閑話2.自身の無力さを呪え
本来の目的の一つである『精霊祭』をつつがなく終え、クシェルを私室まで見送った後。
イェレミアスは急ぎ足で自身の部屋へと向かっていた。
いつもより少しだけ乱暴に開けて中へ入ったが、閉めるときはできる限り音を立てないようにする。クシェルの部屋とイェレミアスの部屋は近いので、気づくかもしれないと思ったのだ。
できる限り、クシェルにとって心地よい家にする。
そう考えて、使用人たちとも意見を出し合って。イェレミアスは家具や花瓶に挿す花の種類、食事などを考えてきた。
その甲斐あってかようやく、ドレス以外のことに関しては無関心だった彼女に、好みとも言える反応が出てきたのだ。
花は好きだが、宝石は苦手。
温かい料理、素朴な料理が好き。
肉より魚のほうが、食事の進みが早い。
鏡で自分の姿を見るのは嫌い。
いつも俯いているのに、イェレミアスと話すときだけは時折、目を合わせて微笑む。
そんなふうにコツコツと積み上げてきたものを、イェレミアス自身の苛立ちで壊すのは本末転倒だった。
同時に部屋に『防音』の魔術をかけてから、手のひらから放った光で魔導ランプに明かりを灯す。
そうすれば、ソファの上で腕を組む一人の女性が現れた。
ヘルタだ。
イェレミアスは上着を脱いで魔術で寝室のクローゼットにしまいながら、呆れる。
「明かりくらい、つけて待っていてください……」
「うふふ。もうこの程度じゃあ、驚かなくなってきちゃったわね。悲しいわ……」
エルツ男爵家にやってきてからはついぞ見なかった砕けた口調だが、これが本来のものだった。なので今までの敬語のほうが違和感がある。それもあり、イェレミアスは少しだけほっとする自分がいることに気づく。
そんなヘルタが泣き真似をするのを見て、イェレミアスはどっと体が重たくなるのを感じた。しかしヘルタに聞きたいことがあるのも事実なので、ぐっと堪えて向かい側のソファに腰掛ける。
話を切り出してきたのは、ヘルタだった。
「それで? クシェルさんとの夜デートはどうだった?」
「……別に、普通でしたよ。クシェルは楽しそうにしていましたから、僕としては満足ですけど」
わざわざ、横抱きにして道中歩いたとか、手を繋いで星降りを見たとか、言う必要はない。言ったら言ったでにやにやされてからかわれるのは分かっているからだ。
するとヘルタは、不満げに口を尖らせる。
「あら。婚約者同士だというのにぬるいわね。口付けの一つくらい、してもいいのよ?」
ヘルタとしては、浮いた話一つなかったイェレミアスが珍しく殊更一人の少女を気にしていることをからかっていったのだろう。
しかし今のイェレミアスには、違った意味で心に突き刺さった。
口付け。
その言葉を聞いて、イェレミアスは苦虫を噛み潰したような心地になる。
クシェルがやってきた日のことを思い出したからだ。
義務のような、機械的な口付け。
最初はなぜそんなことができるのか分からなかったが、今となってはなんとなく理解できる。
そう、教育を施されていたのだ。彼女は。
それに気づかなかった自分に苛立ち、同時にそのような教育を施したであろうエーデルシュタイン家に対して、言い知れぬ怒りが湧いてくる。クシェルが自分以外の男の元に嫁いでいたらと考えると、はらわたが煮えくり返りそうな心地になった。
クシェルがいる間は楽しさゆえにどうにか紛らわせていたそれが、ヘルタの言葉をきっかけに噴き出す。
しかしただ怒りをぶつけるだけでは、クシェルのためにはならない。欲しいのは明確な証拠と確証だ。
それをより明確にするべく、イェレミアスはヘルタに問う。
「ここ一週間、クシェルの教育はどうでしたか」
普段ならば茶化すところだが、イェレミアスの様子からただならぬものを感じたのだろう。ヘルタは目を細めると、ため息を漏らした。
「進み自体は順調よ。クシェルさんもとても素直に取り組んでくれるし、何より彼女は理解するまでが早いわね。……でも……」
「でも?」
「最初にテストをしたときも思ったけれど。クシェルさんの知識は、偏りすぎていると思うわ」
嫌な予感が的中し、イェレミアスはぎりっと歯を食いしばった。
「淑女教育における、礼儀作法、多言語精通、手習い事……この辺りは完璧。だけれど……妖精と精霊、魔術、魔法。これらの知識が、全くない」
「……精霊祭を見るのも、初めてと言っていましたね」
「そうね。……それは、異常だわ」
領地によって形式などは変わるが、大抵の場合あのようにして、領内全体に魔力を行き渡らせるべく、大きな変化が訪れる。今日のように空から光の玉を降らせたり、魔術陣から枝葉のように魔力を行き渡らせたりする方法だ。屋敷にいても分かるはっきりとした儀式なので、領民たちの中には毎年それを楽しみにしている者も少なくない。
なのに、領主の娘がそれを知らない。
それは、正直言って異常だ。
それ以外でも、小さなことに怯えたり、荷物が質素だったり、知識が偏っていたり。おかしな点が多すぎる。
否。イェレミアスも、なんとなく気付いていたのだ。しかしそしてそこから導き出される結論を、イェレミアスは信じたくなかった。
娘――しかもこの国で尊ばれる妖精の血を引く者にそんな扱いをする人間がいることが、信じられなかったからだ。
それを悟っているのか、ヘルタが口を開く。
