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4.惨めで愚かな石ころの私

 翌日の朝。

 クシェルは食堂につくや否や、椅子に座り新聞を読み耽っていたイェレミアスに対して深々と頭を下げた。


 それを見てイェレミアスが大きくびくついたが、それを確認する余裕などクシェルにはない。

 今頭の中にあったのは、昨日から朝まで一度も目覚めることがないくらい眠りこけてしまったことへの恥ずかしさと、申し訳なさだけだった。


(い、いつもはあんなに眠れないのに、今回はどうして……!)


 いつもは大抵悪夢を見るため、途中で必ず起きるのだ。なのに今日に限ってそもそも夢すら見なかった。なんということだろう。

 胸いっぱいに込み上げる後悔を抱えながら、クシェルは声を震わせた。


「イ、イェレミアス様、朝まで眠りこけてしまい申し訳ございませんでした……っ」

「え、いや……問題ありませんよ。僕も、疲れているのだろうと思って起こしませんでしたから」


 その言葉を聞いて、クシェルの罪悪感が膨れ上がる。


(うっ。お、お優しいわ……)


 しかしクシェルが自分の愚かさを恥じているのは、それだけではなかった。

 頭を下げたまま、クシェルは掠れた声で呟く。


「そ、それだけではなく……そ、の……」

「はい」

「……着替えまで、していただいた……みたいで……」


 しかも化粧まで落としてくれていたし、着ていたものはきちんとクローゼットにかかっていた。

 それが申し訳ないやら何やらで、クシェルは昨日とはまた違った意味で死にたくなる。


 一方のイェレミアスは、クシェルがこんなにも落ち込んでいる理由を悟ったらしい。


「……ああ」


 納得したように頷き、新聞をきちんとたたんでからイェレミアスは視線を彷徨わせる。すると、タイミング良く一人の使用人が朝食を持って入室してきた。

 彼女を呼び寄せながら、イェレミアスはクシェルの顔を上げさせる。


「着替えなどをしてくれたのは、彼女です」

「お初にお目にかかります、クシェルさま。レーネ、と申します」


 レーネは、持ってきた二人分の朝食をイェレミアスの前と向かい側に置いてから微笑んだ。焦茶の髪をシニヨンにし、同色の目を持った優しそうな女性だ。年齢はクシェルと同じくらいだろうか。身長はクシェルよりも少し低い。

 レーネの言葉遣いは丁寧なのに、どことなく柔らかくて、愛嬌を感じられた。


 レーネは、クシェルがたどたどしくも挨拶をすると笑みを返してくれる。


 二人のやりとりを見届けたイェレミアスは、レーネに視線を送りつつ言った。


「レーネは、婚約期間中クシェルの身の回りの世話をする侍女です。今後、僕がいないタイミングで何かあったら彼女に伝えてください」

「は、はい」


 侍女なんて持ったことがなかったクシェルは、身を縮こませる。そんな彼女に苦笑したイェレミアスは、クシェルに席に着くよう告げる。


「さあ、朝食ができてますから一緒に食べましょう」

「は、い」

「ああ、それと」


 イェレミアスは、レーネに新聞を預けながら言う。


「おはようございます、クシェル」

「……あ、お、はよう……ございます。イェレミアス、さま……」


 挨拶と共に細められた金色の瞳がとても美しくて、妙にくすぐったかった。



 *




 それから、数日が経ち。穏やかな日々が続いていた。

 そのほとんどを、クシェルは私室としてあてがわれた部屋に置いてあるソファに腰掛けて、黙々と縫い物をして過ごしていた。


 縫い物をしながら、クシェルは猛省する。


(もっときちんと気を引き締めていかなければ……)


 この屋敷に来てから、クシェルは小さなミスばかり繰り返していた。

 食事中、緊張のあまりフォークを落としてしまったり、つまづいて転けてしまったり、気を遣って話しかけてもらったのに上手く受け答えができなかったり。


 その全てをイェレミアスが許してくれたが、クシェルは自分の愚行を許せそうになかった。それに、実家ではこんなことをすれば鞭が飛んできていた。それくらいのことなのだ、クシェルのしていることは。それもあり、クシェルの気持ちはより落ち込んでいた。


「っ、いたっ……」


 そんな状態で縫い物をしていたからか、針を指に刺してしまう。

 刺してしまった指を口に含みながら、クシェルは肩を落とした。


(本当に……私は落ちこぼれだわ)


 今こうして、持ってきた数枚の地味な服に刺繍をしているのだって、クシェルが石ころ程度の娘だからだ。


 娘の価値によって、嫁入り時に持っていけるものが変わる。

 小さいながらも新品の裁縫箱は、クシェルが家から餞別がわりにもらった最初で最後の贈り物だった。


 それはおそらく、クシェルが実家で繕い物ばかり担当していたからだろう。手が傷だらけでぼろぼろになっても、ドレス作りと刺繍をやり続けるよう言われていたからだ。


 それしか、価値がなかったから。


 今手の傷が癒えているのは、「見た目くらいはマシにしろ」と父に命令された兄が治癒魔術を使って治してくれたからだ。


 そんなクシェルが裁縫箱を使って刺繍をしているのは、少しでも持ってきたドレスの見た目をよくするためだった。


 元から死ぬつもりだったというのもあるが、人に見せられるようなあつらえのドレスは初日着てきた菫色のドレスと、普段着用に持ってきた今着ているペールグリーンのドレスくらいだった。


