21.痛みを分かつ
クシェルは久々に、夢を見た。
それは、普段のような罪を思い起こさせる悪夢ではなく、もっと何か別の夢だ。
ふわふわとしたところに漂っていて、曖昧で。でもぬくもり溢れる温かい夢だった。
ずっとここで微睡んでいたいような、そんな気がする。頭の芯がぼうっとして、意識がたゆたって、体も上手く動かせないのに、全然怖くなくて。すべてが、空気の中に解けていってしまいそうだった。
(でも……どうして、かしら。こんなにも心地よいところなのに……私、ここにいてはいけない、気がする)
昔ならばきっと、躊躇うことなくこのぬくもりに身を委ねて、そのまま解けていきたいと思ったと思う。
だが今は。イェレミアスと会った今は。それは、いけない気がする。
(だって、このまま解けていってしまったら……イェレミアス様に、もう、会えないもの)
会えないのはさみしい。いやだ。
たとえそばにいられなくなったとしても、彼からもらった命は大切にしたい、と思った。
でもきっとクシェルは、イェレミアスのとなりに自分ではない別の誰かがいるのを見るのは耐えられない。きっと、相手の女性に危害を加えてしまう。
だから、使用人として雇ってもらおうなんていうことは考えていなかった。イェレミアスに、死ぬ最後の最後まで迷惑な女だと、思われたくない。あの人の優しさに対して、恐ろしい裏切り行為をしたくない。
だからクシェルは、今回の件が全て終わったら、イルザ・ハシュテットを頼るつもりだった。彼女にまで迷惑をかけたくはないが、自分の技能と照らし合わせた上で頼れるのは、イルザしかいない。
だから、頼る。
一人で生きる、ために。
そこで一から、ドレス作りの勉強して。
少なくても良いから、お給料をもらって。
一人で生きる方法を失敗しながらも学んで。
細々とでも、やっていけたらと思う。
そしてイェレミアスの本当の婚約者ができたら、彼女のためのウェディングドレス作りを手伝いたい。
それを作って渡して、こっそり泣いて。
愚かな自分に罰を与える。
きっとずっとイェレミアスのことを忘れられなくて、ずっとずっと胸を痛めるかもしれない。だけれど、それで良かった。
一生分の幸福を、この数ヶ月間でたくさんもらった。目をつむれば今でも思い出せる、クシェルにとっての優しくてあたたかい宝物。
それさえあれば。それさえ抱えていれば、クシェルはこれからの人生がどんなに苦しくったって、生きていける。
だから、起きなくては。
――彼のそばにいられる時間は、もうさほど残っていないのだから。
*
ぼんやりとしたまま、意識がだんだんと浮上する。
目をパチパチさせて視点を合わせれば、すっかり見慣れた天井が目に入った。
ローデンヴァルト侯爵家で、クシェルがいつも使っている寝室だ。
のそのそと起き上がり、時計を見てため息をこぼす。
(最近、どうにも寝過ごしてしまう……)
時刻は、既に九時を回っていた。今までは七時起きだったので、だいぶ寝坊している。それがここのところずっと続いているが、それでも周りが急かさないのはクシェルのことを慮ってだろう。
園遊会から早三日間。
未だに、金色の彼女は目覚めないのだから。
彼女が目覚めたら、クシェルが会えるよう手筈を整えてくれるとのことだったが、その連絡もまだない。だからクシェルはこうして、数日間暇を持て余している。
その上クシェルの具合もあまり良くなく、園遊会が終わってからは教育関係もストップしている。なのでやることがなく、クシェルは余計落ち着かない日々を過ごしていた。
(私は……どうしたら良いのかしら)
頭の奥がチリチリとして、上手く思考がまとまらない。寝過ぎたのだろうか。
ベッドに腰掛けたまままたぼんやりしていると、ノックが鳴る。
入ってきたのは、レーネだった。
「おはようございます、クシェル様。本日のお加減はいかがですか?」
「おはよう、ございます。……大丈夫です」
かすかに笑って、いつものように着替えを手伝ってもらう。
そうして一階にある食堂に足を運べば、いつもと同じように新聞を読んでいるイェレミアスがテーブルの前で座っていた。
彼はクシェルが来たことに気づくと、にこりと微笑んで新聞を置いた。
「おはようございます、クシェル」
「はい、おはようございます、イェレミアス様」
「……調子はいかがですか?」
「ありがとうございます、大丈夫です」
イェレミアスの向かい側の席に腰掛けつつ、こくりと頷く。座れば直ぐに、レーネが朝食の載った皿を出してくれる。ひまわり色のオムレツとウィンナー、それに焼き立てのパンだ。
それにゆっくりと手をつけて、全て残さず平らげると、イェレミアスが口を開いた。
「クシェル。今日は出かけられそうですか?」
「はい、それはもちろん……って、それ、はっ⁉︎」
クシェルが思わず声をひっくり返すと、イェレミアスがにっこり微笑む。