「……イェレミアス。あなたももう、分かっているのでしょう?」
「……ッ」
「分かっていて目を背けるのは、クシェルさんのためにならないわ」
イェレミアスはぎりりと、手のひらをきつく握り締めた。手袋をしていても痛みを感じるくらい強く握ったが、怒りを堪えられそうにない。
「……クシェル、は。実家で、虐げられてきたのですね」
虐げられてきた、で済む話なのだろうか。
虐げられてきた上に、偏った知識まで植え付けられて。
それでもなお、嫁いだ相手に尽くすために愛のない口付けを初めて会う相手に捧げさせる。
まるで道具のような扱いだ。
もしくは、家畜か。
どちらにしても、一貴族の娘が行なうべきものではない。
あの様子では、両親に愛情を注がれたことすらないだろう。
あまりにも歪んだ状況に、イェレミアスは大きくため息を吐き出した。
「あの分ですと、件の噂にも信憑性が出てきますね」
「そうね。クシェルさんの状況を見るに、内情は相当ひどいものではないかしら。いつから始めたのかは知らないけれど、それでも今まで外部に漏れなかったのだから、大したものだわ」
イェレミアスは、項垂れるように深く深く頷いた。
「せっかく掴んだ機会です。どうにかして、エーデルシュタイン家の悪事を暴く糸口を見つけ出さなくては……」
「……でもイェレミアス。そのためにはきっと、クシェルさんの力が必要になるわ」
イェレミアスは、唇を戦慄かせた。ヘルタが自分の考えを見通したような発言をしたからだ。
「クシェルがいなくとも、きっと別の方法、が、」
「イェレミアス」
「……分かっています。分かっていますよ。クシェルの存在そのものが、今手元にある唯一の糸口だということは」
「それが分かっているなら、」
ヘルタの咎めるような声に、叫ぶように言った。
「ですがクシェルに協力を頼むということは、僕が隠している全てを打ち明けるということです! 僕の都合で、クシェルの心を傷つけるということですっ! それをしろと言うのですかッ⁉︎」
「するのよ、イェレミアス」
間髪入れずに言い切るヘルタに、イェレミアスは目の前が真っ暗になるのを感じた。
そんなイェレミアスを諌めるように、ヘルタは続ける。
「それが命令で、あなたのやらなければならないこと。そして、クシェルさんのためでもあるわ」
「……クシェルの、た、め? ようやく笑みを見せてくれるようになったクシェルの心に再び傷を作ることが、彼女のためになると?」
「少なくとも、このまま嘘を吐き続けるよりは誠実でしょう。それとも、イェレミアスはこのまま嘘を吐き続けるというの?」
「ッ!」
「できもしないなら、中途半端な偽善はよしなさい」
ぴしゃりと言い切られた言葉に、何も言い返すことができなかった。その通りだったからだ。
そんなイェレミアスに追い討ちをかけるように、ヘルタは冷徹に言う。
「わたしたちにできることは、クシェルさんに一から十まで全て本当のことを伝えること。そして騙していたことを謝罪しつつも、問題解決のためと哀願して、いやしくも彼女に協力を求めることよ。そうでしょう?」
「………………は、い」
「分かっているならば、覚悟を決めなさい。クシェルさんに嫌われる覚悟を。罵られる覚悟を。それが、命令書を受けて彼女に接触をしたあなたがやらなければならないことです。良いですね?」
「ッ、は、い」
イェレミアスは、自身の無力さを呪った。まさかここまで、自分にできることが何もないとは思わなかったのだ。
否、違う。愚かだっただけだ。
最年少で魔術師の資格を取り。全ての属性の魔術を操り。全ての属性の精霊から加護をもらったからと。小賢しくも、無敵だと思い込んでいただけだ。
しかし実際は、家族に虐げられ家畜のように扱われたであろう少女に、さらにむごい仕打ちをしようとしている。
そんな、ちっぽけで醜く愚かな存在が自分だった。
自身の矮小さに打ちひしがれながらも、イェレミアスは頭を動かす。そして、掠れた声で呟いた。
「来月辺りから二ヶ月ほどが、ちょうど社交の時期です。各地から貴族たちが王都にやってくる。問題のエーデルシュタイン子爵も出てくるでしょう。彼らが領地に戻る前に、片をつけます」
「そう」
「……クシェルに話を付けるために、ローデンヴァルト家で夜会を開いてもらえませんか? 日付は今から一ヶ月後。招くのは親戚筋だけでいいのです。きっかけがあったほうが、クシェルに説明しやすいのです」
「……分かったわ。それくらいのお膳立てはしましょう」
ヘルタは言い、立ち上がる。しかし扉に手をかけた辺りで、くるりと振り向いた。
「イェレミアス」
「……なんでしょう」
「どちらにしても、あなたにできることは跪いて許しを乞うしかないわ。……許されないうちは、その感情を吐露してはだめよ」
それだけ言い残して立ち去ったヘルタを、イェレミアスは悄然とした気持ちで見送る。
それから背もたれに体を預けると、目を閉じた。
浮かび上がるのは、瞳を輝かせて精霊祭の様子を見つめる姿と、幸せだったと笑う姿だ。
前よりずっとよく、笑うようになった。彼女の表情が綻びる瞬間が、何より好きだった。
その笑顔を踏みにじるのが自分だということに、言い知れぬ痛みを感じる。
「何が最強の魔術師ですか。――傷だらけの彼女すら、救えないくせに」
自分に向けて放った言葉は、想像よりも深くイェレミアスの心に突き刺さった――