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『ドリアン山の最後の二等兵』-桃色の寺の菩提樹の下で  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第五章 震える指先

 納屋の扉は、わずかな力で開いた。


 ぎぎっ、と軋む音がして、相沢は思わず息を止めた。


 背後で中村軍曹がこちらを見ている気配がある。


 だが、もう振り返らなかった。


 中は真っ暗だった。

 

 湿った藁の匂いと、家畜の体温のようなぬるい空気が満ちている。


 手探りで一歩踏み込むと、足元で何かが動いた。


 羽ばたき…鶏だった。


 相沢の心臓が跳ねる。


 目が慣れてくると、壁際に積まれた白い袋が見えた。


 昼間、視線を吸い寄せられたあの米だ。

 

 喉の奥がひりつく。――これを持っていけば、生き延びられる。


 西田の顔が浮かぶ。


 土の中に消えていった若い戦友。

 

 中村軍曹の声が、頭のどこかでまだ響いている。

 

 兵隊である前に人間であれ。

 

 相沢は目を閉じた。

 

 そして次の瞬間、袋の口に手を突っ込んでいた。

 

 米は乾いていた。

 

 指の間からさらさらと零れ落ちる。

 

 夢のような感触だった。

 

 背嚢を開き、両手で掬って詰め込む。

 

 止まらない。止められない。

 

 その時、足元で鶏が激しく暴れた。

  

 コケッ――!!

 

 甲高い鳴き声が闇を裂く。

 

 相沢は反射的にその首を掴んだ。

 

 細い骨が指の中で震えている。

 

 ――殺せ。

 

 どこからともなく声がした気がした。

 

 相沢は歯を食いしばり、力を込めた。

 

 ぐしゃり、と嫌な感触が伝わる。

 

 羽が顔に当たった。

 

 温かい何かが手の甲を濡らす。

 

 静かになった。

 

 相沢はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 胸が激しく上下する。

 

 だが空腹は、むしろはっきりとした輪郭を持って彼を支配していた。

 

 背嚢を担ぎ直し、扉へ向かう。

 

 開けた瞬間だった。

 

 外に、誰か立っていた。

 

 月明かりの中に浮かぶ細い影。

 

 ほんのりと香り高い線香の香りが漂ってくる。

 

 彼女は何も言わない―ただ相沢の手元を見る。

 

 ぶら下がったままの鶏の死体。

 

  米で膨らんだ背嚢。

 

 その目には、驚きも怒りもなかった。

 

 ただ、深い憐れみにも似た赦しと慈悲のようなものが宿っていた。

 

 相沢は何か言おうとした。

  

 だが喉は閉ざされたままだ。

 

 次の瞬間、背後から腕を掴まれた。

 

 中村軍曹だった。


「……やってしまったな」


 低い声だった。

 

 遠くで犬が吠え始める。


 別の家の戸が開く音がする。


 村が目を覚まそうとしていた。


(つづく)

砕かれた骨、奪われた沈黙ー

暗闇の中で響いた「ぐしゃり」という嫌な感触。それは一羽の鶏の命が絶えた音であると同時に、相沢の中でかろうじて踏み止まっていた「人間」の境界が崩れ落ちた音でもありました。第五章は、生存という大義名分の下で、人がいかに容易く怪物へと変貌するかを静かに、かつ残酷に描き出しています。

指の間をさらさらと零れ落ちる米の感触は、皮肉にも生の輝きに満ちた夢のような手触りとして描写されます。しかし、その代償として彼の手を濡らしたのは、救いの手を差し伸べてくれた村の平穏を切り裂く、温かくも忌まわしい血でした。

月明かりの下、全てを目撃しながらも言葉を発しない娘。その瞳に宿る「憐れみ」こそが、相沢にとってはどんな罵倒よりも深く、逃れられない刃となって突き刺さります。軍曹の「やってしまったな」という一言が、取り返しのつかない罪の重さを確定させ、物語は平穏な休息から、泥濘の中の逃走劇へと再び加速していきます。

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