19.妖精の残り香を辿る
クシェルたちがアーレンス伯爵家の屋敷に忍び込んだのは、それから一時間ほど経ってからだった。
園遊会に参加している人々の大半は、酒が入り楽しそうに笑っている。
当のアーレンス伯爵はというと、少し前に馴染みの高位貴族たちを連れて、自身の自慢の絵画を置いてあるギャラリーへと向かってしまった。
そのギャラリーは、クシェルたちがこれから向かおうとしている部屋とは、真逆の位置にある。
今しかない。
クシェルがそう思うのと同時に、イェレミアスもそう思ったのだろう。イェレミアスはクシェルの手をそっと取ると、バレないように中へ忍び込んだ。
中に入った瞬間、クシェルは目を瞬かせた。
(……何、かしら、これ……目の前に、キラキラしたものが、漂ってる)
まるで蝶の鱗粉のようなそれは、あちらこちらに漂って輝いている。金色のキラキラだ。そうまるで、あの日の彼女の髪と同じ。
クシェルはイェレミアスの袖を軽く引き、念話を送る。
『イェレミアス様。目の前に何か、金色の粉のようなものが見えます』
『そうですか。……クシェル。それは、妖精の残り香です。それが、同じ妖精の血を引く人間にしか分からない、居所を知らせる手がかりになります』
『これ、が……』
クシェルは一人感心する。同時に、エーデルシュタイン家にいた頃、いつも自分の周りにはさまざまな光の粒子が舞い散っていたな、と思い出した。
当たり前の光景だったので、これが特別なものだとは思ってなかったのだ。
そんなクシェルに囁くように、イェレミアスが念話を送ってくる。
『それが一番濃いところに、彼女がいるはず。……探せそうですか?』
『…………あちらが、濃い……気がします』
目を軽くすがめたクシェルが指差したのは、地下だった。よく、貯蔵庫だったりあまり見られたくないものが置かれる部屋だ。
そこまで言ってから、はたりと気づく。
(そ、そんなわけないじゃない。協力者の方々の情報によると、アーレンス伯爵がよく出入りをしていた部屋は、二階の一番北側の部屋なのだからっ)
なので、彼女がいるとしたらその部屋だ。なのに今指差したのは、方角こそ同じだが階層が違う場所である。
自分が全くもって馬鹿馬鹿しい話をしてしまったことに、クシェルはさあっと血の気が引くのを感じた。そのため慌てて否定する。
『あ、の、イェレミアス様。今のは間違い、です。申し訳ございません、愚かなことを申しました』
『何故です?』
『……え?』
『? クシェルは確かに、地下のほうが残り香が濃いと感じたのでしょう?』
『は、はい』
『なら、僕はそちらを信じます』
イェレミアスに信頼されていると分かり、かあっと頬が赤く染まる。同時に泣き叫びたいくらい嬉しくて、どうにかなってしまいそうだった。
そんなクシェルを見つめながら、イェレミアスは少し軽い感じで言う。
『それに、大切にしている愛妾の部屋が二階の北側にあることも、少しおかしいと思っていたんですよ』
『……おかしい、ですか?』
『はい。一般的に南側の方が暖かく、良い部屋だとされています。なので当主の部屋もそちら側になるんですが、当主の屋敷に住まわせるほどの愛妾がその位置というのは、少し変だと思ったのです』
『たし、かに』
『それに……使用人のほとんどが彼女の姿を見たことがないというのも、おかしいかと。使用人も人ですからね、好奇心があります。愛妾の顔を拝もうと、隠れて入り込もうとする方々もいるでしょう? ですが、そうやって入り込もうとした使用人は皆何も見ず、挙句一律で解雇されたとか』
『そ、そうなのですか?』
『はい。なので僕は、二階の部屋はあくまでフェイクで、本当に愛妾がいる部屋は別にあるのではないか、と思っていたのです。そのために、クシェルを連れてきたのですよ。ならクシェルの目を信じるまでです』
なるほど、とクシェルは思った。そしてまた信じる、という言葉を使ってくれたことに、胸の奥がこそばゆいようななんとも言えない感覚に陥る。
クシェルが縮こまっていると、イェレミアスが一人顎に手を当てた。
『ですが……地下ですか。あそこは確か、アーレンス卿の魔術工房があったはずなのですが……』
魔術工房という名前を聞き、クシェルはエルツ男爵家を案内されたときのことを思い出した。
(魔術工房というのは、魔術師にとって一番大切な場所……)
取り扱いが難しいものもあり、その屋敷の魔術師たちの叡智が詰め込まれている。ならば、何かしらの魔術的仕掛けが施されていたとしてもおかしくはない。
