雨の日は、素麺を啜る
僕が素麺を食べる日は決まっている。
肌がナメクジの様に糸を引く、鬱陶しい雨の日。
それも、鉄板の屋根に激しく水滴が当たり、雨戸の隙間から水が染みこむ時だけだった。
僕は家の中から、ズゴゴっと排水溝に吸い込まれていく灰色の水を眺めつつ素麺を食べる。
これが最高に美味しい食べ方なのだ。
その日も、朝からずっと雨だった。
空は、腐った木々の様に真っ黒な雨雲が覆い尽くしている。
古い建物だから風一つで全体が軋み、屋根元を支えている石がゴリゴリと、骨が削れるような音を立てている。
天井からぶら下がっている豆電球が揺れ、部屋の明暗が逆転することもあった。
これでは、まるで台風だな、そう思った。
しかし、こんなのは毎年のことなので、特に気にしていても仕方ないだろう。
僕は手慣れた手つきで戸棚から素麺を取り出し、鍋で水を沸騰させた。
味に変化も欲しいので、ネギを切っておくのを忘れてはいけない。
「夜分に、すいません」
僕が食卓に皿を準備した時、警察官がやってきた。
昨日、尋ねて来た人と同じだったので、安心して僕は彼を家に上げた。
「やあやあ、これはご飯時でしたか。すみませんね、こんな時におじゃまして」
僕は、予想していましたから、と答える。
警察官は、だるそうにワイシャツの襟元を動かしていた。
仕方ないので、水道水でよろしければ、とコップに水を注いだ。
「ああ、助かります。毎日毎日、雨が降って嫌ですね。蒸し暑くていけない。こういう日はソーメンを、ズズズって食べたいですな。あ、これ、けして私もご相伴に預かりたいという意味ではないので、悪しからず」
僕は、何も話し返さなかった。
その次に尋ねてくる本題が何なのか、分かっていたからだ。
予想通り、警察官は所で、と言った。
「何か、思い出したりしましたか? 目撃者は貴方だけなんですよ。こうして、目と鼻の先で人が殺されたんですから、見ていてくれると助かるんですがね」
僕は口を閉じたままだった。
「何も無し、ですか。しかし貴方は外を眺めていた。なのに軒下で起こった殺人事件を目撃していないなんて、そんな変なことがありますかね。本当は何か見ているでしょう?」
僕は、何も、とだけ答えた。
「そんなハズは無いでしょう。この窓から見えるものといったら、向かいの廃棄ビルか道路、後は古い排水溝ぐらいだ。外に視線がいっていたのなら、誰かしら見ているはずだっ! 他に何を見るっていうんですか」
警察官は語尾を荒め、興奮していた。
優しかった顔つきが古い銅像の様に強ばっていた。
僕が萎縮しているのを感じ取ったのか、やがて警察官は使ったコップを流し台に置いた。
「去年、この場所で死んだのは私の妹です。署では事故と判断していますが、私は誰かが殺してると考えています。そんな事、あり得るはずが無いんです。何か、お話しできる事がありましたら、署まで来てください。私は諦めません。それと、お水をありがとう」
そう言い残すと、警察官は静かに部屋を出て行った。
カツカツと板木が擦れる足音が、妙に耳に響いていた。
僕は、やはり素麺を食べるしかない、と思った。
もう殆どの準備は終わっている。
パサパサになった麺を皿に盛りつけ、濃いめのだし汁をお椀に注いだ。
最後は今日のメインである刻んだ青臭いネギを供えるだけだ。
そこで、僕は壁を強く叩いた。
その衝撃で板木の一枚が激しくめり込み、蛍光灯の電気がブツッと消える。
やがて、部屋と天井裏の隙間から支え岩が外れ、転がり出す。
雨が降り続けている中、建物の外で肉が潰れる音が微かに響く。
僕は暗闇の中、排水溝に赤い水が吸い込まれていくのを、素麺を啜りながら眺めていた。