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7.花嫁修業、開始

 思い出す。


 目を瞑って、眠りに落ちるたびに思い出す。

 自身の惨めさを。愚かさを。無力さを。


『さぁ、今のうちに戻って。――絶対に、振り返ってはだめよ』


 そう、今にも儚く溶けてしまいそうな笑みで、自身を悪夢そのものの空間から逃がしてくれた、とてもとても美しい金髪と金の目を持っていた彼女の姿を。


 クシェルは今日も、夢に視た。



 *



 月日は経ち、クシェルがエルツ男爵家のカントリーハウスにやってきてから早一ヶ月が経っていた。


 初めのうちは自分の立ち位置が分からず困惑し、服だけでなくそれ以外の生活必需品まで与えられ戸惑い、縮こまっていたクシェルだったが、一ヶ月も暮らしていればその緊張も解けてくる。

 エルツ男爵家の人間たちがエーデルシュタイン子爵家にいたような、力で他人をねじ伏せるような人たちではないことをようやく体が理解し始めたのも、クシェルが緊張を解いた理由の一つと言えるだろう。


 エルツ男爵家の人たちは、クシェルの知っているような人たちとは違う。


 頭ではそう理解していても、生まれてから十六年間、繰り返し行なわれてきた暴力と暴言に脅かされてきたのだ。なかなか馴染めず、内心焦っていたように思う。


 それに。


(私みたいな石ころが、こんなに穏やかな日々を過ごせて、良いの……?)


 そんな、不安と申し訳なさをごちゃ混ぜにした感情が、じんわりじんわりと胸に広がるのだ。同時に、この穏やかな日々が壊れてしまう日が刻一刻と近づいていることに、震える。


(だって、イェレミアス様は。私が『石ころ』だということを、知らないのだもの)


 期待をかけていた婚約者が無能だったと知れば、さすがのイェレミアスも驚き嫌悪を滲ませるはずだと思う。それが心に重くのしかかり、痛みに変わる。


 しかしそれがだいぶ和らいだのは、月日が経ったのもそうだがクシェルにとって『やらなければならないこと』ができたからだった。







「……はい。それでは本日から、本格的な『花嫁修業』に入りましょうか〜」

「は、はい。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」


 クシェルは、満面の笑みで手を合わせる銀髪碧眼の家庭教師――ヘルタに向かって、こくりと頷いた。


 そう。クシェルにとって『やらなければならないこと』とは、『花嫁修業』のことである。

 一週間ほど前にやってきたヘルタは、イェレミアスが呼び寄せたという三十代ほどの穏やかな女性だった。


 その一週間ほどで、ヘルタはクシェルがどれくらいの知識や所作をできるのかを確認した。その結果を踏まえて、クシェルに合った花嫁教育をしてくれるらしい。


 今日はその初日だった。


 ヘルタはテーブルに座るクシェルの背後につきながら、よく通る声で告げた。


「はい、それでは今日は、『精霊と妖精』についてのお話をしたいと思います〜。クシェルさん、大丈夫ですか?」

「は、はい」


 クシェルは、渡された教本を該当ページをじっと見つめた。


「まず、精霊と妖精のことからですね」


 ヘルタはそう言いながら、説明する。


「精霊というのは、主に自然物に付いている魂や霊のことを指します。実体がないため、一部の人たちにしか見えません」

「はい」

「その一方で妖精ですが、こちらは自然物以外にも宿る精ですね〜。実体がありますので、そういう目がなくても見えます。花の妖精とか、木の妖精とか……とにかく個に宿る感じです。なのでたまに、人間と交わったりすることがあります。クシェルさんがいたエーデルシュタイン家というのは、そういうお家ですね。……この辺りは、大丈夫そうですか?」

「は、はい。大丈夫です」


 こくりと頷く。この辺りの知識は、クシェルも持っていた。

 なんせここミュヘン王国は、精霊や妖精を愛し信仰しまた畏怖し、当たり前のものとして扱う国だからだ。


 クシェルの反応を見て満足したヘルタは、笑みを絶やすことなく口を開いた。


「この二つはどちらが上とか下とかはないんですが……影響力が大きいのは、精霊の方ですね。たとえば風の精霊を怒らせてしまったら、大きな嵐が起きて私たちでは止められません」

「そ、そうなのですね……」

「はい。ですがどちらも、私たちにとっては良き隣人です。特に魔術師にとっては、契約すればより強い力を得ることができる相棒にもなるのです。なのでミュヘン王国では昔から、大切に扱われているわけですね」


 こくこく、とクシェルは頷く。同時に、気恥ずかしさもあった。


(宝石の妖精の血を引いているのに……私、この辺りの知識が少ないわ)


 一週間様々なテストをしたが、クシェルがほとんど答えられなかったのが精霊と妖精についてだった。

 そもそも教えられてすらいない。それは、クシェルが石ころだからかもしれない。


 しかしそのことが明らかになり、イェレミアスとヘルタに驚かれたときは、本当にどこかへいなくなってしまいたいくらい恥ずかしかった。


(よくよく考えなくても、ミュヘン王国では常識なのに……それに私は宝石の妖精の血を引いているのに、そんなことも知らないだなんて……)


