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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

加護より軽い、命の値段

作者: 招き猫
掲載日:2025/12/13

武田遥人が改札を抜けたとき、駅前はいつもより息が浅かった。人の流れが速い。肩がぶつかっても誰も振り返らない。スマホを耳に当てたまま立ち尽くす男の声が、雑踏の中で妙に硬く響いていた。


「……だから、今すぐ戻れって……!」


 風が冷たい。コートの隙間から入り込んで、背中の汗を一気に冷やす。残業で重くなった首の後ろが、ぞくりと縮んだ。遥人は駅前の大通りを横切ろうとして、信号機の一つが黒い目を閉じているのに気づく。点滅すらしない。交差点の真ん中で、ただ黙っている。


 次の瞬間、ガラスの割れる音がした。


 乾いた破裂音のあとに、クラクションが長く伸びる。誰かの怒鳴り声が重なり、遠くでサイレンが鳴った――鳴って、途中で途切れた。途切れた静けさの隙間に、別の音が混ざる。犬の鳴き声に似ているのに、喉の奥を擦るような歯擦れが混じった、不快な声。


 遥人は足を速めた。


 止まると、何かを見に行ってしまいそうだった。見たら、戻れない気がした。帰宅のルートは体に染みついている。考える前に、足だけが勝手に最短を選ぶ。コンビニの前を通ると、店内が異様に明るく見えた。明るいだけに、人の顔が険しい。


「水、もう無いのかよ!」

「入荷は未定です、すみません!」

「嘘だろ……!」


 棚が空っぽで、床に散ったペットボトルのラベルが、踏まれてぺたりと貼りついている。甘い清涼飲料の匂いが漂い、そこに汗と焦りの匂いが混ざって、喉の奥が粘ついた。


 遥人は店に入らず、路地へ曲がった。帰り道の近道。普段なら暗いだけの道だ。今日は暗さが、なにか別の意味を持っている気がした。


 曲がった瞬間、匂いが変わった。


 鉄錆と湿った土の匂いが混ざり、そこに、生臭い甘さが乗っている。雨上がりの側溝みたいな湿気が、ぬるく肌にまとわりつく。遥人は足を止めかけたが、止めるより先に影が動いた。


 路地の奥から、灰色の塊が滑り出た。


 犬の形に見える。だが背中の線が尖っている。頭の上に、煤を固めたみたいな角が二本。目だけが硝子玉みたいに透明で、暗闇の中で点っている。口元が赤黒く濡れていて、唾液が糸になって垂れていた。


 遥人の喉がひゅ、と鳴った。


 声にする前に、身体が拒否する。犬じゃない。犬の皮を被った別のものだ。脳がそう判断した瞬間、膝がわずかに笑い、靴底が砂利を踏んで小さく鳴った。


 影の目が、こちらへ向く。


 そのとき、背後から足音が駆け込んできた。スーツ姿の若い男が、遥人の横をすり抜けようとして、息を切らしながら叫ぶ。


「やべぇって……誰か……!」


 叫びが合図になったように、灰色の塊が跳んだ。


 速い。軽い。瓦礫の多い地面なのに躓かない。若い男の背中へ飛びつき、肩口へ噛みつく。悲鳴が上がり、すぐに喉が潰れる音に変わる。骨に当たる鈍い音がして、男の体が引きずられる。アスファルトに擦れる音が、やけに長い。


 遥人は動けなかった。


 動けば、次は自分だと分かってしまったからだ。頭が真っ白になる代わりに、体が勝手に生存の手順を選ぶ。走るな。息を殺せ。影へ。


 遥人は走らず、建物の影へ滑り込んだ。視線だけで逃げ道を探す。半開きのシャッター。古い弁当屋の看板。店内は真っ暗で、油の酸化した匂いが染みついている。遥人は身を低くして、シャッターの隙間から中へ入り、カウンターの下にしゃがみ込んだ。


 床が冷たい。コンクリートの冷えがズボン越しに膝へ刺さる。木のささくれが指先に引っかかり、思わず息が漏れそうになるのを噛み殺した。心臓がうるさい。自分の鼓動が店の外へ漏れて、あの透明な目に拾われる気がした。


 外の歯擦れが近づく。


 爪がアスファルトを掠める乾いた音。唾液が落ちる、濡れた気配。鼻を刺す鉄錆の匂いが、店の中まで滲んでくる。遥人は息を止めると苦しくて、ほんの少しだけ吸い、ほんの少しだけ吐いた。肺がざらつき、喉がひりつく。


 影が、店の前を横切った。


 残った窓ガラスに、透明な目が一瞬だけ映った。遥人は目を閉じた。見たら、反射で動いてしまう。動けば、音が出る。音が出れば終わる。


 どれほどの時間が過ぎたか分からない。


 遠くで別の悲鳴が上がり、歯擦れがそちらへ引かれていく気配がした。遥人はゆっくりと瞼を開け、シャッターの隙間から外を覗く。路地は空っぽだった。空っぽのほうが怖い。終わったのか、潜んでいるのか、判断がつかない。


 遥人は唾を飲み込み、喉が鳴らないように舌を押しつけたまま、店を出た。


 小学校へ行く。


 さっき駅前で聞こえた「小学校が開いてる」という噂だけが、唯一の道標だった。そこへ辿り着けば、人がいる。扉がある。扉があれば閉じられる。閉じられれば、今夜だけでも生き延びられる。


 遥人は建物の影を選び、路地を繋いだ。何度も止まり、何度も耳を澄ませ、何度も汗で冷える背中を擦った。風が煤の匂いを運び、どこかで金属を齧るような音が続いている。時々、薄い羽音みたいなものも混ざるが、正体を確かめる勇気はなかった。


 校門が見えたとき、足が震えた。


 門の前には机や体育器具が積まれ、隙間から懐中電灯の光が漏れている。中から声がして、鍵の音がして、隙間が開いた。


「早く、入って!」


 遥人は身を滑り込ませた。扉が閉まる。外の音が一枚壁を隔てて少し遠のいた。それだけで膝が抜けそうになり、遥人は廊下の壁に手をついた。木と雑巾の匂い、人の汗と恐怖の匂いがいっぺんに押し寄せる。


 体育館へ案内される途中、誰かの囁きが耳に触れた。


「……あの灰色の角の犬、さっき来た人が“灰角犬”って言ってた」

「名前なんて付けてる場合かよ……」


 名前があるだけで、少しだけ話しやすくなる。少しだけ怖さを共有できる。遥人はその言葉を、胸の奥へ沈めた。


 強くない。賢くもない。


 ただ、運よく噛まれなかっただけだ。


 体育館に入ると、人の熱気が湿った壁みたいにまとわりつく。薄い雑炊の湯気。濡れた靴下の匂い。誰かの泣き声が布団の間を転がる。遥人は壁際に座り込み、ようやく息を吐いた。


 吐いた息が震えているのに気づいて、両手を握りしめた。


 帰り道は、もう帰れない道になった。


 この先は、逃げ道しか残っていない。

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