでもない。適当に話して、適当に笑って、静かに過ごす。それが悠真の学校生活だった。
そんな中、教室の後ろ側で笑い声が聞こえた。
「白石さんって去年も学級委員やってたよね?」
「うん、でも向いてないよ。ほんと疲れるし」
「絶対ウソ!」
周りに自然と人が集まっている女子。
肩までの黒髪。柔らかい笑顔。よく通る声。
白石結衣。
去年から有名だった。明るくて、誰にでも優しくて、勉強もできる。男子からも女子からも人気があるタイプ。
悠真とは、正直住む世界が違うと思った。
だが、その日の放課後。
運命みたいなものは、案外くだらないことで始まる。
「……終わった」
教室に一人残り、数学の小テストを見つめながら悠真は机に突っ伏した。
赤点。
追試決定。
「朝倉くん?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、結衣が教室のドアから覗いていた。
「まだいたんだ」
「……追試くらってた」
「あー、なるほど」
結衣は笑いながら近づいてくる。
「見せて」
「嫌だ恥ずい」
「いいから」
半ば強引に答案を取られた。
数秒後。
「これはひどい」
「そんな真顔で言う?」
結衣は吹き出した。
その笑い方が嫌じゃなくて、悠真は少しだけ安心した。
「ここ、公式間違えて覚えてる」
「マジか」
「教えてあげよっか」
そう言って、結衣は悠真の隣に座った。
近い。
シャンプーの甘い匂いがふわっとする。
悠真は急に落ち着かなくなった。
「……なんでそんな面倒見いいの」
「困ってる人放っとけないタイプなの」
「ヒーローかよ」
「ヒロインです」
その返しが妙に面白くて、悠真は初めて自然に笑った。
それから二人は、少しずつ話すようになった。
最初は放課後だけだった。
でも、気づけば朝の「おはよう」が当たり前になっていた。
「朝倉くん、課題やった?」
「やってない」
「また!?」
「白石見せて」
「ダメ」
そんなやり取りをするたび、周りの友達がニヤニヤし始めた。
「お前ら付き合ってんの?」
昼休み、男子にそう言われて、悠真は飲んでいた牛乳を吹きかけた。
「なっ……!」
「違う違う!」
結衣も慌てて否定する。
けれど、そのあと少しだけ気まずくなった。
放課後、帰り道。
二人並んで歩きながら、結衣がぽつりと言った。
「……なんか、否定しすぎたかも」
「え?」
「いや、別に深い意味じゃないけど」
夕焼けで赤くなっているのか、本当に照れているのか分からなかった。
悠真は急に心臓がうるさくなる。
その頃にはもう、気づいていた。
自分が結衣を好きになっていることに。
でも同時に、不安もあった。
結衣は人気者だ。
男子から告白されているところも何度か見た。
ある日、廊下で。
「白石さん、好きです。付き合ってください」
他クラスの男子が頭を下げていた。
悠真は思わず立ち止まる。
結衣は困ったように笑って、
「ごめんなさい」
と断った。
ホッとした自分に、悠真は少し嫌気が差した。
――夏。
文化祭の準備が始まった。
二年三組はお化け屋敷をやることになり、教室は毎日騒がしかった。
「朝倉くん、そこガムテープ!」
「はいはい」
「あとペンキ取って!」
「人使い荒くない?」
「頼りにしてます」
そう言って笑う結衣を見るだけで、疲れが少し軽くなった。
文化祭前日、準備は夜まで続いた。
窓の外は真っ暗で、教室には数人しか残っていない。
「ふぅ……終わったぁ」
結衣が椅子に座り込む。
悠真も隣に腰を下ろした。
「疲れたな」
「ね」
静かな教室。
いつも賑やかな結衣が、珍しくぼーっと窓の外を見ていた。
「……どうした?」
「んー?」
「元気なくね」
結衣は少し黙ってから笑った。
「朝倉くんって、意外とちゃんと見てるよね」
「意外は余計」
「ふふ」
そして、小さな声で言った。
「ちょっと怖いだけ」
「何が?」
「文化祭終わったらさ、今みたいに一緒にいられなくなる気がして」
その言葉に、悠真の胸が強く締めつけられた。
たぶん、自分だけじゃなかった。
同じ気持ちだった。
悠真は勇気を振り絞った。
「……終わっても、一緒にいればいいじゃん」
結衣が目を丸くする。
「え?」
「俺は、その……もっと一緒にいたいし」
沈黙。
心臓の音がうるさい。
逃げ出したくなる。
けれど次の瞬間。
結衣が、ふわっと笑った。
「私も」
その笑顔を見た瞬間、もう止まれなかった。
「白石、好きだ」
教室の時計の音だけが響く。
結衣はしばらく黙って、それから顔を赤くしながら言った。
「……やっと言った」
「え」
「遅いよ、ほんと」
涙が出そうなくらい嬉しそうに笑う。
「私も好き。ずっと前から」
その瞬間、世界が変わった気がした。
文化祭の日。
お化け屋敷は大成功だった。
でも悠真にとって一番印象に残ったのは、閉会後の帰り道だった。
人の少ない夜道。
結衣が小さく言う。
「……手、つなぐ?」
「お、おう」
ぎこちなく触れた指先。
でも繋いだ瞬間、結衣が嬉しそうに笑った。
「朝倉くん、手あったかい」
「白石は冷たいな」
「緊張してるから」
「実は俺も」
二人で笑った。
冬になっても、二人は変わらなかった。
放課後に寄り道して、コンビニで肉まんを分けたり。
テスト勉強しながら結局雑談ばかりしたり。
雪の日には、結衣が転びそうになって悠真の腕にしがみついてきたり。
小さな思い出が、少しずつ積み重なっていった。
そして卒業式。
桜が咲き始めた校門前。
「高校終わっちゃったね」
結衣が寂しそうに笑う。
「でも大学近いし、別に会えなくなるわけじゃないだろ」
「……うん」
悠真は制服の第二ボタンを外した。
「これ」
結衣が驚いた顔をする。
「いいの?」
「最初からお前にやるつもりだった」
結衣は大事そうにボタンを握りしめた。
そして涙目で笑う。
「ねえ悠真」
「ん?」
「これから先も、隣にいてくれる?」
悠真は迷わず答えた。
「当たり前」
春風が吹く。
舞い上がった桜の中で、結衣は高校生活で一番幸せそうに笑っていた。




