侵入者 一
もう終電もなかったので、俺はバーで夜を過ごすことにした。
一階のソファはパキラが占拠していたから、俺は二階の寝室を使った。大きな部屋に、七つのベッドが並んでいる。壁際にソファがあったので、俺はそこへ身を横たえた。
窓からは夜が見える。
丸い月が浮いている。
今日はいろんなことがあった。
喋るネコに会って、それから妖精たちと出会った。
夢だと思っていたものが、過去の記憶だと分かった。
記憶を頼りにバーを見つけた。
だが、それだけだ。
それ以上のことは、なにも分かっていない。
*
いつの間にか夢を見ていた。
誰かと話していた。
銃を受け取り、俺は意気揚々と店を飛び出し……。そして月夜の世界で、繭に出会った。
「英雄、起きてくれ。なんか変だ」
「えっ?」
パキラに身をゆすられ、目を覚ました。
まだ朝じゃない。
少しうとうとしたタイミングで急に起こされた。
「なんだ? どうした?」
「裏口のドアから、なんか入り込んできた」
「なんかって?」
「知らない。赤いドロドロのやつ」
「カギならちゃんと閉めたぞ?」
「隙間から入ってきたの。そいつが急に立ち上がって……。瓶でぶん殴ったのに、ちっとも死ぬななかった」
赤いドロドロ――。
血の魔物か?
ええと。
記憶によれば、俺はそいつを簡単に倒していた気がするのだが……。
しかし銃がない。
パキラは困ったように首をぽりぽりかいた。
「能力、使っていいかな?」
「能力って?」
「武装だよ。狙撃できる。ただ威力がありすぎるから……ここでぶっ放すと、たぶん店ごと壊れる。かといって外でやると、もっと厄介なことになるし」
徐々に思い出してきた。
記憶の中の彼女は、電柱のような銃砲を担いでいた。そんなものを使ったら、ホントに店ごと壊れるだろう。近所の人が通報して、警察がやってくる。魔物に殺されるよりはマシだが……。
「そいつはいまどこにいるんだ?」
「カウンターの中に入っていった。腹でも減ってたのかな?」
カウンター?
そこには食料がある。消費期限は切れていると思うが。
あとは酒。
そして地下貯蔵庫。
ギシギシと、階段をあがってくる音がした。
マズい。
逃げ場がない。
俺はソファから飛び起きて、空っぽの花瓶をつかんだ。それくらいしか武器になりそうなものがなかった。
パキラは素手のまま。
店を壊す覚悟で応戦するか、窓から逃げるか、そのどちらかしか選択肢はないかもしれない……。
「ああ、待って。私だよ。タイガーリリー」
スラリとした褐色肌の女が、ホールドアップしながら入ってきた。
長い黒髪をポニーテールにまとめている。
彼女のことは特に記憶している。当時いろいろ世話になった。
パキラは顔をしかめた。
「は? なんであんたが?」
「子飼いの情報屋から連絡が来たんだ」
「誰?」
「あとで説明する。それより、地下の様子を見に行ったほうがいいんじゃないかな?」
事情を知ってるような口ぶりだ。
パキラが反論する前に、俺はこう応じた。
「会えてよかったよ、タイガーリリー」
「私もだよ、英雄」
「けど、下のヤツはどうやって倒すんだ?」
「これを使って」
彼女は尻ポケットから拳銃を抜き、グリップをこちらへ向けて差し出した。
「え、銃? どこでこんなものを?」
「カウンターにしまってあったよ」
「そんなところに? けど、撃ったら住民に通報されるんじゃ……」
「撃つのは地下だし、音は漏れないと思うよ。それに夜中だし、みんな寝てるんじゃない?」
一理ある、か。
パキラは舌打ちしたものの、特になにも言わなかった。
*
地下貯蔵庫におり、電気をつけた。
そいつはなにかを探しているのか、一人できょろきょろしていた。
ドロドロの血がそのまま固まったような魔物。
見れば見るほどグロテスクだ。
仲間がいなかったら、絶対に逃げていただろう。
俺が銃を構えると、後ろからタイガーリリーが近づいてきた。
「跳弾すると危ないから、なるべく下に向けて撃って。奥の人形にも当てないように」
「人形? なにかあるのか?」
「あとで説明する」
いまこの場で説明してくれても構わないのだが。
いや、いい。
敵に集中せねば。
両手で銃を構え、やや下方向へ照準をつけた。
血の魔物は、俺たちを無視してずっとなにかを探している。
トリガーを引くと、閃光とともに手首へガツンと反動が来た。パァンとけたたましい発砲音。血の魔物は割れた水風船のように飛散して、そのまま血だまりになった。
手が震えた。
よく考えたら、実際に銃を撃つのは初めてだった。
人の形をしたものを殺すのも。
「終わった……のか……?」
「たぶんね」
タイガーリリーは、すると血だまりを気にせず、奥へ奥へと進んでいった。
目的は人形か?
「みんなも来て」
彼女はいったいどういうつもりなのだろうか?
血を浴びた人形を抱え、俺たちを手招きしている。ちょっとしたホラーだ。
パキラが歩を進めたので、俺もやむをえずあとに続いた。
「その人形がなにか?」
「誰かの精神が封印されてる」
「誰か?」
いや精神って?
肉体を捨てて、この顔さえないマネキンに入り込んだ物好きがいるのか?
しつこい借金取りにでも追われていたのだろうか?
タイガーリリーは肩をすくめた。
「そう、誰か。けど、それが誰かは分からない」
「ここのオーナーとか?」
「たぶん違うね。もっと言えば人間じゃない。妖精でもない」
ならお手上げだ。
俺の知り合いは、人間か妖精しかいない。あとは神器の中の人くらいか。
パキラがぐっと顔を突っ込んできた。
「で、あんたはなんでこのタイミングでここに来たわけ? 教えてくれるんでしょ?」
「もちろん。私、この近くに住んでるの。この店の場所も、パキラが来るずっと前に特定してた。外に酔っ払いがいたでしょ? 彼に頼んで、監視してもらってたの。なにか異変があったら連絡してって」
異変?