どうしよう、とクシェルが立ち尽くしていると、イェレミアスが目を細める。
『クシェル。ベネディクトをすぐ呼びますから、少し待っていてください』
『え? は、はい』
その宣言通り、ベネディクトはすぐにクシェルたちの前へ現れた。その顔は少し疲れている。
『唐突に呼び出さないでよ……しかも一分以内に来いとか鬼畜の極みでしょ』
『そんなことはどうでもいいので、魔術工房に入るための手助けをしてください。ここから、残り香が出ているらしいのです』
『つめたっ。って……うわぁ、マジか。……え? 妖精の血を引く人間を、まさか地下に? なんか、もう……わたしたちの中にある常識が何一つ通じなくて、かなり疲れてきたんだけど……』
『安心してください、僕も同じです』
そんな話をしつつ、ベネディクトは地下へと通じる扉の前に立った。
そして手のひらを当て、何かを調べている。
『……お、よっしゃ。旧式の防犯魔術しか使われてないじゃん。てかしょっぼいな。ちゃんと更新しなよ』
『アーレンス卿は魔術師としてはそこまででもありませんから、仕方のないことでしょう。だから妖精の力を悪用しているのでしょうし』
『クソ辛辣だけど今回ばかりは同感。……うん、これなら、魔術を使って適当に誤魔化せるよ』
『分かりました。なら入口は任せます』
『りょーかい。もう一人近くに呼んで見張りをさせとく。アーレンスの方にも一人見張りをつけてるから、そっちは大丈夫だろうけど……人が来たりして危なくなったら連絡するわ』
『頼みました』
そんなやり取りを経て、あっさりと。地下へ続く扉が開いてしまう。
あまりにも鮮やかな手腕に呆気に取られていたクシェルだが、イェレミアスに手を引かれてなんとか中へ入る。
同時に、奇妙な既視感に襲われて目を瞬かせた。
(何、かしら……こ、れ……)
暗くて、少しじめじめしていて、何か異質なものを感じる。それは、クシェルがとてもよく知っているような、そんなもののように感じた。
似たような場所。
どこだろうか。
頭の中に、記憶がフラッシュバックする。
(……ああ、これは、)
クシェルがエーデルシュタイン家で過ごしてきた場所に、似ているのだ。あそこも、こんな、異質な空間だった。
同時に、物心ついたときからすでに自分たちが地下にいたのだということを悟り、胸が苦しくなる。
(……落ち着いて、クシェル。今は、感傷に浸るときじゃ、ないわ)
少し大きめに息を吸い込んだクシェルは、イェレミアスが放った光の玉がぷかぷか浮かぶのを見て、少しだけ安心した。
「……クシェル。大丈夫ですか?」
ちゃんとしたイェレミアスの声が、久々に耳朶に響く。
耳に馴染む、優しい声。
それに安堵の息を吐いたクシェルは、微かに笑って頷いた。
「はい、大丈夫です。……行きましょう」
――アーレンス伯爵家の地下は、まるで迷路のようだった。
道がいくつも存在して、その中には道ではないものもある。イェレミアスが言うには『幻覚魔術』と呼ばれる、相手の視界を錯覚させることで道に迷わせる魔術だそうだ。迷いの森などでよく使われているらしい。
妖精の残り香というものが見えていなければ、とてもではないが進めなかったかもしれない。
しかしどんどんと濃くなってくる光の粒子に導かれるまま、クシェルとイェレミアスはただ突き進む。
ベネディクトが入り口を開けておけるのも、ずっとではない。なので急がなくては。
そう思っていたクシェルは、ある部屋の前でぴたりと動きを止めた。
「……クシェル?」
「……イェレミアス様。ここです」
扉の隙間から、あふれんばかりの光の粒子が漏れている。なら、ここに彼女がいるのだろう。
イェレミアスが素早く扉に細工が施されていないか確認し、何もないことが分かるとすぐに扉を開けた。同時に、部屋の中にいくつも光の玉を入れて、中を照らしてくれる。
どくん。
開けた瞬間、クシェルの心臓が一際大きく鳴った。
とてもとても、嫌な予感がしたからだ。
それでも足は止まらなくて、一歩ずつ誰かに突き動かされるように進む。
舞い散る光の粒はとても多くて、美しくて。今にも溺れてしまいそうだった。
まるで、最期の時まで懸命に生きようと無理やり羽を動かす、蝶のようだ。
その中心である寝台の上に、一人の女性が横たわっていた。
――今にも溶けて消えてしまいそうなほど生気を失った、金髪の美しい女性が。




