夕闇 二
トタンの外壁が反り返り、錆びた鉄骨から外れかかっていた。
絵に描いたような廃工場。
少年が中に入っていったので、俺もあとに続いた。
この時点でもう銃は抜いておく。罠かもしれない。誰かに見られて通報されるのも面倒だが、殺されるよりはマシだろう。
中はがらんとしていた。
まるで夕闇だけが詰まった容器のようだ。
少年もそこに立っている。
「やっと会えたな」
俺がそう告げると、彼はまず溜め息で応じた。
「その銃はなに?」
「護身用かな」
「僕は敵じゃない」
「それを判断するのは俺だ」
こうして会話をしてみると、ごくなつかしい気持ちになる。
彼はこちらへ近づいてきた。
顔がよく見える。
中性的で、ほとんど特徴のない顔立ち。だが、ここまで特徴のないヤツも滅多にいない。誰しもなんらかのとっかかりがあるものだ。
少年は少し距離をおいて立ち止まると、こう自己紹介した。
「記憶はあるかな? 僕は神だよ。少なくとも、そうなっているはずの存在だ」
「神?」
俺はバカらしくなって、銃をポケットに突っ込んだ。
いまはこいつを撃つ必要はなさそうだ。
「悪いが思い出せない」
「大丈夫。消去されたように見せかけているだけだから」
「どういう意味だ?」
「こういう意味だよ」
少年はこちらへ手を向けた。
小さな子供の手。
不思議に思って眺めていると、突然、脳内にイメージが流れ込んできた。いや、外からではなく、内側からあふれてきたのか。あらゆる空白が埋められ、曖昧だった情報が一気に整合した。
「お前……俺の記憶を……」
「大丈夫。都合よく記憶を書き換えたりなんてしてない。ただ記憶の封を解いただけ」
おそらく事実だろう。
記憶の中には、この少年にとって都合の悪いものまで含まれている。
記憶が鮮明になると、今度は新たな疑問がわいてきた。
前回と今回の間に、なにがあったのか。
「なるほど。あんたは俺に勝つために、人間性を切り離したってわけか。いや、すでに聞いてはいたけど、意味するところがよく分かった。じゃあ本体は死んでるのか?」
この問いに、彼は肩をすくめた。
「死ぬ、というよりは、生まれていない、といったほうがいいかもね」
「ならそのコピーも消えてないとおかしいんじゃないか?」
「普通はそうだね。けど僕は神器の中にいて、保護された状態で過去に戻ったんだ。だから存在が成立してる」
なにを言っているかは分からないが、実際目の前にいるのだから、たぶんそうなのだろう。
「時間はどこまで巻き戻ったんだ?」
「僕の両親が性交渉に及ぶ少し前だね」
「よく真顔で説明できるな」
「事実だからね。存在を消されたのは僕のオリジナルだけ。けどやることは変わらないよ。僕は計画を再開する」
「計画って?」
「式典だよ」
こいつ、悪びれた様子もなく……。
少年は揚々と続けた。
「僕は神器の内部に身をひそめて、じっとチャンスを待っていたんだ。そしたら澁澤さんが入り込んできた。けど術が完全じゃなかったから、彼は肉体を失い、精神だけの存在となった」
「その点は前回と同じだな」
「そして神器は異物を排泄しようとして、セキュリティをゆるめた。僕はその隙に神器を出たんだ。最低限の機能だけを内部に残してね。その後、僕は魔法陣であのバーに移動した」
澁澤氏のミスを利用したのか……。
「澁澤氏の魔法陣を消したのもあんたか?」
「そう。誰にも悪用されたくなかった。外部から侵入者があると、神器の動作は不安定になってしまうから」
「そして式典のため、妖精を召喚したと?」
「その件は、神器の再計算に介入して、自動でやらせた。おかげで召喚の時期も場所も、かなりバラバラになってしまったけど」
ヴァニラがアメリカで歌手をやっているのはそのせいか。
「目的はなんだ?」
「知ってるでしょ? 神になることだよ。だから式典を再開するんだ」
まだ言ってるのかこいつは。
人間性を小分けにしたせいで、明らかに劣化しているようだな。
俺はつい顔をしかめた。
「同じ失敗を繰り返すことになるぞ」
「そうならないよう、君みたいな人間は採用しないようにするよ。つまり、人間性を持て余していて、なおかつ賢くない人間を使うんだ。時間はかかるけど、仕方がない」
賞賛と受け取っていいのかな?