「はい。……彼女が起きました。今から話をしに行きましょう」
クシェルは一つ大きく頷いて、慌ててレーネと一緒に自室に駆け込んだ。
*
金色の彼女がいる屋敷へ向かえば、ベネディクトが手を振って出迎えてくれた。
「久しぶり、夜の君。……どう? 話、できそう?」
「は、はい。もちろんです。……それで、彼女は……」
「ああ、うん。うちの専属医に調べさせたけど、体調はひとまず大丈夫」
「そうですか、なら良かった……」
「ほんと。んで、身元なんだけど……彼女の名前はツェツィーリア・アウルム・アダマース・エーデルシュタイン。……ただ、それ以外はどうにも話してくれなくてね」
「そうですか……」
「うん。表情に、変化もなくてね。警戒してるっぽいな」
「そう、ですか」
ツェツィーリア。
クシェルを九年前に助けてくれた、美しいひと。
その名前を舌の上で転がして、クシェルは一つ頷く。
「私に、話をさせてください」
「……失礼いたします」
ノックをし、クシェルは、ツェツィーリアが過ごしている寝室へ一人で入った。
入れば、彼女はベッドに横たわったままぼんやりとどこかを見ている。金色の粒子がキラキラ輝いて見えて、綺麗だ。
アーレンス伯爵家で見たときと違って、顔にも血の気が通っているように思う。そのことに、クシェルは安堵した。
(だってあのときは、本当に……今にも、消えてしまいそうだったもの)
あのときのことを思い出し、ぶるりと身を震わせる。
一方のツェツィーリアは、クシェルが入ってきたのを見ると少しだけ目を見開いて首をかしげた。
「あなたは……」
「はい、先日、お話をさせていただいた者です。ツェツィーリア様」
クシェルはベッドのそばに来てから、ドレスのスカートを摘んで礼をする。
「初めまして、ツェツィーリア様。クシェル・オニュクス・エーデルシュタイン、と申します」
「……初めまして。クシェル、とお呼びすればいいかしら?」
「はい。お好きにお呼びください。……こちら、腰掛けても?」
「ええ、お好きに。……このお屋敷の主人は、わたくしではありませんから」
つっけんどんとした言い方に、警戒されているのだと悟る。
(ベネディクト様の仰る通り……あまり、表情が変わらないわ)
そこまで思ってから、気づく。自分も、エーデルシュタイン子爵家にいた頃はこんなふうだったなと。
(だって、下手に心を揺らしてしまうと後がつらいから)
ひっきりなしに周りの人が変わり、親しくなるような間もないままいなくなってしまう。
それが繰り返されていくうちに、「初めまして」が怖くなってそれすらなくなる。あるのは義務的なやり取りくらいだ。
それが、エーデルシュタイン家での常識で。宝石の娘たちなりの自己防衛だった。
そう思いながら、クシェルはベッド近くの椅子に腰掛けた。
緊張のためか、手が震える。唇が乾く。
唇を濡らすために一度舐めてから、クシェルは口を開いた。
「まず。……九年前は、本当にありがとうございました」
「……九年、前?」
「はい、九年前。あなた様がアーレンス卿に買われたとき……見つかりそうになったところを助けていただいた、石ころの娘です」
わずかに笑みを浮かべて言えば、ツェツィーリアは初めて目を見開いて表情を変える。
そして、クシェルの顔をまじまじ見つめた。
「……あのときの、黒髪の?」
「はい。あなた様が助けてくださったから、今の私があります」
ツェツィーリアの金色の瞳が揺れた。しかしバッと顔を逸らして、首を横に振る。
「あれは……あなたにお礼を言われるようなことではないわ。あの場で騒ぎが起きれば、お父様もお喜びにはならないもの。それに……わたくしたちにも何かあったかも」
「そうですね。きっと、お父様はお怒りになられたでしょう。石ころの私に、大切な場を台無しにされたとなったら……今後にも差し障りが出るでしょうから」
それでも、とクシェルは首を横に振った。
「それでも、私が今ここにいられるのはツェツィーリア様のおかげなのです。それだけは、何も変わりません」
「ッ!」
「本当に本当に、ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
そっと顔を上げてみれば、ツェツィーリアは静かに泣いていた。
彼女の金色の瞳から流れ落ちる涙はとても美しくて、見惚れてしまう。
「……あなたが、生きてるなんて……思わなかった」
「……はい」
「みんな、消えてしまうもの。貴石も半貴石も、石ころも。そこは、みんな変わらない」
「はい。本当に」
「……生きていて。本当に、良かった。良かったわ……っ」
「私も、あなた様が生きていて良かったです。……この奇跡に感謝を」
ぽろぽろと、宝石みたいな涙がツェツィーリアの顎を伝って落ちていく。
そんなツェツィーリアの手をぎゅっと握りながら、クシェルは彼女が落ち着くまでそばにいた。




