閑話1.わずかに芽生える何かと、縛られるもの
クシェルと一緒に買い出しに行った日の夜。
イェレミアスは魔導ランプを灯した私室で、一人書き物をしていた。
イェレミアスの私室はシンプルなもので、置いてある家具は執務机と本棚だけだ。書類や本が並んでおり雑多に見えるが、味気ない。
地続きになっている寝室にも、ベッドとクローゼット、箪笥くらいしかない。それは、この屋敷で生まれ育ち男爵位を受け継いだとされている『今代エルツ男爵』にしては、いささか生活感のないものであった。
天候が崩れて吹雪いてきたのか、ガラス張りの窓がガタガタと悲鳴をあげている。カーテンを閉めていても響く音を聞きながらも、イェレミアスは書き物の手を止めない。
ガタガタ。サラサラ。
二つの音だけがひっそりと響く部屋は、少しだけ不気味だった。
コンコンコンコン。
そんな部屋に、ノックが響き渡る。入ってきたのは、一組の男女だった。
男のほうは、イェレミアス付きの執事だ。名をクヌート。イェレミアスに幼少期から付き従ってくれている、三十代ほどの男性である。
女のほうはレーネ。現在クシェル付きの侍女として働きつつ、屋敷の家事全般を取り仕切っている女性だった。
二人は一礼すると、イェレミアスに書類を手渡す。
「旦那様、こちらがローデンヴァルト侯爵家からの最新情報になります」
「ありがとうございます、クヌート」
「……お仕事の方はいかがですか?」
「……ぼちぼち、と言ったところですね」
イェレミアスは苦笑した。
ここで言う仕事、というのは、二つある。
一つ目が、数週間後に行わなくてはならない『妖精祭』に向けた準備。
そして二つ目が――クシェル・オニュクス・エーデルシュタインに関することだった。
むしろ、そちらが本題と言っても過言ではない。だからこそイェレミアスはこうして、クシェルを迎え入れたのだから。
知りたいことがある。
そのために、できれば協力してくれたら、と思っていた。
もちろん報酬はこれでもかとつける予定だったし、クシェル側にとって悪い話をするつもりはなかった。
本当はもっと早く親しくなって、ある程度の話をつけているつもりだったのですが……。
当初の予定より諸々がこんなにも上手く進まないのは、今回が初めてだった。しかしそれも仕方がないと思う。
だって、イェレミアスが想像していたよりずっと。
クシェルは、割れ物のような少女だったからだ。
――初めて客間で邂逅したとき、イェレミアスは彼女のあまりにも浮世離れしたその雰囲気に驚いた。
ヴェールを被っていたから、ではない。どちらかというと、妖精の血を受け継ぐからこそ滲み出る異質感というものだろうか。魔術師ということもあり、肌感覚で彼女が『普通』ではないことは瞬時に理解できた。
その後、ヴェールを取り払った姿を見たときは、とてもとても美しい少女だと珍しく驚いたものだ。
白雪のように白い肌、艶やかな黒髪。そして、夜の星空のように美しく丸い瞳。
宝石の妖精の血を引くにふさわしい、美しい少女だった。
その姿に目を奪われ、見惚れてしまったことは内緒だ。
それなのにチグハグな行動をするから、イェレミアスは今までで一番頭を使わなくてはならなかった。
最初、あれやこれや理由をつけて『婚約者』という立場におさめたのだって、そうでなければ意地でもキスをして『契約』をしてきそうな雰囲気があったからだ。
貞操観念というのがないのかなんなのか。
初めは呆れたが、その瞳に戸惑いがあったことを悟ってイェレミアスは考えを改めた。
よくよく考えれば、イェレミアスに秋波を送ってくる貴族令嬢たちと違って、彼女にはそのような誘いも媚びもなかった。そこにあるのは、ただの義務で機械的なものだ。
どんな生活をしていたら、そんな目をできるのか。
当初はとても混乱したことを今でも思い出せる。
咄嗟に理由を作って口付けを回避したが、もちろんエルツ男爵家にあのようなしきたりはない。社交界でも、今時あのように伝統的なやり方で結婚まですることは、ほとんどない。
しかしクシェルはその常識を知らないのか、戸惑いながらも受け入れた。
そのちぐはぐさが、貴族令嬢らしくない。
他にも気になる点はたくさんある。
小さな失敗を過度に恐れたり、いつも俯いていること。
ことあるごとに謝ること。
子爵家の貴族令嬢にしては、持ち物が質素で少ないこと。
これは、初日にレーネから話を聞いたときは驚いた。
何より驚いたのは、イェレミアスに服をねだるわけでもなく、その服を繕ったり刺繍をしたりして誤魔化そうとしていた点だ。
普通の、本当に普通の貴族令嬢ならば、ドレスをねだるのが当たり前なのに。それをさらに隠そうとするから、予想外すぎて本当に驚く。
クシェルはそのことを隠そうとしていたが、ここ数日レーネから報告を受けていたから知っている。
その腕が恐ろしいくらい良いことは、イェレミアスの目から見ても明らかだった。クシェルは知らないが、凄まじいスピードで縫い物をしていたことはレーネが確認していた。
しかしやはり、プロの目から見たほうが分かるだろう。そう思い、今日クシェルが採寸されているときに、クシェルが着ていたドレスをハシュテット女史に確認してもらった。
それを見たハシュテット女史は、刺繍が施されたドレスをまじまじ見てこう言ったのを覚えている。
『これは……わたしたちと同様の腕前をお持ちですわ。縫い目も綺麗ですし、坊っちゃまの婚約者でなければ、スカウトさせていただきたいくらいです』
ハシュテット女史は、冗談を言わない。それは、幼少期から何かと世話になっているゆえによくよく知っていた。なのでクシェルは間違いなく、そのレベルの腕を持っているのである。
しかし、そんな技術をどうして貴族令嬢が?
