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『ドリアン山の最後の二等兵』-桃色の寺の菩提樹の下で  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第四章 納屋の闇

 女は水筒を取り上げると、何も言わずにくるりと背を向けた。


 そして数歩進んでから振り返り、タイ語で呟いて手のひらを小さく動かした。


 ――ついて来なさい。


 その仕草だけで、意味は分かった。


 相沢と中村軍曹は顔を見合わせる。


 罠かもしれない―。


 だが、このまま闇の中に立ち尽くしていれば、体力は持たない。


 犬の吠え声も、いつまでも続くだろう。


 彼女は家の裏手へ回り込み、納屋の前で止まり軒先を指差す。


 そこには竹で組んだ簡素な床があり、古いござが一枚敷かれていた。


 雨を避けるには十分な場所だ。


 彼女は二人の顔を順に見て、軽くうなずいた。


 ――ここで休みなさい。


 言葉はないが、その意図ははっきりしていた。


 相沢が小銃を肩から下ろし、竹床に腰を落とす。


 瞬間、全身の力が抜けた。


 骨の中まで湿気が染み込んでいるようだった。


 中村軍曹はまだ立ったまま、周囲を警戒している。


 だがやがて諦めたように息を吐き、相沢の隣に座り込んだ。


 彼女はそれを確認すると、納屋の横の木戸を開けて中に入り、振り返ることなく扉を閉めた。


 バタン―乾いた音が夜に響く。


 それきり、出てこなかった。


 静寂が戻る。


 遠くで虫が鳴いている。時折、ドリアンの実がどさりと落ちる鈍い音がした。


 相沢はござの上に仰向けになった。


 星が見えた。南の空は低く、見慣れない星座が滲んでいる。


「……助かったぁ」思わず呟く。


 だが中村軍曹はすぐに答えなかった。


 長い沈黙のあと、低い声が返ってくる。


「助けられたと思うな」


 相沢は顔を向けた。


「ここはな、日本街道の村だ。あの娘の親も、祖父も、あの道で働かされたはずだ」


 闇の向こうに、昼間見た赤土の道が浮かぶ。


 朽ちた丸太。錆びた薬莢。


 胸の奥がざらついた。


 強烈に腹が鳴る。


 今まで何度も鳴ってきたが、これは違う。


 体の内側から何かが崩れ落ちていくような感覚だった。


 視線が自然と納屋の隙間へ向かう。


 暗闇の中に、ぼんやりと白い袋の形が見えた。


 米だ。


 その手前で、鶏が羽を震わせている。


 相沢はゆっくりと起き上がった。


「どこへ行く?」


 軍曹の声が背中に刺さる。


「……小便であります」


 自分でも驚くほど平静な声だった。


 竹床を降りる。


 赤土が冷たい。


 納屋の壁に手をつくと、木がしっとりと汗ばんでいた。


 ――生きるためだ。


 その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


 そっと扉に触れる。鍵はかかっていない。


 遠くで、再びドリアンの実が落ちた。


(つづく)

一線を越える、その瞬間の静寂……

善意で与えられた寝床のすぐ隣で、生存本能という名の獣が目を覚まします。第四章は、相沢が「救われる側」から「奪う側」へと堕ちていく、その静かな、しかし決定的な転換点を描いています。

見慣れない南の星空の下、軍曹が投げかけた言葉は、相沢が拠り所にしようとした「慈悲」の裏側にある残酷な時間でした。自分たちが傷つけた人々に助けられるという耐え難い矛盾。その歪みが、空腹という生理的苦痛と混ざり合い、相沢の理性を少しずつ、確実に侵食していきます。

「小便であります」というあまりに日常的で空虚な嘘。納屋の壁に触れた手のひらに伝わる湿り気。そして、運命の暗転を告げるように響くドリアンの落下音。扉の向こうに広がる闇は、相沢の心そのものです。次章、彼がその闇の中で何を掴み、何を失うのか。物語はついに、取り返しのつかない「罪」の深淵へと足を踏み入れます。

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