26.幸福を望む
夜、イェレミアスの自室にて。
久々に顔を合わせた彼は、少しだけ痩せたような気がした。
やつれた、とも言えるのだろうか。疲れているのが、顔に出ている。
クシェルに会ってからそろそろ半年が経つ、その間中ずっと仕事をしていたようなものなのだから、疲れるのも当たり前だろう。
特に今イェレミアスが行なっている事後処理は、貴族社会の根幹すら揺るがす事件の処理だ。
自分が悪いわけではないけれど、その渦中にいるクシェルには何もないのに、イェレミアスにばかり苦労をかけているのが申し訳ない。
今こうして向かい合って座っているより、少しでも早く休むべきだとも思う。
(だから、早く、解放してさしあげたい)
そう思いながら、クシェルは口を開いた。
「イェレミアス様。お話というのはなんでしょうか?」
「はい。僕の方も一段落つきましたので……そろそろ、クシェル自身の話をしたくて」
「……それは、以前仰っていた『婚約者の件』でしょうか」
「はい」
イェレミアスは、真剣な顔をして言った。
「クシェルはこれから、どうしたいですか?」
どうしたい。
そう言われ、胸が詰まった。
(ど、う)
自分は一体どうしたいのだろう。
一番の望みは、『イェレミアスのそばにいること』。でもこれは叶わない。だから現状での望みは、『イェレミアスの幸福』だった。
でも、それを口にするのは躊躇われた。イェレミアス自身に向かっていう言葉ではない、クシェルがひっそりと願うものだからだ。
そんなクシェルの様子を見て、少し考える素振りを見せたイェレミアスが、言い方を変えてくる。
「もちろん、このまま僕の婚約者でいたいと言うのであれば、歓迎します。……ただ、他に望みがあるというのであれば、出来る限り聞き入れたいと思うのです。……だってあなたには、それを選ぶだけの権利があるのですから」
「……権利、ですか?」
「はい。これから先、幸せになる権利です」
「……何故、ですか」
「人間という生き物には平等に、幸と不幸があるからです」
イェレミアスは分かりやすいようにか、どこかから天秤を持ってきて二人の間に置かれているテーブルの上に置いた。
両方に均等におもりを載せながら、イェレミアスは口を開く。
「何故幸と不幸が平等にあるのか。それは、そうでなければ人間が幸を幸だと思えない生き物だからです」
「……どうしてですか?」
「人間が愚かな生き物だからですよ、クシェル」
イェレミアスは苦笑する。
「不幸がないと、人間は幸にありがたみを持てないのです。そして、幸がないと不幸の痛みを知れない。だから神様は、この二つを人間に対して平等に贈る……と言われています。僕は、そうあるべきだと思っています」
そして、片側にだけ多くおもりを載せる。天秤は勢い良く傾き、きぃきぃと甲高い音を立てた。
天秤の皿を指し示しながら、イェレミアスは言う。
「今のクシェルは、幸がほとんどなく、代わりに不幸が山のように溜まっている状態です。これを解消するためには、幸がたくさんなければならない。そして僕も、あなたが望むならなんでもしたいと思います」
「っ、なん、でも、」
「はい。なんでも、です」
きっとイェレミアスのことだ、本当になんでも叶えてくれるのだと思う。クシェルが望んだから。そして――可哀想だから。
でも。
(それは、イェレミアス様の幸福を奪っていい理由には、ならない)
そんなの、クシェルたち宝石の娘たちを搾取していた貴族たちと何も変わらない。身勝手で横暴な行ないだ。
だからクシェルは、首を横に振った。
「何も、いりません。……婚約者の件も、解消させてください」
一つ間を置いて、イェレミアスが問う。
「……何故か、理由を伺っても構いませんか?」
クシェルは、喉を詰まらせながらもなんとか言葉を紡ぐ。
「……第一に、身分が釣り合わないからです。エーデルシュタイン家が取り潰しになれば、私はただの平民です。そんな私とイェレミアス様が婚約者なのは……おかしいですから」
すう、と息を吸い込み、クシェルはさらに言葉を続ける。
「第二に。私には、イェレミアス様のとなりにたっても見劣りしないものが、ありません。見目も……ずっと地味だと言われておりました。知識も偏っています。イェレミアス様は跡継ぎではあられませんが、それでも侯爵家の方。……ふさわしく、ありません」
クシェルはなおも言葉を重ねた。
「そして、最後に。……私では、イェレミアス様に頂いた分の幸福を返せません。……何も、持っておりませんから。夫婦になるのであれば、私はお互いに支え合っていかなければいけないと思っています。……それができないのであれば、あなた様のそばにいる資格はありません」
そこまで言ってから、クシェルは自分の心臓がものすごい音を立てて鳴っていることに気づいた。
視線もいつの間にか下がり、握り締めた自分の手に向いている。
以前より人の目を見て話せるようになったけれど、やはり自分の意見を言うときは、反応が怖くて見られなかった。どんな表情をされても、きっとびくついてしまうから。
そんなふうに俯いているからか、音のない時間がとても長く感じる。
「……それが、理由、ですか」
イェレミアスの声に感情がこもっていないような気がして、クシェルは体を硬直させた。
(ああ。もう、おしまいね)
イェレミアスと過ごした優しくて温かくて美しい時間は、もう終わる。そう思った。
自分で望んだことなのに、今更彼からの言葉を聞くのが恐ろしいなどおかしな話だ。
なんて、心の中で嗤って、言葉を待っていたら。
「でもそれは、僕が嫌々、クシェルと婚約者になっている、と言うのが前提ですよね」