また、疑問が浮かぶ。
なのに礼儀作法等は恐ろしいほど洗練されていて、テーブルマナーや挨拶の仕方、服装などは完璧だった。
それがクシェルの異質さをより浮き彫りにしていることを、彼女自身は全く気づいていないだろう。
なのに、今にも消えて無くなりそうなくらい儚くて。イェレミアスは、今までにないくらい細やかな気遣いをして、クシェルと接していた。
渡された調査結果に目を通しながら、イェレミアスはレーネに問いかける。
「レーネ。クシェルの様子はどうですか?」
「はい。普段は就寝中にうなされていることも多いようですが、本日は比較的穏やかに眠っていらっしゃるかと思います」
「そうですか……なら良かった」
「……イェレミアス様がそこまで気になされるのも、珍しいですね」
イェレミアスは思わず固まり、ばっと顔を上げた。見ればレーネだけでなくクヌートまでにこにこ見つめている。それがこそばゆく、イェレミアスは思わず視線を逸らした。
「当たり前ではありませんか……放っておけませんし」
「ほほう。本当にそれだけですか、坊っちゃま?」
「それだけですよ。そしてクヌート、坊っちゃま呼びはやめてください。もうそんな年齢ではないのですからっ」
しかしクヌートだけでなくレーネも、イェレミアスに生温かい目を向けてきた。
「本当であられますか、イェレミアス様?」
「そ、それだけです」
「仕事ばかりでまったくそっちの気がなかったイェレミアス様が? いくら協力者になりうる可能性のあられる方とはいえ、ドレスを買って差し上げるだけでは飽き足らず、ここまで細かな気配りをなさっているのですよ? わたしとしましては、それだけではないかと思っておりますが」
「……うっ」
レーネは、いつだって的確にイェレミアスの心を突き刺してくる。
確かに、イェレミアスが普段接している貴族令嬢ならば、当たり障りがないようにあしらってほどほどの距離を保ちつつ、それ以上接触しようとはしなかっただろう。
下手に対応すると気を許したと思われ、付き纏われたりすることがあったからだ。さすがのイェレミアスとて、心中騒動にもう一度巻き込まれるのは御免だった。
まあそんなふうにのらりくらりとやり過ごしていたからこそ、今回白羽の矢が立ったんですが……。
しかしそれでも、とイェレミアスは口を開いた。
「レーネが期待しているようなものは、何もありませんよ。ただ……放っておけないと、そう思っただけですから」
クシェルは、そのように扱わないといけないと思ったのだ。できる限りゆっくり距離を詰めて、こちらでも距離を測って。そうしないと向こうのほうから逃げていくことは、ここ数日の態度でよく分かっている。
しかしその距離感が不思議と煩わしくないのも、クシェルとの距離を測りながら彼女のことを知っていくのも。悪くないと思っている自分がいることに、気づいてはいた。
どのようにしたらクシェルが喜んでくれるのか、笑ってくれるのか。それを考えて、彼女の表情、仕草、その一つ一つを観察するのも。
思っていた反応とまったく別の反応をされるのも。
その苦労の末、クシェルとの距離がゆっくりと縮まっていくのも。
何もかも楽しくて、新鮮だ。面倒臭い、などと思ったことがないことが、自分でも意外だった。
そういえば、仕立て屋にいるときは普段よりどこか楽しそうでしたね。
クシェルの目が珍しく、きょろきょろと周囲を彷徨っていたのを思い出して、ふと笑みが溢れる。
だが、そこにあるのはレーネが考えているような、恋愛感情のようなものではない。
そう、これは、そんな甘い感情ではない。
否、そんな甘い感情であっては、いけないのだ。
二人にこれ以上何か言われる前に、イェレミアスは口を開く。
「二人とも、お疲れ様でした。今日はもう休んでいいですよ。クシェルに何かあれば、また教えてください」
「……かしこまりました」
「おやすみなさいませ、イェレミアス様」
何か言いたげな顔をしていたが、イェレミアスにこれ以上何か言っても意味がないと長い付き合いから学んでいたのだろう。就寝の挨拶だけをして立ち去る。
そんな二人の足音が聞こえなくなるまで待ってから、イェレミアスは鍵付きの棚から一通の手紙を取り出した。そこには、『エーデルシュタイン家』に関しての調査命令が記載されている。
『エーデルシュタイン家は、宝石の妖精の血を引く旧貴族の子爵貴族である。
一定の貴族以外と交流を持たず、嫁ぎ先も基本的に決まっている。社交の場にも積極的に参加はしていない。
宝石の妖精を信奉し、宝石魔法を好んで使う。その実態の多くは隠されており、秘密主義の一族である。
しかし近年、その妖精の力を悪用しているという情報あり。隠れエクリプセ派との噂もあり。調査されたし』
……調査、ですか。
イェレミアスは一つため息をこぼして、手紙を放り投げる。その便箋に付いている封蝋は、盾に王冠がかかり、センターに薔薇と妖精の翅が描かれた紋章が押されていた。
これがある限り、イェレミアスがこの命令書に背くことはできない。
――この国で生きていきたいなら。
なのに、これ以上クシェルをこちらの事情に巻き込みたくないと思っている自分もいて。しかし徹底した秘密主義のエーデルシュタイン家を知るためには、クシェルに協力をしてもらうしかなくて。
現実と理想の相違に、ため息が漏れる。
しかもそれだけでなく、これからやってくる〝クシェルの教育係を行なう彼女〟に関しても憂鬱だ。一体、何を言われるやら。
「……ままならないものですね……」
その呟きは、冷え切った宙に溶けて、消えた。