14.過去を語る
はくはく、と荒い息が漏れる。
ローデンヴァルト家の一室で、クシェルは天蓋付きのベッドで寝込んでいた。
ふかふかのふとんに埋もれて、額には魔力の流れを調整するための薬液が塗られた布がぺたりと貼られている。そうすることで、クシェルのような妖精に近い人間は病気が早く治るのだ。
熱を出したことなど、生まれてこの方一度もなかったクシェルは、ぼんやりとした熱を感じながらうつらうつらと夢を見ていた。
あの日のことを。
地獄のような、光景のことを。
いつもならばもっとうなされて何度も起きてしまうのに、今日は違った。熱にうなされているからなのか、それとも『この光景を見る必要があった』からか。普段とは違って見ることができた。
(もっとちゃんと、見なきゃ)
後ろめたいだなんて、思っている暇はない。
(ちゃんと見て、記憶して、伝えなきゃ)
イェレミアスのため?
いや、違う。クシェル自身のためだ。イェレミアスは、そのきっかけを与えてくれただけにすぎない。
というよりこれをイェレミアスのため、なんて言ったらいけないのだ。そんな綺麗なものでは、ないのだから。
(宝石の娘たちは、死ななければならない運命なんて持ってなかった)
ならば、どうしなければいけないのか。
クシェルはそれを、熱にうなされている間中考えて考えて考え抜いた。おそらく、今までで一番考えたし、自分というものを見つめ直したと思う。
このときほど、ヘルタに感謝したいと思ったことはない。でなければクシェルはきっと、〝考える〟なんていうことすら思わずただ嘆いているだけだったろうから。
そうして考え抜いた結果、クシェルは思った。
私たちが『不幸を背負って死ぬ運命』を否定して『本来の宝石の妖精の性質』を受け止めるためには、その歴史を否定して、歪んだものを正さなければならない。
でなければクシェルも他の宝石の娘たちも、これ以上どこにもいけなくなってしまう。
(私たちが前に進むためには……はやく、エーデルシュタイン家の真実を、白日の下へ晒さなくては)
そしてそのきっかけとも言えるワードはきっと、クシェルがずっと苦しんできた記憶の中にある。
だからクシェルはそれを、何回も何回もじっと見つめて振り返った。
――そうして熱がだいぶ落ち着き、ローデンヴァルト家の専属医からも「あと数日で快癒する」と言われた日。
クシェルは、イェレミアスのことを呼び出した。
*
「おはようございます、クシェル。体調はもう、大丈夫ですか……?」
部屋に来て早々、イェレミアスはクシェルにそう言った。
その表情や声音から、クシェルのことを心の底から心配してくれているのが伝わってきて、思わず笑みが漏れる。
(本当に本当に、お優しい方)
真実を語ってくれたときもそうだが、イェレミアスは出会った頃からずっと優しかった。
そしてこの優しさは、これから先もずっと変わらないのだろう。変わってしまうような人なら、変わるきっかけは何度もあったのだから。
(だからこそ私は、イェレミアス様に頼りたい)
恩返しという意味でもそうだが、イェレミアスならばきっとエーデルシュタイン家の罪を暴いてくれる気がした。
頼ってばかり、助けてもらってばかりなのは本当に申し訳ないけれど、でもそれが。
クシェルにできる精一杯の、生家への反抗だから。
クシェルはぺこりと、頭を下げた。
「ありがとうございます、イェレミアス様。はい、もう大丈夫です。お医者様も、あと数日あれば全快するとおっしゃってくださいました」
「そうですか……なら、よかった」
ほっと、イェレミアスが息を吐きながらベッドの傍らに置いてある椅子に腰掛ける。
それから少しの間、場に沈黙が広がった。
イェレミアスが珍しく口をつぐんでいるのが意外で、クシェルはくすりと笑う。
「あの、イェレミアス様。そんなに構えないでください」
「……え」
「本日お呼びしたのは……エーデルシュタイン家のことで、お伝えしたいことがあったからなのです。……聞いて、いただけますか?」
恐る恐る問い掛ければ、イェレミアスは一瞬目を見開きすぐに頷いた。そしてクシェルが話しやすいように体を起こしてくれ、背中にたくさんのクッションを入れてくれる。
その気遣いに、クシェルはまた笑みが溢れる。
「あ、の。この話は……私の、過去見た光景に関することなのです」