 座学中にいらない雑念が入り込み、クシェルはいけないと自分を叱責する。

 せっかく基礎的な知識から教えてくれているのだから、しっかり聞かなくては。


 クシェルがそう自分に活を入れている間にも、ヘルタの講義は続いていく。


「彼らは皆等しく良き隣人ではありますが、奴隷でも従者でもありません。どちらかというと、信仰する存在ですね。どうしてだと思います?」

「えっと……」


 クシェルは、唐突に問いかけられ言葉を詰まらせた。


(どうして、かしら)


 そもそも、何か物事に対して「どうして」と考えたことがなかった。その上知識もないので、余計焦ってしまう。

 頭が真っ白になり、嫌な汗がじわりと手のひらににじんだ。


 クシェルが思わず言葉を失っていると、ヘルタが心配そうに顔を覗き込んでくる。


「クシェルさん?」

「あ……あ、の……」

「分かりませんか?」


 クシェルは、口を何回か開閉してから恐る恐る頷いた。同時に、張り手が飛んでくることを覚悟してぎゅっと唇を噛む。

 しかし。


「うんうん、分からないですよねぇ」


 返ってきた返答は、思わず呆気に取られるくらい軽いものだった。

 クシェルが声もなくヘルタを見上げていると、彼女は首を傾げる。


「どうしました?」

「あ……えっと……。分からない、のに……いいん、ですか?」

「もちろんです。そしてそんなことで、いちいち怒ったりしませんよ〜」


 クシェルが目を見開いていると、ヘルタは続ける。


「今回こんなふうに質問をしたのは、分からないなりに『なんでだろう?』と考えるきっかけになってほしいな、と思ったからです。クシェルさん、そういうのも苦手ですよね?」

「あ、おっしゃるとおり、で……」

「うんうん。人はそれを『好奇心』と言うんですが、クシェルさんはその辺りがぎゅぎゅーっと押し込められちゃった感じがありますねぇ」


 ヘルタは頷きながら、教本をクシェルのほうに向けてくる。


「クシェルさん。ここに載っているのは、あくまで知識なんです。知識というのは、ちゃんと使ってあげないとただの〝モノ〟で終わってしまいます。たとえば」


 ヘルタはそう言って、クシェルが持つ羽根ペンを指差す。


「羽根ペン。これをわたしたちは『書くモノ』として認識してるから、こうやってインクをつけて使っているわけなんですが」

「はい」

「多分、何も知らない人間から見たら、これはただの羽根なんですね」

「……そう、ですね」


 ヘルタの言う意味を、クシェルは理解した。確かに羽根ペンをペンだと知らない人間からしてみたら、使い方すら分からないだろう。

 そして知識の場合、その使い方の幅が無限にあるのだ。この羽根ペンよりずっと。

 ヘルタは言う。


「これはわたしの方針なのですが、クシェルさんにはたくさんたくさん考えて、色々なことに興味を持ってもらいたいのです。なのでバンバン質問します。それで答えられなくてもいいんです、考えるのが大事ですから」

「……はい、先生」

「ただ……もし無理そうなら、言ってください。わたしも無茶振りがしたいわけじゃ、ありませんから」


 ヘルタにそう言われ、クシェルは少し考えた末に首を横に振った。


「だい、じょうぶです」

「……分かりました。でも、何かあったらすぐに言ってくださいね」

「はい。ありがとうございます」


 こくりと頷く。だが、初めのうちに感じていた気恥ずかしさは、先ほどよりは薄れていた。


(先生が真摯に教えてくれているのだから、私が恥ずかしいなんて思って、萎縮するほうが失礼だわ)


 そう思うと、自然と背筋も伸びる。

 そんなクシェルを見て安心したらしいヘルタは、こほんと咳払いをした。


「それでは、先ほどの続きですが」

「はい」

「精霊と妖精を信仰するのは、彼らが人間よりもずっと力を持っている生き物だからです。それと同時に、自然というのは立ち向かうものでなく、付かず離れずで付き合っていかなければならない存在だからですね」


 ヘルタは教本をぱたんと閉じると、にこりと微笑む。


「はいクシェルさん。信仰する相手に、人間は何をするでしょう?」

「え。あ、その……」


 ぐるぐると考え、クシェルはピンときた。


「生贄、です、か……?」

「惜しいです。今はそこまで、非人道的なことはしてません。代わりに、お祭りを開いて感謝や祈りを捧げたり、供物……食べ物だとかその精霊や妖精が好きなものを捧げます。これを、一般的には『精霊祭』と呼ぶわけですね」

「なる、ほど……」

「同時にその領地を治めている領主は、その『精霊祭』を取り仕切る役目があります」

「そんな大役が……」


 エーデルシュタイン家ではそんなことをしていただろうか、とクシェルは首を傾げたが、エーデルシュタイン家ではそもそも精霊や妖精を信仰をしていないのかもしれない。

 なんせ、宝石の妖精の血を利用しているのだから。


 そう思っていたら、ヘルタがにこにこ微笑む。

 その笑みの理由を掴めず、クシェルは眉をハの字にした。


「えっと、先生。いかがされましたか……?」

「はい。実を言うと、エルツ男爵領でも『精霊祭』が開かれるのですよ。なんと、一週間後の夕方からです」

「……えっ」

「というわけでクシェルさん。イェレミアスさんのお仕事、見てみたくありませんか?」


 悪戯っぽく微笑むヘルタに、クシェルはただただ目を白黒させることしかできなかった。

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