10.幸福を手放す
精霊祭が終わってから、毎夜毎夜夢に視る。
あの日のことを。
『アーレンス卿、わたくしを置いて、どこへ行かれますの?』
そう言って、クシェルが身を潜めていたテーブルクロスの下から視線を外すよう仕向けるために、好きでもない男に口付けをした彼女のことを。
『さぁ、今のうちに戻って。――絶対に、振り返ってはだめよ』
そう言って、クシェルをあの地獄のような空間から連れ出して。その上で、微笑みながら地獄へと戻っていった彼女のことを。
優しくされ、幸福を感じるたびに思い出す。
まるで己の罪を自覚しろと、責められているようだった。
否、責めているのは自分自身なのだろう。
だってそれくらいのことを、クシェルはしてしまったのだ。
それなのに、今こうして嘘をついて隠し通して、幸福な生活に身を委ねている。
(嗚呼、なんて。なんて浅ましく、愚かしい生き物なのかしら)
そんな自分がイェレミアスのとなりにいる資格は、ないというのに。
*
冬の寒さの中にも、春の柔らかい暖かさが覗き始めた頃。
クシェルはエルツ男爵領にあるカントリーハウスではなく、彼の家が王都の一角に持つタウンハウスに身を寄せていた。
春というのは、貴族にとって社交の季節。
そのため、冬の間はそれぞれのカントリーハウスで過ごす貴族たちも、この季節ばかりは王都に所狭しと並ぶそれぞれのタウンハウスへ移動するのだ。
エルツ男爵家も類に漏れず、王都にタウンハウスを持っている。貴族居住区画の一等地、というわけにはいかないが、それでも立派なタウンハウスだった。少なくとも、クシェルが生家で暮らしてきた部屋よりも広く、清潔で快適だ。
自宅が王都にあるヘルタは、住み込みをやめて通いで家庭教師を務めてくれている。聞く話聞く話が、興味深いことばかりで楽しい。
知識がないクシェルにも分かりやすく丁寧に、ちゃんと理解したことを確認してくれながら教えてくれる。そんなに丁寧に教えてもらったことは、生まれてこの方初めてだった。
そういうのを見ていると、本当に素敵なお家だな、と思う。
ここにいるのがクシェルでさえなければ、イェレミアスも幸せだったろうに、とも。
しかしまだ外には雪がちらついており、社交の季節には少しだけ早い。
それはイェレミアスが、初めて社交の場に出るクシェルを慮り小さな夜会に参加させてくれる手筈を整えていたからだ。
――今日はその夜会のためのドレスを仕立てるべく、クシェルはイルザのいる仕立て屋にやってきていた。
「これはこれは、エーデルシュタイン嬢。よくぞいらっしゃいました。ささ、こちらへどうぞ」
「お、お邪魔します……」
「……僕の存在そのものを消すの、やめてもらっていいですか?」
イェレミアスをそっちのけでクシェルを奥の個室へ誘うイルザに、イェレミアスが呆れたような顔をした。
そんなイェレミアスに、イルザは口元に手を当てる。
「これはこれは坊っちゃま。いつもご贔屓にしていただきありがとうございます。エーデルシュタイン嬢のお心は掴んだのですか? 奥様からお伺いしましたが、その辺りまだだったかと思うのですが……坊っちゃまともあろうお方が婚約者一人射止められないとは、愛が足りないのでは?」
「顔を合わせて早々辛辣ですね……」
「事実を申し上げたまでですわ。しっかりしてくださいませ」
二人のやりとりを眺めていたクシェルは、二人の顔を交互に見つめながら慌てる。
(そ、そんな、イェレミアス様はとても良くしてくださっているのに……!)
流石にそこを誤解させたまま放っておくことは、クシェルにはできなかった。
なので思い切って二人の間に割って入る。
「あ、あの、ハシュテットさん! 違うんです!」
「……と申しますと?」
「イェレミアス様は、とてもとても良くしてくださっているんです! なので不満はありませんし、む、むしろ私なんかには勿体ないくらい美しくて素敵な方ですっ!」
クシェルがそう叫ぶと、場に沈黙が広がった。
ハッと我に返って周囲を見回すと、イルザはにこにこ満面の笑みを讃えており、イェレミアスは口元を手で覆って顔を背けている。その横顔がほのかに赤らんでいるのは、クシェルのほうからも見てとれた。
それに気づいてから、クシェルは自分がとんでもないことを口走ってしまったことに気づく。自分の顔が首筋から赤くなっていくのが、否が応でも分かった。
そんな初々しい反応をする二人を見て、イルザはしみじみ告げる。
「素敵な夜会用ドレスをお作りしますから、ご期待していてくださいね」
クシェルはそれに、ただただ頷くことしかできなかった。
イェレミアスが「用事があるので、後で迎えにきます」とだけ言い残し席を外したあと。
クシェルはイルザと顔を突き合わせ、ドレスのデザインを考えていた。
数々の図案をクシェルには見せながら、イルザは説明をしてくれる。
「やはり夜会用ドレスということですから、クシェル様はお若いですし上部はお肌をお見せして良いと思うのです」
「は、はい。確かに」
「ただ、あまり露出をしたくないというようでしたら……こう、背中のほうを見せるタイプもありかと思います」
「なるほど……」
「顔を合わせているときは清楚な淑女なのに、ダンスを踊っているときは艶やかな美しさを放つエーデルシュタイン嬢……良いです、良いですわっ! 大胆にババーンと背中を開けましょう!」
