幽霊は何故怖い(-ω- ?)
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私の亡くなった祖母が良く言っていた言葉に
「幽霊って、なんで怖がるだろうな、死んでるだけで同じ人間なのに」
というのがありまして、幼少期から確かにな~と思っておりました。
つい最近、なろう内のとあるエッセイを拝読しまして、その事を思い出しまして、この幽霊をなんで怖がるのかについて考察しようと考えた次第です。
というわけで本題ですが、私はこの幽霊=怖いの図式には日本人の霊にたいする文化的な認識があると思っていたりします。
ここでキリスト教や仏教における死後について考えますと、キリスト教においては死後、死者は最後の審判まで眠りについていると捉えていますし、仏教では全ての生命は輪廻転生の輪を辿って悟りへと至るとされています。
キリスト教でも仏教でも天国や地獄がありますが、教義で考えたなら死者が幽霊となる要素って、あまりないのですよ。
ここで祖母の言葉がまた出てきますが「死んだら仏様なら、怖がったり塩撒いたりって失礼だよな~」というもので、仏教思想に根差すなら、これが正しい認識なんですよね。
では何故、塩を撒いたりするんでしょう(-ω- ?)
実はこれは神道的な慣習なんですね、仏教ではないんですよ。
古来より日本では生者は生命力としての精気に満ちており、これが枯れることを気が枯れる(気枯れ)と呼び、転じて汚れとなりました。
神道において死者は黄泉の国の住人であり、死者に触れることは黄泉への道に繋がることとされ、そのままでは気を奪われて枯れてしまう、汚れてしまうとされたんですね。
ですから、この死者との道を断つ事が塩を撒くあの風習なんですね。
これが一つ目、黄泉へと誘う死者への恐怖、汚れへの忌避感が根底にあるのではないかと思っております。
さて、日本では神には2面性がありますね、和御霊と荒御霊です。
平将門や菅原道真など、怨霊となりながらも、反面で神として崇められる存在がいますが、これは神道的な概念では一切矛盾していないのが面白いですね。
荒ぶる魂を鎮め崇めて、その怨念や執着が離れた存在は和御霊なんです、一方で荒ぶる魂もまた超常の存在なんですね。
丑の刻参りという呪いの作法がありますが、あれ頭に五徳を反対に被って蝋燭をつける燭台替わりにしますが、あれって完全に鬼の姿なんですよ。
源氏物語でも嫉妬の末に鬼となる話がありますが、丑の刻参りって、自らを鬼と化し超常の存在へと至る儀式なんですね。
鬼とは隠であり怨でもあります、人の影に隠れた後ろ暗い感情が時として人を鬼とすると思われていたわけです。
そして、そうした怨念を持ったまま死を迎えた者は強大な怨霊となると信じられていたわけで、これが二つ目、日本人は悪霊を信じて怖がる文化的な土壌があるわけですね。
勿論、キリスト教国家にもゴーストなどの存在がありますが、ヴァンパイアなどのモンスターの一種という認識な気がするんですよね。
死というもの、そのものに対する忌避や恐怖の象徴というのもあるとは思いますが、精神文化に根差す、こうした理由もあるんじゃないかなんて考えてみました。
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