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6.それはまるで、〝普通〟の婚約者のような

 数時間後。

 仕立て屋を後にしたクシェルとイェレミアスは、街を歩いていた。


 その頭には、ドレスと同色の小さなトークハットがかかっている。ネットチュールが垂れており、それがクシェルの顔を程よく隠してくれていた。

 その上トークハットの飾り部分のブローチは、イェレミアスが持ってきてくれたアメジストの魔法石が嵌め込まれた一品だった。イェレミアスも同様なものをつけている。曰く、認識阻害の魔術が込められており、クシェルのことを分かりにくくしてくれるらしい。


(私が、今までヴェールを付けて生活することがほとんどだった、から……よね)


 そこにイェレミアスの気遣いを感じ、クシェルは申し訳なさとありがたさで縮こまっていた。


 そんなクシェルを知ってか知らずか、イェレミアスはクシェルの手を取ったままエスコートしてくれる。

 そして入ったのは、暖房の効いたカフェだった。


 イェレミアスが適当に注文をしてくれる中、クシェルは帽子を外して俯いている。


(……ヴェール、売る必要が、なくなってしまったわ)


 それもあり、鞄は馬車の中に置いてきてしまった。

 だからか手持ち無沙汰で、膝の上にある帽子をいじる。


 出てきた軽食を口に含んだが、緊張しすぎてそれが美味しいのかどうかすら分からなかった。とりあえず皿の上にあるものを食べ切ったのは、イェレミアスをこれ以上心配させないためだ。

 そんなクシェルに、イェレミアスは首を傾げる。


「クシェル。これから買い溜めのための買い出しをするのですが、食べたいものはありますか? 好きな食べ物があれば、作ってもらうこともできますよ」

「えっと……食べられるのであれば、なんでも大丈夫です」

「……買い出し、嫌になってしまいましたか?」

「……えっ」

「すみません。我が家は男爵家なので、買い出しを使用人たちに任せてばかりいられず……こうして僕自身が来ることもあるのです。ですがクシェルは子爵家の人間ですから、そのようなことしたことがありませんよね」

「い、いえ……いえ! そのような、ことは……!」


 むしろ、食事を気にしてもらえることなどなかった。テーブルマナーは空の皿でやっていたし、実際に食べていたのは残飯のような食事だった。なので、好き嫌いなどが分からない。


(そもそも私は、イェレミアス様に気を遣っていただけるような人間では、ない、のに……)


 嘘でもいい、イェレミアスの気を使わせないような、気の利いたこと一つ言えないクシェルがいけないのだ。


 しかしそれを言えばイェレミアスを困らせることは分かっていたので、クシェルは黙って俯く。

 すると、とんとんと肩を叩かれた。


「クシェル。こっちを向いてください」

「……は、い、」


 ぷすっ。

 横を向けば、イェレミアスの指が頬に刺さる。

 予想しなかった状況に、クシェルは目を瞬かせた。


(ええっと……これ、は……どうしたら)


 困惑しイェレミアスの顔を見上げると、優しく目を緩ませた彼と目が合った。


「ああ、やっと目が合いましたね」

「……え?」

「クシェルは、僕の屋敷に来てからずっと俯いてましたから。こうして目を合わせるのは、そんなに多くありませんでしたよね?」


 問われている言葉の意味は理解しかねたが、聞かれたことには答えようと思い頷いた。

 それを見たイェレミアスは、頬杖をつきながら目を細める。


「ああ、そう言えば瞳を合わせるということは、エーデルシュタイン家では特別なことだとおっしゃっていましたね」

「……はい」

「それはそれは、勿体ない」

「……もったいない、です、か?」


 よく分からなくて、首を傾げる。するとイェレミアスは、嬉しそうに微笑んだ。


「だって、ほら。目を合わせて話したほうが、相手の様子がよく見えるでしょう? このほうが、ずっと話しやすいです」

「……そう、でしょう、か……」

「ええ、そうですよ。僕の顔を見て、どう思いますか?」


 おずおずと、クシェルは視線を上げる。


(綺麗で……眩しいわ)


 思わず目をすがめたくなる。

 しかしクシェルを見つめるイェレミアスの目がずっと優しくて、なんだか不思議な気持ちになった。


 くすぐったいような、なのに心地良いような。暖かく優しい、ひだまりのような瞳だ。金色の瞳にぬくもりが灯ったような気がする。


 思わず見惚れていると、イェレミアスがくすくす笑う。


「そんなに見つめられると、照れますね」

「え、あ、も、もうしわけっ」

「ふふ、冗談ですから、謝らなくていいんですよ」

「も、もうしわけ……は、は、い……」


 しどろもどろになりながら、なんとか謝罪の言葉をつぐむ。

 そんなクシェルの何が面白いのか、イェレミアスは終始笑いっぱなしだ。クシェルが困惑気味に眉をハの字にしていると、口元に手を当てながら彼は言う。


「笑ってしまってすみません。ですが、クシェルがあまりにも僕の予想外な行動ばかりするので……その、面白いなと思いまして」

「……予想外、です、か?」

「はい。時々ぎょっとしますが、貴女を見ていると新鮮な気持ちを味わえて、一緒にいると楽しいですよ」


 ぱちり、ぱちりと。クシェルはゆっくり瞬く。


(私が……面白、い? 一緒にいると、たの、しい……?)


