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『ドリアン山の最後の二等兵』-桃色の寺の菩提樹の下で  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第八章 バンカー下のバナナの木

 犬の声が重なり、イギリス兵たちの怒号がジャングルに響く。


 中村軍曹は相沢の腕を引いたまま、畑を突っ切った。


 足元の芋の蔓が絡みつく。背嚢の米が跳ねる。息が上がる。


 走った―ただ走った。


 方角も分からないまま、木々の密な方へ、追手の声から遠ざかる方へ。


 やがて地面が傾き始めた。


 登りだった。


 草が低くなり、赤土が露出し、足の下で石が転がる。


 丘だ。


 相沢が気づいた時、すでに軍曹は駆け上がっていた。


 頂が見えた。

 

 そこに、バンカーがあった。土嚢を積み上げた簡素な陣地。錆びた砲台。


 そして——人影。


 数人の日本兵だった。


 擦り切れた軍服。落ちくぼんだ目。だが銃だけは、まだ構えていた。その銃口が、相沢たちに向いた。


「撃つな、味方だ!」


 中村軍曹が叫んだ。


 兵士たちの銃口が下がる。


 誰かが息を呑む音がした。


 バンカーの中は異様だった。


 空薬莢が膝の深さまで積もっている。食料の痕跡はない。水筒はすべて空だ。


 若い将校が立っていた―少尉だった。


 年は相沢と変わらないか、もっと若いかもしれない。


 顔に表情がなかったが目だけが、


 爛々と燃えていた。


「まだ私たちの戦いは終わっていないのであります!」


 将校は言った。


 その時、エンジン音が聞こえた。


 遠く、低く、しかし確実に近づいてくる。


 東の空に、機影が見えた。


 連合国軍のスピットファイアだった。


 二機 - 翼を傾けながら、丘の稜線に向かって降下してくる。


 バンカーの機関銃が火を噴いた。


 轟音。硝煙。土嚢が揺れる。


 だが英軍機は怯まなかった。


 丘の斜面に向けて、パラパラと機銃掃射が走る。


 赤土が跳ね、石が砕け、乾いた音が連続する。


 まるで、弾丸を惜しむかのように掃射は止んだ。


 そして——二機はそのまま上空を通り過ぎ、西の空へ消えていった。

 

 静寂が戻る。


 中村軍曹は土嚢から身を起こした。


 そして仁王立ちになり、消えていく機影に向かって、大声を張り上げた。


「撃ってみろ、クソ野郎!!なぜ俺を撃たぬ!」


 声が丘を転がった。


 ジャングルの鳥が一斉に飛び立った。


 相沢は軍曹の腕を掴んだ。


「軍曹!中村軍曹!」


 軍曹の体が震えていた。


 怒りではない、憎しみでもなかった。


 ただ、何か巨大なものが体の中で崩れ落ちているような、そういう震えだった。


「もう、行きましょう!」


 相沢は低く言った。


「ここにいても、もう——」


 軍曹はゆっくりと振り返った。


 その目が、相沢を見た。


「我々に何処へ行けと言うのか……俺は…」


 何かを言いかけて、口を閉じた。


 二人はバンカーを離れ、丘を降り始めた。


 十歩ほど進んだ時だった。


 背後で、カチッと金属音がした。


 相沢は振り返った。


 あの若い少尉だった。


 手榴弾を取り出し、ゆっくりと胸に当てていた。


「おいっ——!」 


 相沢が叫んだ。


 軍曹が相沢の腕を掴んだ。


 強く。


 相沢は動けなかった。


 将校の目が、一瞬だけ相沢の方を向いた。


 恐怖ではなかった。


 不思議な達成感を宿した目だった。


 乾いた音がした。


 爆発で千切れた上半身だけが、丘の斜面を滑り落ちて来た。


 相沢は目を閉じた。


 否、閉じきれなかった。


 丘の上で、鳥がまた飛び立った。


 中村軍曹は相沢の腕を引いた。


 今度は優しく。


 父親が子供を連れるように。


「敬礼!」


 声は低く、二人は若い将校の亡骸に静かに脱帽し頭を下げた。


 二人は丘を降りた。


 振り返らなかった。


 振り返れなかった。


 麓にはバナナの木が数本、濃い緑色の房を垂らし陽光を浴びていた。


(つづく)

虚空への咆哮、絶望の達成感

第八章は、物理的な「戦争」が終わり、魂の「迷路」が始まる過酷な分岐点です。膝まで積もった空薬莢の海と、もはや敵にさえ見なされず、弾丸を惜しまれて通り過ぎる連合軍の機影。その屈辱的な静寂の中で、中村軍曹が叫んだ「なぜ俺を撃たぬ!」という慟哭は、戦う理由も死ぬ場所も奪われた男の、引き裂かれた魂の叫びでした。

爛々と目を輝かせ、手榴弾を胸に抱いた若い将校。彼が最期に見せた「不思議な達成感」は、もはや正常な世界では理解し得ない、狂気の中の純粋な救いだったのかもしれません。爆発と共に崩れ落ちる肉体と、それを直視せざるを得ない相沢。この丘での凄絶な別れを経て、二人の生存はもはや「幸運」ではなく、生きて罪を背負い続けるという「罰」に近い重みを持ち始めます。

丘を降りる二人の背中に、バナナの木の緑が鮮やかに映える描写は、死の熱量と生の冷徹さを残酷なまでに際立たせます。第九章、運命の地「ドリアン寺」を目前に、中村軍曹が秘めてきた最後の告白が、物語をさらなる深淵へと導きます。

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