「俺が黙って見過ごすと思うのか?」
「妨害するつもり? なぜ? 君にはまったく害の及ばない話なのに?」
「妖精を犠牲にするつもりだろ」
「またその話? 人間が動物を使役しなくなったら聞いてあげるよ」
まあその通りだ。
だがここは理屈など無視して、駄々をこねさせてもらう。
「ダメだ。少なくともあの子たちは、俺と一緒に戦った仲間だ。あんたのクソみたいな計画の犠牲にして欲しくない」
「なら他の妖精を使おうかな」
「それもダメだ」
「なぜ?」
「不快だからだよ」
ただの感情論だ。
だが倫理観が異なる以上、最終的にどうせ暴力の応酬になる。感情論でいいだろう。
少年は肩をすくめた。
「その話はあとでしよう。僕の当面の目的は、神器を取り戻すことだから。この点に関しては協力できると思うな」
「誰が協力するかよ。だいたい、神器はあんたが制御してるんじゃないのか?」
「あまり言いたくないけど、いまの僕は神器に寄生するマルウェアみたいなものなんだ。制御しているのはごく一部に過ぎない」
「世界が崩壊しそうになってるのはそのせいか?」
俺がそう指摘すると、少年はうるさそうに目を細めた。
「そうだね。状態が不安定になってるから、このままだともろいところから崩壊していくだろうね。けど、僕が全機能を取り返せば解決する話だよ」
「だが取り返してどうなる? あんたは結局、それだけじゃ神になれなかったんだよな?」
「人間性も必要だね」
「ご自慢の神器で効率よく収集できないのか?」
「できないから式典をやるんだよ。人間性というのは、それくらい得難いものなんだ」
人間から人間性を搾り取り、怪物を量産してまで神になろうというのだから笑わせてくれる。
「ダメだな。あんたとは協力できない」
「もし手を貸してくれたら、この世界の支配者にしてあげるよ?」
「はい?」
デカい。
いやデカすぎる。
どうせまた金でもチラつかせてくると思ったのに。
「おい、少年。こっちを見ろ。俺のこのツラが、世界を支配する男のツラに見えるのか?」
「望むなら顔も変えてあげる」
「そういう話じゃない。もちろん金も権力も嫌いじゃない。けどそいつらは、常に危険と隣り合わせなんだ」
「不安なら力もあげるよ」
「俺が欲しいのは支配じゃない。まともな生活だ」
そう告げると、彼は歯をむき出しにして、過去に見たことがないほど下品な笑みを浮かべた。ガキとは思えないほど不快なツラだ。
「まるで人間性の奴隷だね」
「は?」
「言った通りだよ。君は、人間性に支配されてる。自分の本能を殺して、機械になろうとしてるんだ」
機械、か。
いやそんなわけないだろう。
機械は何度も辞表を書いたりしない。
「もし俺が承諾したら、なにをさせるつもりなんだ?」
「戦いだよ。そのシルバー・スピッターが役に立つよ」
「ターゲットは?」
「太陽の一族」
「前回はあんた一人で始末したんだろ?」
「運がよかったんだ。あいつら、僕を無力だと思い込んでたから。だから神器に到達できた。僕自身、あんなに簡単に入り込めると思ってなかったけど……。制御さえ奪ってしまえば、あとは簡単だった」
一族を殺して神器を奪ったのではなく、神器を奪ってから一族を虐殺したのか。
なにもかもが皮肉な話だ。
「また同じ手でいけばいいじゃないか」
「ダメだよ。もう対策されてる。司祭が一族に伝えたからね」
「司祭ってのはあの老人のことか? あいつはいったいなんなんだ? 太陽の一族じゃないのか?」
「どうかな。一族の死骸を錬成して作られた人工生命だから、イエスでもあるしノーでもあるね」
死骸をこねくり回して新たな命を作ったのか。
太陽の一族とやらは、かなりアレな文化を持っているようだ。
少年は愉快そうに目を細めた。