「は、はい」
「そして今の流行りを入れるのでしたら、やはりバッスルスタイル! バッスルスタイルですわ! 特にクシェル様はお若いですから、流行をどんどん取り入れましょう!」
熱心に語りかけつつ、ドレスの図案を修正していくイルザを見ながら、クシェルは少しだけ笑う。
クシェル自身は図案を作るのではなく、もらった図案を実際にドレスとして仕立てることを主としていたためこの辺りは詳しくないが、イルザがクシェルのことを考えて作ってくれていることはよく分かった。
楽しいな、と思いつつも、クシェルは思う。
(ドレスが無駄になってしまうのは……申し訳ないわ)
クシェルが、このドレスを着て夜会に参加することはないし、できない。というより、このドレスができる前にクシェルが全てを終わらせるからだ。
これ以上、自分のことを隠してイェレミアスを騙すことはできないと思った。
隠しておいても、いいことなど何もないのだから。イェレミアスにとっても、クシェルにとっても。
だからクシェルは、楽しそうなイルザに微笑みながら口を開く。
「あの、ハシュテットさん。少しだけ良いですか?」
「はい? いかがいたしましたか?」
「こちらのドレスの図案、一度持ち帰って検討させていただくことは可能でしょうか?」
「……なるほど。坊っちゃまとも相談したい形でしょうか?」
曖昧に笑って頷く。本当は違うが、わざわざそれを説明することもないだろう。
そうすれば、イルザは少しだけ考えてから口を開いた。
「かしこまりました。ただ、ドレスをお作りするのに一週間半ほどお時間いただきたいです。ですのでそうですね……三日後までにはご返答いただきたいのですが、構いませんか?」
「はい、大丈夫です。……よろしくお願いいたします」
これが、イルザと会う最後だろうな、と。そう思いながら。
クシェルは静かに頭を下げた。
*
夜。
クシェルは私室の窓を開けて、外を眺めていた。
冷たい風がひゅうと音を立てて入ってくる。ショールを羽織っていても体はどんどん冷えていって、凍えるようだった。
春が近づいていると言っても、まだ朝と夜は冷える。
しかしクシェルは、窓を閉めようとは思わなかった。
今から、それだけのことをしようとしているからだ。
だから頭をできる限り冷やして、覚悟を決めなくてはならない。数日前からずっと頭の中で流れを想定してきたが、それでも。自分の口からそれを告げるのは勇気がいったのだ。
きっとこの屋敷にくる前だったら、クシェルはなんの感情も込めずに言えたのだと思う。死ぬことを望んですらいたからだ。
だがエルツ男爵家で過ごしてきて、そこで暮らす人々の優しさに触れて、穏やかな日々を過ごして、幸福を感じるようになって。めいっぱい、良くしてもらった。
特にイェレミアスは、クシェルを婚約者として扱ってくれたし、クシェルが驚いて引かないよう、ゆっくりゆっくり距離を詰めてくれたように思う。
その優しさは、本来クシェルが受け取っていいものではなかった。それなのにその立場に甘んじていたのは、クシェルがとても弱いからだ。
(大切にしてもらえて、嬉しくて。離れがたくて、だから嘘をついたの)
本当なら、人として扱ってもらえるような存在ですら、ないくせに。
弱くて、愚かで、みじめで。自分のことがより嫌いになった。
だけれど、今日。この日。イェレミアスに全てを伝えて懺悔ができたら。
今より少しだけ、自分のことが好きになれるような気がした。
そんな気持ちをくれたのは、イェレミアスだ。
だから彼に幸せになってもらうためにも、クシェルは覚悟を決める。
「……よし」
窓をゆっくり閉めてから。
クシェルはイェレミアスの部屋へ行くために、身なりを整えた。
クシェルが部屋を訪ねると、イェレミアスはすぐに中へ入れてくれた。
「どうかしましたか、クシェル。こんな時間に部屋へくるなんて、珍しい」
「はい、イェレミアス様。少し、お話ししたいことがありまして……」
「そうですか。ああ、なら、そこのソファに座ってください」
「……はい。失礼いたします」
促されるままに、休憩用であろうソファに座る。イェレミアスは距離感を考えてか、テーブルを挟んで置かれた向かいの椅子に腰掛けた。
クシェルが緊張していることを悟っているのか、イェレミアスが促すように目を細め視線を送ってくれるのが分かる。
『大丈夫ですよ、ちゃんと聞いていますから』
そんなイェレミアスの声が、聞こえてくるようだった。
クシェルはつられて目を細める。
その、まろみを帯びた美しい金色の瞳が、何より美しいと思っていた。
いつだってクシェルのことを優しく見つめていてくれて、言葉を促してくれて。時折、光を浴びて艶めくその瞳に、いつも見惚れていた。
嬉しかった、のだ。本当に、心の底から。ここにずっと、沈んでいたいと思うほどには。
だけれど、この瞳は。この方は。
クシェルがずっと、独占して良いものではないから。
ぎゅう、と手のひらに爪が食い込むほどきつくきつく両手を握る。苦しくて、今にも叫び出して逃げたい思いを閉じ込めるために、痛みに頼った。
そしてクシェルは、口を開いた。
「イェレミアス様、お願いです。――私との婚約を、解消してください」