「はい」
「ですから……あの。おそらく、あまり良い気分はしない、と思います。あと、どの記憶がイェレミアス様のお役に立てるのか、私では分からないので……余計、聞き苦しいものになってしまうかと。……それでも、構いませんか?」
「はい、もちろん」
間髪入れずにきっぱりと言い切ってくれたイェレミアスに、なんだか頼もしくなった。
それに安堵したクシェルは、膝の上で両手を握り締めながら息を吐く。
そして、ゆっくりと話を切り出した。
「あれは、私が七歳くらいのとき、でした。……真夜中、ふと目が覚めて。騒がしさに導かれるように、ある場所へと足を運んでしまったのです」
その日は珍しく、いつもかかっているはずの部屋の鍵がかかっておらず、見張りをいつもしていた使用人もいなかった。どこか異様で、普段とは全く違う夜だったと思う。
だからなのか、クシェルもどのようにしてそこへ向かったのか覚えていなかった。本当に導かれたとしか言えない。
なのに、あの日見た光景だけはきっちりと覚えていた。
「その場所は、大きな広間のようなところで……年頃の宝石の娘たちの他に、高価そうな服を着た殿方がたくさんいました。どの方も仮面を付けていらして、見るからに異様で。しかも、宝石の娘たちは皆大きな鳥籠のような檻に入れられていて……順番に、値段がつけられていました」
その異様な光景を思い出し、ひゅうと喉が鳴った。
鳥籠の中に、美しい美しいドレスと長いヴェールを身にまとった、美しく飾り付けられた十六歳ほどの娘たちがいて。
彼女たちは正気のないガラス玉のような目をして、豪奢な椅子に座っていた。
そんな娘たちを、仮面の男たちがじろじろと不躾に見つめ、口々にああでもないこうでもないと言っていた。綺麗だ、好みではない、今年は出来がいいな、なんて言っていた気がする。
値踏みされていると、世間知らずのクシェルにさえ分かった。
一人の娘の値段がどんどん釣り上がり、買い手が付いたと分かる歓声が上がるたび、体がガクガク震えて恐ろしかったのを覚えている。
そんな場違いなところに来てしまったクシェルは、慌てて身を隠せそうな長いクロスが垂れ下がるテーブルの下に隠れたのだ。
「咄嗟にテーブルの下に隠れて、それでも外が気になって。私は、テーブルクロスの隙間からその光景を眺めていたのです。見れば、買い手がついた娘たちが次々に鳥籠から出されて、契約者と契約の儀を交わしていました。そしてそれを、他の殿方たちが、見ていて、その度に歓声が、上がって……見せ物の一つなのだと、そう思って、とても恐ろしかった。それと同時に……これが私たちにとっての『最高の待遇』なのだと悟って、目の前が真っ暗になりました」
これが最高の待遇なら、クシェルのような石ころの娘は一体どんな扱いを受けるのだろう。こんなふうに見せ物にされることもなく、歓迎されるようなこともなく。ただただ本当に石のように、踏みつけられる。そんな未来が見えて、思わず口から悲鳴がもれた。
「そうして声を上げてしまったとき、一人の殿方がそれを聞きつけてしまったのです」
ぎゅう、と手を握り締めて。俯いて。クシェルは今でも夢に見る光景を必死になって抑えつけようとした。でないと、今にも逃げ出して記憶を忘却して無かったことにして、立ち尽くしてしまいそうだったからだ。
そうしたらすっと、自分のものより大きな手が、クシェルの手を包み込んでくる。
温かくて大きな、安心する手。
安堵で思わず手の力を抜くと、するりと手のひらの間に割り込んできて、指を絡めるように握ってきた。
思わず顔を上げれば、イェレミアスの真剣だが優しい眼差しとかち合う。
「大丈夫です。……僕は、そばにいますよ」
イェレミアスはベッドの縁に腰掛け、空いている方の手でクシェルの背中を撫でながらそう言ってくれた。
そのおかげか、詰まっていた呼吸が少し楽になる。
しかしお礼を言う余裕がなくて、ただこくこくと頷いてから再度口を開いた。
「私は、口を押さえてテーブルの下で身を縮めて、バレないことだけを祈っていました。ですが世の中、そんなに甘くはなくて。その人はテーブルの下に何かいるかもしれないことに、気づいてしまった。……もうだめだと、思ったのです」
見つかればどうなるのか、当時のクシェルにだって分かった。
良くて懲罰、悪くて死。