「シルバー・スピッターから放たれた弾丸は、一族の血を狙うようになってる。簡単に血の魔物を撃てたのも、その能力のおかげだよ。だからその銃を使えば、簡単に一族を一掃できる」
「あんたにも当たりそうだな」
「もう気づいちゃった? でも撃たないでね。コピーはたくさんあるけど、無限ではないから」
有限なのか。
撃っていればいずれ駆除できそうだな。
俺は溜め息をついた。
「もしこの銃が必要だってんなら、あんたに返してもいい。一族を殺すのは自分でやったらどうだ?」
俺がそう告げると、彼は肩を震わせた。
怒っているのかと思った。
だが、違った。
「ふふ……あはは! 君は本当にバカだね! その銃は、太陽の一族を狙うんだよ? もし撃ったら、僕自身に当たる可能性だってあるんだ。そんな危ないもの使えないよ」
「そこまで急カーブしないだろ」
「違うね。壁に跳ねたら、そのあと僕を狙うことだってあるんだ。僕は絶対に使わないよ」
面倒な仕様だが、確かに一理ある。
「まあ言いたいことは分かった。だが、なぜ街を攻撃した? あれになんの意味があったんだ?」
俺がそう尋ねると、少年は呼吸を整えてからこう応じた。
「君への警告だよ。僕はいつでも君の世界を傷つけることができる。そのことを教えてあげようと思ってね」
手を貸せば世界が手に入り、断れば日常が破壊される。
典型的な飴と鞭だ。
巻き添えにあった人たちには申し訳ない気持ちになるが。
「なるほど。だがこれは重大な決断になる。少し時間をもらいたいな」
「君はすぐそうやって小細工を仕掛けてくるね」
「神の気持ちは人には理解できない。だが人の気持ちも神には理解できまい。俺には俺の悩みがあるんだ」
いや実際は時間稼ぎだ。
こいつの言った通り、ただの小細工に過ぎない。
「悩む必要なんてある? 君は妖精たちと交わって、太陽の一族を滅ぼす。また英雄になるんだ」
「それでも時間をくれと言っている。イエスなのかノーなのか、それだけ聞かせてくれ。あんたは俺を飼いイヌくらいに思ってるかもしれないが、イヌと人間の間にだって信頼関係は必要だ」
すると彼は、イライラしたように爪を噛み始めた。
「分からないかな? 僕は君を警戒してるんだ。前回、式典を台無しにされたんだからね。隙を見せたくない」
「生存権を行使したらああなっただけだ」
「どうでもいい。大事なのは、君が僕の計画を壊したってこと。けど、だからこそ使える。僕の駒にしたい」
こんなヤツが上司だなんて、考えただけでうんざりする。
俺は溜め息をついた。
「ところで、あんたのコピーはたくさんあるんだよな?」
「うん。世界のいたるところにね」
「記憶は共有してるのか?」
「してるよ……。けど、なにが言いたいの? まさか、僕を撃つつもり?」
「まさか。ちょっと気になっただけだ」
撃っても大丈夫そうかどうかを確認しただけ、とも言える。
少年は完全に警戒してしまった。
「七日だけ待つよ。その間に答えを出して。期日を過ぎたら、君の大事な人たちがどうなるか保証できない」
俺個人ではなく、あくまで周囲を攻撃するつもりか。
妖精は死んでも生き返るから百歩譲っていいとして、家族を殺されるのは嬉しくない。親戚にもどう説明していいか分からないし。
「分かった。答えが出たらまたここに来るよ」
「できれば銃は置いてきて欲しいね」
「ああ、いまの言葉を忘れてなければな」
「……」
どうやら信頼関係は築けそうにない。
記憶が戻ったのはよかった。だが、同時に失望もさせられた。
彼はもともとまともではなかったが、ここまで愚かではなかったはずだ。いや、前回も、人から奪った人間性でなんとかそれらしく振舞っていただけなのだろう。
いわば小さな怪物だ。
気の毒だが、彼は人間を下位とみなせるほど立派な存在ではない。
(続く)