 それ以外は地味な紺やベージュのもので、どれも使い古されておりみすぼらしい。それを少しでも見られるようにと、クシェルはここ数日で傷んだ部分を繕ったり、裾や襟元に刺繍をすることで少しでもマシにしようとしていた。


 刺繍を再開しながら、クシェルは吐息する。


(私がこのお屋敷でしなければいけないことは、花嫁修業だわ)


 それが、エルツ家に嫁ごうとする者がやらなければならないことだ。イェレミアスがそう言っているのだから、やるしかない。

 ただ、家庭教師をしてくれる女性は到着が遅れているらしく、来るまでは自由に過ごして良いと到着して二日目に言われた。


 だが、自由な時間などもらったことがなかったクシェルは困惑していた。

 エーデルシュタイン家にいた頃は、朝から晩まで教育を施されるか、今のクシェルのような女性たちのためのドレスを作っていたからだ。なので、時間を持て余していた。

 かと言って、メイドのようなことはできない。クシェルがそんなことをすればレーネを含めた使用人が困惑するし、逆に迷惑だからだ。


 そう考え、クシェルは今優先しなければならないことを導き出す。


(……やっぱり、ドレスだわ)


 とにかく、衣服をどうにかしなくてはならない。

 そのためには生地と糸が必要だ。付属の糸は多くなかったので、補充しなくては。


 となると、金銭が必要になる。


 刺繍の手を止め、クシェルは目を伏せた。


(お金になりそうなものは……着てきたドレスとヴェールだけ)


 金銭の価値は座学で学んだので知っていたが、所持したことは一度もなかったし嫁ぐ際ももらうことはなかった。なので無一文だ。


 ドレスは売れるか分からないが、ヴェールくらいなら売れるだろう。ドレスを数着作れるだけの生地と、糸さえ買えればいいのだ。他には何もいらない。


 ただ、贈り物を売るのは躊躇われた。


 クシェルは、自分がドレスを作っていたときのことを思い出す。


 どうせみんな出て行って二度と会えないので交流という交流を積極的には持たなかったが、数言話したり無言で縫っているときに一緒の部屋にいるのは心地良かった。間違いなく、大事な家族だった。


 だから、ドレスを繕いながらずっと祈っていた。


(このドレスを着ていく人が、どうか少しでも幸福でいられますように)


 ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。


 祈っていた、願っていた、自分には絶対にそんなときがこないと知っていたから、託していた。幸せになることを。


『お前のような出来損ないは、生きているだけで幸せだと思え』


 物心つく頃からずっと父親にそう言われてきた自分が、それで本当の意味で〝幸せ〟になったような気になれるから。だから。


 その想いを踏みにじることしかできないのは、クシェルが石ころだからだろう。


 クシェルは唇を噛んだ。

 瞬間、また指に針が刺さる。


「いたっ……」


 指を口に含んで血を止めながら、クシェルはまたうなだれた。


 針を針山に刺して刺しかけの服をテーブルに置いてから、ため息をこぼす。


「……めい、わく。とにかく、イェレミアス様にご迷惑をおかけしないように、しないと……」


 問題は、どのようにしてヴェールを売りに行くかだ。


(どうしたら、良いかしら。迷惑をかけないで、街に行くには……)


 その一心で、再び刺繍を再開しようとしたときだった。


 コンコンコンコン。


 四回、扉が叩かれた。


 慌ててドレスを落としかけたクシェルは、聞こえてきた声にさらに驚く。


『クシェル。入っても構いませんか?』


 クシェルは、ドレスを床に落とした。


 それを慌てて拾い上げテーブルに置いてから、バタバタと立ち上がる。

 扉を開けば、そこには本当にイェレミアスがいた。


 彼は唐突に扉が開いたことに驚きつつも、にこりと笑ってクシェルに話しかける。


「今、大丈夫ですか?」

「は、はい! あ、な、中はその……っ」


 開けていた扉をすぼめながら、クシェルは後ろのテーブルが見えないように調整する。

 ついでに二回ほど針を刺してしまった手を背中に隠す。とてもではないが令嬢らしい手ではないからだ。手袋をしておけばよかったと心の底から思った。

 クシェルが慌てすぎて黙りこくったのを見ながら、イェレミアスはくすくす笑う。


「クシェル」

「は、はい、なんでしょうか……?」

「僕と一緒に、今から王都へデートに行きましょうか」

「…………えっ?」


 突拍子もないことをさらりと告げた張本人は、本気で驚き思考を停止させているクシェルを見て再度笑ったのだった。

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