 そんなこと、言われたことがない。

 普段ならばここで嫌なことを思い出して、いつも落ち込んでいた。だがそのときに胸に灯ったのは、何か別の温かいもので。


 クシェルは思わず、微かに笑った。


「……ふふ」

「……クシェル?」

「私に対してそのようなことを仰られるのは……イェレミアス様くらいだと思いますよ」


 それがおかしくて、また笑みがこぼれる。口元に手を当てて肩を震わせていると、イェレミアスが破顔した。


「それ」

「……え?」

「笑顔」


 クシェルの顔を見ながら、イェレミアスは言う。


「クシェル、知っていますか? 笑顔には、それを見ている他の人をも笑わせる力があるんです。笑顔は伝播するんですよ」

「え、あ……」

「だから僕は、クシェルが笑ってくれたことを嬉しく思います。人という生き物には、笑顔が似合いますから」


 イェレミアスのその言葉に、クシェルは雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

 だって今まで『笑い』というのは、誰かを馬鹿にするためのものだと思ってきたからだ。


 クシェルの周りにいた『笑う人』は、みんなみんなそうだったから。


 しかしイェレミアスの言う通り、彼の浮かべた笑顔はクシェルの心を踏みつけるようなものではなく、むしろ優しく包んでくれるかのような優しさに満ちていた。

 だからクシェルは、思わず笑ってしまったのだ。


(私も……そのような笑顔を、浮かべられるの、かし、ら……)


 そう思い思わず自分の顔に触れると、クシェルの心情を悟ってかイェレミアスが頷く。


「クシェルが笑顔になれば、僕も笑顔になりますよ。ほら、今も笑ってるでしょう?」

「……はい」

「だからどうか、楽しいことがあれば笑って? 僕のためにも……ね?」

「……はい、イェレミアス様」


 こくりと頷けば、今まで心にずしりと重くのしかかっていたものが、少しだけ軽くなったような気がした。


 そんなクシェルを見て満足したらしい。イェレミアスは皿に残った最後の一欠片を口に含むと、クシェルを見た。


「さて、そろそろ買い出しに行きましょうか」

「はい」

「さあクシェル。お手をどうぞ」


 クシェルは帽子を被ってから、差し出された手とイェレミアスの顔を交互に見た。


(馬車を降りるときと、同じ状況だわ)


 しかし不思議と、前回よりもふわふわと夢見心地ではなかった。

 だからか、自然とイェレミアスの手を取ることができる。


 手袋越しでも分かるイェレミアスの手の大きさを実感し、クシェルの心臓がとくりと跳ねた。


「さて、行きましょうか。クシェルは、市場を見たことはありますか?」

「い、いえ。ありません」

「そうですか。ならきっと驚きますよ。王都の市場には冬の時期でも様々なものが売られていますから」

「……楽しみです」

「それは良かった。そろそろ雪も積もってきそうですし、多めに備蓄しておかなければなりませんね」

「はい。微力ですが、私も荷物を運びますので……」

「……いやいや。婚約者にそのようなことをさせる貴族の男は、甲斐性なし確定ですよ」

「……そうなのですか?」

「そうなのですよ、クシェル。僕を甲斐性なしにしないでください」

「……ふふ、はい。分かりました、イェレミアス様」


 手を取り合いながら、なんてことはない会話をして冬の雪道を歩く。

 それはまるで、普通の。普通の、幸福な時間で。関係で。本当の、なんら問題のない婚約者同士のようで。


 クシェルにとっての、ほんのわずかな希望の光でもあった。


 胸に灯ったわずかな光を胸に、クシェルは幸福な時間をゆっくりと噛み締める。






 その日の夕食に出たのは、イェレミアスが好物だという牛テールのシチューとふかふかの焼き立てパンだった。

 たっぷりと煮込まれた牛テール肉は、スプーンを通しただけでほろほろと崩れていくくらい柔らかくて。口に含めば、熱々のスープと牛テール肉の旨味が口いっぱいに広がる。

 お行儀が悪いけれど、と言いながらイェレミアスがパンにスープを染み込ませて食べているのを真似してみたら、染み込んだスープが小麦の香りとあいまって物凄く美味しかった。


 シチューの温かさが、雪で冷えた体にじんわりと染みていく。


 クシェルはその日初めて、食べ物が「美味しい」のだということを知った。

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