表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ドリアン山の最後の二等兵』-桃色の寺の菩提樹の下で  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/13

第十三章 ドリアンの風に消えて(最終章)

 老僧・相沢義信が死んだのは、二〇一五年の四月の乾いた朝だった。


 ピンクの寺の本堂で、仏像に向かって座ったまま、息が止まっていた。


 発見したのは若い見習い僧だった。


 肩を揺すっても動かないと気づいた時、青年はただ静かに手を合わせ、鐘を一つ鳴らした。


 音が山に響き、村へ下りていった。


 人が集まってくるのに、時間はかからなかった。


 村の老人たちは皆、相沢のことを知っていた。


 タイ語を片言しか話せないまま、五十年近く石段を掃き続けた、あの日本人僧侶のことを。


 托鉢に来るたびに深く頭を下げ、米一粒こぼさず受け取り、雨の日も風の日も同じ顔で歩いた男のことを。

 

 棺は村の大工が作った。


 花はジャングルの縁から摘んできた白いものを使った。


 読経が始まると、ドリアンの実がどさりと落ちる音がした。


 誰も笑わなかったが、誰かが小さく微笑んだ。


 プラ・アーチャンはとうに死んでいた。


 相沢が師と呼んだ老僧は、相沢が寺に来て十二年目の乾季に静かに逝った。


 その後、相沢が寺を守った。

 

 日本から人が来たことは、一度もなかった。


 家族がいたかどうか、誰も知らなかった。


 相沢自身も、語らなかった。


 ただ一度だけ、死の数年前、村の子どもに問われたことがある。


「なぜここにいるの?」


 相沢はしばらく考えてから、片言のタイ語で答えた。


「誰かに、聞いていてもらわなければならないことがあるから……」


 子どもには意味が分からなかった。


 大人たちにも、正確には分からなかった。


 だが誰も、それ以上聞かなかった。


 葬儀が終わり、人々が山を下り始めた頃。


 境内の端に、一人の老女が立っていた。


 村の者は皆知っている顔だった。だが誰も声をかけなかった。


 老女は仏龕の前に白い花を一輪供え、古びた布の包みを置いた。


 そしてゆっくりと手を合わせ、目を閉じた。


 どれほどそうしていただろうか。


 布の色はもう分からないほど褪せていたが、丁寧に何度も折り直された跡がある。


 老女はその包みを指先で整え、もう一度だけ手を合わせた。


 風が吹いた。


 布の端がめくれた。


 中から現れたのは、錆びた鉄の認識票だった。


 日本語が刻まれていた。


 若い見習い僧がそれを拾い上げた。


 意味は分からなかったが、人の名であることだけは分かった。


 裏には、乾いた赤黒い染みが残っていた。


 老女は村へと続く坂道を降りて行く。


 途中で一度だけ立ち止まり、振り返った。


 ピンクの寺――掃き清められた石段。


 仏像の静かな金の目。


 そして――老女は目を閉じた。


 ただ風だけが、甘く香ばしいドリアンの匂いを運んでいった。



(完)

沈黙の完結、風に溶ける名札ー

最終章は、六十年という気の遠くなるような歳月が、一粒の砂のように静かに物語の底へと沈んでいく終焉を描いています。相沢義信の死は、劇的な悲劇ではなく、掃き清められた石段のように、あるべき場所へ収まった平穏な帰結として綴られました。

「誰かに、聞いていてもらわなければならないことがあるから」という言葉。それは、かつて中村軍曹が相沢に託した「罪の記憶」の継承であり、相沢自身がこの地で祈り続けることで果たそうとした、目に見えない対話の結実です。タイ語を介さずとも、村人たちが彼の背中に感じ取っていたのは、言葉を超えた「誠実な悔恨」という名の生き様でした。

ラストシーン、老女が供えた「錆びた名札」の存在が、物語の輪を完璧に閉じます。六十年もの間、彼女もまた相沢を見つめ、赦しと審判の間で揺れながら、共に生きてきた。赤黒い染みの残る名札が風に晒される描写は、戦争という呪縛がようやくこの地から解き放たれ、一人の人間としての安息が訪れたことを象徴しています。ドリアンの香る風の中に、かつての硝煙の匂いはもうありません。ただ、一つの魂が真に救済された静寂だけが残ります。はい、名札の正体…おわかりになられたかと思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