クシェルのような石ころの代わりなどたくさんいる。見つかれば、見逃してもらえるはずがなかった。今までの扱いを見ていても、ひどいことをされることだけは容易に思いつく。
なのに。
「なのに。一人の宝石の娘が、助けてくれたのです。……その殿方を、誘って。自分の身を、犠牲にするような形で」
『アーレンス卿、わたくしを置いて、どこへ行かれますの?』
そう言ってから、その娘は口づけをねだって男の視線を一瞬で奪った。そんな彼女が、周囲の男たちから「娼婦のようだ」と笑われ蔑まれていたのは、クシェルにも聞こえていた。そしてそんな行動を起こした理由が、クシェルのためだったことも。
今でも、その光景を思い出すと目の前が真っ暗になって泣きたくなる。
それでも泣くまい、とぐっとこらえ、クシェルは震える体を必死になって叱咤し言葉を続けた。
「その後、私はその方のおかげでその広間の外に出ました。そして彼女は、また広間に戻っていった。なのに私は、その方のお名前すら知らないのです。覚えているのは、とても美しい金色の髪と、金色の瞳をした方で……純白のドレスが、良く似合っていました。聖女のようだと思いました。その方の犠牲のおかげで、今の私があります。……それが、私の一番初めの罪です」
なんとか話し終え、クシェルはじわじわと広がる胸の痛みを堪えながら口を開いた。
「その宝石の方が、契約したであろう殿方のことを『アーレンス卿』と仰っていました。おそらく、その方の元へ嫁いだのだと思います」
そして、イェレミアスを見る。
「イェレミアス様。この情報は、何かに、使えますか?」
その言葉を聞いたイェレミアスは、一瞬苦い顔をしてから頷き、笑みを浮かべる。
「もちろんです、クシェル。……とても有益な、情報です」
「そう、ですか……よかった」
瞬間、体が重たくなった。精神的な疲れだろうか。息が浅くなり、嫌な汗がじわじわ出てくるのが分かる。
そんなクシェルを見てまずいと思ったのか、イェレミアスは背中のクッション全てを取り払って、クシェルをすぐ寝かせてくれた。
「申し訳、ありません……」
「何を言っているんです。まだ全快ではないのですから、当たり前ですよ。むしろ無理をさせてしまい、申し訳ありません」
「……ありがとう、ございます。イェレミアス様」
額の布を換えてくれたり、水を飲むかと聞いてくれたり、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるイェレミアスに笑みがもれてしまう。
うつらうつらとしながらもなんとなく寂しくなって、思わず口から本音が溢れた。
「……さみ、しい」
「……え?」
「一人が、寂しい、ので……そばにいて、くださいませんか……? 私が、眠るまででいいので」
言ってから、何を言っているのだろうと冷静な自分が笑うのが分かった。どうやら、また熱が上がってきて変なことを言ってしまったようだ。
(これ以上、迷惑をかけちゃいけない、のに)
そう思って、冗談ですとすぐに否定しようとしたら、手を握られた。
驚いて視線だけ動かせば、イェレミアスが手を握って椅子に座り直している姿が見える。
「クシェルが眠るまで、そばにいますよ」
「……ほんとう、ですか……?」
「ほんとうです。だから、今は休んで風邪を治してくださいね。……おやすみなさい、クシェル」
「……はい。おやすみ、なさい……イェレミアス、さま」
イェレミアスがそばにいるというだけで、先ほどまでこわばっていた体が嘘みたいに柔らかくほどけて、瞼が重たくなってくる。なのに意識はふわふわと浮かび上がって、なのに温かくてふかふかの何かに包まれて。まるで雲の中にいるような気持ちになった。
とろとろとあまりにも優しいぬくもりに身を委ねながら、クシェルは思う。
(この方のそばに、いたい)
そのためなら、きっとどんな苦痛にだって耐えられるし、どんな努力だってできるのに。
しかし、そんなささやかな願いが叶うことなどないことは知っていた。だからせめてこの一件を終わらせるために、なんでもしたいと思う。
たとえそれで、死ぬことになったのだとしても。
ただ死ぬだけの運命しかなかった頃より、ずっとずっと幸せだ。
そんな思いを抱えながら。
クシェルは今までで一番深い眠りに落ちていったのだ――