#29 おかえりなさい
わたしたちの家からは少し遠い街のとあるマンションの一室。そのドアの前に立ち、チャイムを鳴らす。少し間を置いて、インターホンから返事があった。
「...どちらさま?」
「こ、こんにちは、笹森です。この間は、」
話す途中でプツッとインターホンが切れた。そんな。
どうしたものかとドアの近くでおろおろしていると、突然開いたドアがわたしの顔を打った。
「あ...。ごめんなさい、大丈夫?」
「だ、大丈夫です...」
「...入って。冷やすもの持ってくるから」
鼻の痛みを犠牲に、家の中に入れてもらうことができた。これでちゃんと話ができる。痛みがおさまってからだけど。
招かれた部屋は少し散らかっていた。インテリアも特になく、ベッドや冷蔵庫など生活に必要なものだけが置いてある感じだ。
アンジェさんが持ってきてくれた保冷剤で鼻を冷やすと、じんじんとした痛みが少しずつ引いていった。
「も、もう大丈夫です。ありがとうございます」
「そう」
やっぱりなんというか、感情の起伏が見えない人だ。こうしている間も眉尻ひとつ動かない。
「えーと...アンジェさん、とお呼びしても?」
「いいわ。千秋さん...でいいのかしら」
彼女が首を振ると、銀の髪がはらりと揺れる。未春と同じ、見惚れてしまいそうな美しさがある。
「未春は、元気?」
「とっても元気です。学校で友達もできて、休みの日には遊んだりしてます」
「そう...」
安堵しているのだろうか。表情に変化がないので分かりづらい。
「...アンジェさん。もし嫌じゃなければ、今までのことを話してくれませんか?」
「...未春を預かってくれてるあなたに言われたら断れないわね」
そう言うとアンジェさんは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。コップにお茶を注ぎ、わたしの前に置いてくれる。
「ありがとうございます」
「......未春を産んだのが11年前ね。その2年後に、慎二は行ってしまった」
慎二、というのは死んでしまった未春のお父さんだろう。未春が言うには、確か交通事故で。
「どうしようもなく悲しかったけど、未春と生きるしかなかった。私もこっちで働いてたけど、まだ小さかった未春のために仕事を辞めたの。律子さんにもお世話になったわ」
「.........」
「未春が小学校に通い始めて、生活には余裕ができた。でも、今度はお金の余裕がなくなって。仕事もなかなか見つからなくて困ってたところで、あの人と出会った」
「...その人が、再婚相手の...」
「そう。結婚するまでは、優しい人だった。未春の学費もなんとかしてくれるって...未春は受け入れていなかったみたいだけど、あの子には分かってたのかもね」
そこからはわたしも知る通りだった。再婚相手が暴力を繰り返し、家族はバラバラになった...
「......そんなところね」
「...辛い話をさせてしまって、すみません」
「いえ...これも、私の罪だから」
これでほとんどの事情は把握した。あとはアンジェさんの気持ち次第だ。
「アンジェさんは、未春と会いたくないですか?」
「...わからないの。会いたい私も、会いたくない私もいる」
窓の外を見つめる彼女は、今にも崩れそうに脆い。
「未春が酷い目にあった原因は私にもある。しかも、私は未春を置いてひとりだけ逃げた。そんな私を、未春は許してくれない」
今まで顔色ひとつ変えなかったアンジェさんの表情が曇った。嫌になるほど自分を責めて、涙を流すことにすら疲れてしまったのかもしれない。
そんな彼女を救ってあげられる人を、わたしはひとりしか知らない。
「ねえ、アンジェさん」
両の手で彼女の手を取る。素の体温が低いのだろうか、ひんやりと冷たい。
「未春はね、とっても強い子だよ。わたしと出会った日の夜に、初めて泣いたんだって」
今でも覚えている。わたしの胸の中で、わたしと一緒にえんえん泣いていた未春。
「料理もお裁縫もお母さんが教えてくれたの、って。いつも嬉しそうにわたしに話してくれるよ」
毎日料理をするときの未春はとても笑顔で。わたしの服が破れたら、しょうがないなぁって直してくれる。
「わたしのお母さんと会ったときは、ちょっとだけ寂しそうな顔してた。...羨ましそうだった」
わたしは未春のお母さんにはなれない。未春だってまだまだ子供なんだから、甘えられる相手がいないと。
「だから、もう一度、未春の「お母さん」になって」
もう一度強く手を握って、アンジェさんと目を合わせる。
「お願い。あの子にはあなたが必要なの」
握っていた手が、震える。わたしの手の甲に、滴が落ちた。
「...千秋さんだって、未春の支えになってるでしょ」
「支えにはなれても、お母さんの代わりにはなれないよ。あの子、アンジェさんのこと大好きだもん」
「......ほんとに私で、いいのかな。未春から逃げた、私でも」
「うん!アンジェさんしか、いないよ」
「...そっか」
アンジェさんが落ち着くまで、手を握り続けた。
「じゃあ、早速行きましょうか」
「え...今日?今から?」
「もちろんです、未春は今すぐにでも会いたいはずですから。アンジェさんは違うんですか?」
「そ、それは...あなたって、結構強引ね」
「よく言われます」
アンジェさんが着替えている間、家の外で待つ。しばらくすると、ゆっくりとドアが開いた。
「あの、心の準備が」
「それは行く途中にしましょう!さあ行きますよ!」
アンジェさんを引っぱり出すように家から出て、駅に向かう。未春にラインしとこう。
(未春、起きてる?)