パキラは眉をひそめた。
「で、血の魔物が現れたから駆けつけたってわけ?」
「違う。英雄らしき人物が現れたっていうから来たの。そしたら赤いのが地下に入っていくのが見えたから、手を貸そうと思って」
あの酔っ払いが協力者だったのか。
俺は溜め息をついた。
「助かったよ。パキラより先に来たってことは、ここもとっくに調査済みってことかな?」
「そう。去年の冬にね。言っておくけど、上の魔法陣を消したのは私じゃないよ。以前からあの状態だった。で、地下貯蔵庫を調べたとき、この人形の存在に気付いたんだ」
顔のない血まみれの球体関節人形。
子供サイズ。
服は着ていない。
見るからに呪われていそうだ。
オーナーの澁澤氏がどこかで購入した呪物としか思えない。
俺はいちどあたりを見回してから、こう尋ねた。
「血の魔物は、なんの目的でここに?」
「詳しくは分からないけど、人形を狙ってたんだと思う。この店には、ほかにこれといったものもないし」
まあ地下に来たということは、そういうことなんだろう。
だが、記憶と現状が違いすぎる。
以前は、こんなものはなかったはず。
*
いったんバーに戻り、それぞれ腰をおろした。
「ひとつ確認なんだけど、みんな、過去の……というか未来の記憶は持ってるんだよな?」
俺がそう尋ねると、パキラもタイガーリリーも肯定してくれた。
ここは想定通り。
だが、それでも納得いかない点があった。
「けどその人形、俺の記憶にないんだ。もし忘れてたとしても、実物を見たらたいてい思い出せるはずなのにさ。二人は、その人形のことおぼえてるのか?」
「いや、私は記憶にないね」
タイガーリリーがそう応じると、パキラも肩をすくめて同調した。
誰の記憶にもない人形――。
どう解釈すればいいのだろう。
過去を振り返ってみる。
前回の俺たちは、いったいどんなことをしたのだろうか。
きっかけはおぼえていないが、それはたしか「式典」という行為だった。
拠点はこのバー。
裏口のドアから別世界へ行けた。
どこもオゾン臭がした。
血の魔物を撃ちながら進むと、最後は繭に遭遇した。
繭からは妖精が出てきた。
俺は妖精たちを解放するため、戦いを続けた。
やがて「神器」と遭遇した。世界を改変する巨大な計算機だ。穢されていたせいで、動作不良を起こしているらしかった。
神器を割ると、中から人が現れた。
そいつは言った。時を巻き戻し、穢れの原因を消去し、すべてをやり直す、と。
時が巻き戻った。
以上だ。
なにか致命的な欠落がある気もするが……。
「えーと、俺たちがやってた『式典』についてだけど……。そもそも妖精たちは、なんで式典にとらわれてたんだっけ?」
俺の問いに、タイガーリリーは小首をかしげた。
「なにか禁忌をおかしたような……」
するとパキラがウイスキーの瓶をくわえたまま、なにか言った。
聞き取れない。
彼女は口の中のものを飲み込んでから、こう続けた。
「果実だよ、果実。それをパイにして食ったんだ。誰かが育ててたやつ」
「ああ、そうだったね。私が調理したんだ」
「そう、あんたのせいだ。責任とれよな」
「食べたのは君の判断だろ」
いや、問題はそこじゃない。
果実を育てていたのは誰だ?
俺たちの記憶からは、そいつに関する情報がスッポリ抜け落ちている。
例の神器は言っていた。
原因を消去する、と。
だからなにかが歴史から消え去った。
俺たちの記憶からも。
神器は、計算の整合がどうだとか言っていた。
第一目的は原因の消去。
俺たちの記憶は、あくまでそこに矛盾しない範囲でしか残されていないのだろう。
ここまで徹底的に消去されているなら、俺たちが自力で真実に到達することは不可能に近い。
なぜなら、どこを探しても、そいつに関する情報は存在していないのだから。
ふと、店のドアが開き、何者かがよろよろと入り込んできた。
「子供……」
法衣を身にまとい、布で顔を覆った人物。
神器――。
パキラが跳ねるように立ち上がった。
「また来たの? 警察に行けって言わなかったっけ? ここ、警察じゃないの。分かる?」
「子供……」
裾から覗く手足は、痩せ細って骨と皮だけ。
記憶によれば、そいつはもっと若々しくて、態度も堂々としていたはずだが……。
俺もスツールからおりた。
「待ってくれ、パキラ。少し話がしたい」
「は?」
「その人が神器だよ。神器の中にいた人物」
「神器? この爺さんが? いや婆さんかな?」
そういえば、面識があるのは俺だけだったな。
「神器、ご用はなんだ?」
「隠すな……子供だ……渡せ……」
「子供だけじゃ分からない。特徴を言ってくれ」
「不浄の子……」
ダメだ。
まったく分からない。
聞いたこともないフレーズだ。いったい誰のことを言っているのかも分からない。そもそも、なぜこんなに弱っているのかも不明だし。なにもかもが理解不能だ。
「さっき裏口から血の魔物をけしかけたのもあんたか?」
「世界が……崩壊する……」
世界が?
どうなるって?
その前に、俺の脳細胞が死滅しそうだ。
いい加減寝ようと思ってたのに、厄介ごとを持ち込みやがって。
だがこいつはキーパーソンだ。話を聞く価値はある。
たぶん。
まともに会話が成立するのなら。
(続く)