「……え?」
予想もしない言葉が胸を突いてきて、思わず顔を上げた。
今まで見たことがないくらい美しくて、真摯な金色の目が、クシェルを一心に見つめていた。
目を見開き、体を震わせる。でもイェレミアスは構わず、クシェルのことを見つめながら立ち上がり、一歩ずつこちらへ迫ってきた。
「一つ言っておきます。確かに僕たちは政略結婚で、そこに愛なんていう感情はないまま婚約者になりました。ですが、今は違います」
「っ!」
イェレミアスが、クシェルの前で跪く。
「僕は、クシェルのことが好きです」
熱を帯びた視線が、言葉が。クシェルのことを射抜いた。
視線が、逸らせなかった。
なんとか口を開き、ふるふると首を横に振る。
「おたわむれ、を、」
「僕が戯れで、愛の告白をするとでも?」
「だってイェレミアス様は、お優しいから、」
「言っておきますが、僕はクシェルが思っているほど優しくありませんよ。女性とは表面上の付き合いしかしたことがなく、いつもそつなくこなしていました。疑うなら、ベネディクトを呼んだっていい」
本気なんだということは、視線を合わせたときから分かっていた。
でもそれを認めたくなくて、クシェルは駄々をこねる子どものように否定の言葉を述べる。
「です、が、だって……私はあなた様に、何も渡していません……!」
渡せるものなんて何もなかった。元から何も持っていなくて、空っぽだったから。
なのにどうして好きだと言ってくれるのか、まるで分からない。
しかしイェレミアスは首を横に振る。
「クシェル。あなたは自分が何も持っていないと言いますが、僕はあなたからたくさんのものをもらいました」
「っ、う、そ」
「本当です」
クシェルの手を恭しく取り両手で包み込みながら、イェレミアスは語る。
「エルツ男爵として過ごしたカントリーハウスで。あなたの表情と心がだんだんと解けていくのを見るのが、好きでした」
――うそ。
「ドレスのことになると目を輝かせて、どんな構造になっているのか、どんな布を使っているのか、色の合わせ方、細部の技巧……それらを確認するあなたを見るのが、とても好きでした」
――うそ、うそ。
「『星降らしの儀』のとき、申し訳なさそうに僕に抱えられているあなたの姿を、可愛いと思いました。初めて見た魔術を見て、まるで子どものように瞳を輝かせているのを見るのが、好きでした。大好きでした」
――うそうそ、うそ。
「嘘を吐いていたことをあなたが告白した日、あなたのことを守りたいと思いました。……エーデルシュタイン家の令嬢たちを救いたい。その一心で、あなたが自身のトラウマであろう過去を語ってくれたとき、僕はそんなあなたを何がなんでも守りたいと、そう思いました。もうその頃には、愛していたから」
――う、そ。
「それが、僕にとっての本当です」
何度も何度も今言われたことは嘘だと、自分に言い聞かせた。でもだめだった。イェレミアスの熱を帯びた視線と声、それらから、彼の本気を感じ取ってしまったからだ。
イェレミアスが言っていることは、嘘でも戯れでも、クシェルに対する同情心からくるものでもない。
本当に、本当に。クシェルのことを、好いてくれているのだ。
クシェルは、唇を戦慄かせる。呼吸が上手くできなくて、何か言わないと溺れてしまいそうだった。
「で、も、身分差が、」
「あなたの養子先は、もう母上が探してくれています。家柄も人柄も、文句の付けようがない貴族たちを揃えています。クシェルが望んでくれるなら、すぐにだって手続きできますよ」
「でも私、イェレミアス様にふさわしく、」
「僕はそんなの、必要ありません。周りがなんと言おうと、関係ない。あなたさえそばにいてくれればそれで良いです」
「っ、でも、それでは夫婦とはッ!」
「言えませんか? 僕のとなりに立つために、努力をするのは嫌ですか?」
クシェルは首を横に振った。
そんなことが言いたいのではなかった。
(だって、それって、)
クシェルの一番の望みは、『イェレミアスのそばにいること』。
(それを……願っても、いいの?)
こんなにも愚かでちっぽけな自分が。願ってもいいのだろうか。
クシェルは思わずぽつりと呟いた。
「私……望んでも、よいのですか……?」
「……何が望みですか?」
「あなた様のそばにいることを……望んでも、良いのです、か?」
そう言えば、イェレミアスは目を細めて頷く。
「あなたがそれを望んでくれるなら、いくらでも」
ぽろり。
クシェルの目から、涙が一粒こぼれ落ちる。
イェレミアスの手を胸に引き寄せながら、クシェルは叫んだ。
「私、イェレミアス様のそばに、いたい」
「……はい」
「イェレミアス様のそばにいられるなら、どんなにつらいお勉強だって、耐えてみせます……っ」
「はい」
「だから、どうか――そばにいさせて、ください」
――好きです。あなたが、大好きです。
そう叫んだけれど、最後の方はほとんど声になっていなかった。
それでもイェレミアスはちゃんと言葉を拾ってくれ、クシェルをそっと抱き締めてくれる。そのぬくもりが心地良くて、でもドキドキと心臓が脈打って。まるで溺れているようだった。
いつからクシェルは、イェレミアスに溺れていたのだろうか。
分からない。分からないけれど、昨日今日の話ではないだろう。
それくらいずっと前から溺れていたのだから、逃げられるはずもなかった。逃げようとしたことすら、間違いだった。
そう思いながら、クシェルはイェレミアスの胸に身を委ねる。
初めて望んだ幸福はとても温かくて、どこか切なくて。とてもとても優しい色をしていた――