(起きてるよー。どこ行ってるの?)
(ちょっとね。今から素敵なお土産持って帰るから待ってて)
(やった。楽しみにしてるね~)
これでよし。隣を見ると、アンジェさんがガチガチに緊張していた。
「そ、そんなに...」
「...正直、不安でしょうがないわ」
「大丈夫ですよ、絶対」
この数ヶ月、伊達に未春と暮らしていない。あの子、本当にお母さんっ子である。実は寝言で「お母さん...」と言ってたのをこっそり録音してあるぐらい。
わたしも未春の反応が楽しみだ。びっくりするかな、もしかしたら泣いちゃうかな?
昼前に起きたら、千秋がいない。スマホを見ると、「ちょっと出かけてくるねー」と少し前にメッセージが入っていた。
うーん、ごはんどうするんだろう。とりあえず掃除だけ済ませちゃおうかな。
ふぃーんと掃除機をかけていると、またスマホが鳴った。千秋いわく、なにやらお土産を持って帰ってきてくれるらしい。
なんだろ、お菓子系かな。お茶の準備しておこうかな?
紅茶とコーヒーを用意しつつ、お昼ごはんの素麺を茹でていると、玄関の鍵を開ける音がした。
「未春、ただいまー」
「おかえりー。外暑かったでしょ?素麺作ってるけど、もうお昼食べちゃった?」
「まだだから食べる~。それより未春、お土産見せてあげる」
「あ、うん。なになに?」
「こちら...ちょっと、今更怖気づかないでくださいよ!ほらこっち!」
「なに?誰かいる、の...」
「あ、あの......ひさしぶり、未春」
頭が真っ白になった。いったん家の中に戻って、洗面所で顔を洗う。ふぅ、すっきり。
もう一度玄関に戻ると、さっきと同じ人がいた。ほっぺをつねってみる。いたい。髪の毛は...わたしと同じ色。見間違えるはずがない、綺麗な顔。
「お母さん?」
「う、うん」
「ほんとに?ほんとに、お母さん?」
千秋の方を見る。
「そうだよー。ほんとに未春のお母さんだよ」
「ほんと...お母さん......お母さん!」
「わっ」
「あいたかった!ずっと!お母さん、お母さんだ、う~~~」
「ふふ、やっぱり泣いちゃった」
「お母さん、だいすきだよ、お母さん、うぅ」
「未春...私も会いたかった。待たせてごめんね、ただいま」
うれしい。お母さんだ、お母さんのにおいだ。涙が止まらない、うれしい!しあわせだ!
「おかえりなさい、お母さん...もうどこにもいかないで...」
ぎゅっとお母さんを抱きしめる。
「うん、もう絶対未春をひとりぼっちにしない。約束」
「ほんと?」
差し出されたお母さんの小指に、私の小指を絡める。
「ゆびきりげんまん、うそついたら...うそ、つかないよね」
「うん、つかない。ゆびきった」
「えへへ...お母さん、お母さんだ...」
千秋が、手をぱんと叩いた。
「とりあえず、家の中入りましょうか」
「そ、そうね...未春?ちょっと離れて」
「やだ!離さないもん」
「もう、しょうがない子ね...よいしょ」
お母さんが、私をお姫様だっこしてくれた。
「おお...アンジェさん、力持ちですね」
「千秋~?私が重いって意味かな?」
「ち、チガイマスヨー」
「ふふ...ほんとに仲良いのね」
久しぶりに見たお母さんの笑顔は、私の心に焼き付いた。
アンジェさんを連れて帰ってからというもの、未春の元気がいつもの10割増しだ。
「お母さんのぶんも素麺茹でるから、待っててね!」
「ふー...今日も外あっつい...エアコンすずし~」
「ちょっと千秋!千秋は薬味係!はいネギ!」
「は、はーい...今行きまーす」
きれいなガラスのお皿(そんなのうちにあったんだ)にすっごい丁寧に素麺と野菜や薬味を盛り付けている。目が本気すぎて声もかけられない。
「はい、お母さんのぶん!」
「あら綺麗...上手ね、未春」
「えへへ」
頭を撫でられてにへらと笑う未春。かわいい。
「どう?どう?おいしい?」
「うん。美味しい」
「えへへ」
にこにこと笑顔の絶えない未春を見ていると、わたしも嬉しくて顔がにやけた。