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八十話 不可解な盃

 用意された客室に二人が戻ってもなお、耳障りな祈りの声はまだ終わっていなかった。


「うーん、具合はあんまりよくないな…何だったんだあの声。…神の使いって何だよ」


 聖衣を脱いで絹のシャツ一枚になったネーレウスの横で、エルザは悪寒立ったままベッドに座り込むと首を傾げた。

その視界の先では、修道士の手によって畳まれた二人の衣類や防具が椅子の上に鎮座していた。


「…そんな教義や文言は無かったと思うよ、私の知る限りでは。…信仰心が強いのと、ああいう恍惚的な儀礼や祭祀は別物だよ。パメドは本来、もっと戒律と清貧を重んじる国だ」


 くたびれた様子で椅子の背に聖衣を掛けた後、窓を開けたネーレウスは険しい表情を浮かべた。


「じゃあ、誰かが後からねじ込んだってことか?」


 この話を聞いて、エルザは訝しんだ面持ちで小首を傾げた。


「そう考えるのが自然だろうね。あの薬物を流通させた者と関連があるかどうか…」


 歯切れ悪そうに答えると、ネーレウスは溜息を吐いた。


「カルトにでも染まっちまったのか。…にしても、少し具合が悪くなっただけで済んだが…お前は無事か?」


 エルザは顔面蒼白のまま花の冠を外してベッドに横たわると、心配そうにネーレウスを見つめた。

カーテン越しに見える真っ暗な外からは、冷たい空気が勢いよく入り、体の芯まで厚ぼったく残るような酩酊感を覚ましていった。

冷たい外気に揺れるカーテンの隙間から差し込む月光が、ベッドに横たわる体を照らし、聖衣越しの曲線を露わにしていた。


「吐き気がするけど…あの煙は参ったね。抜け出せてよかった」


 窓際に立ったまま答えると、ふと、ネーレウスはエルザの姿に目を奪われかけた。


「…ネーレウス?…どうした、まさか…戻しそうなのか?」


 エルザはこの曖昧な表情に首を傾げた。


「違うよ、全く…。クテトウで見つかった例の煙草と、さっきの妙な儀式で使われていた香は同じもの。よりにもよって…教会が汚染されているのか…」


 邪念を誤魔化すように続けられた話はエルザの反論に遮られた。


「…同じものにしては、おかしいんだよな。確か…あの変な煙館でお前を助けに行った時に居た連中は、あんな風に何かを見ているようにも、ましてや幻聴を聞いているようにも見えなかった」

「煙館の連中はあんなふうに、キチガイ染みた行動はしていなかった。乱痴気騒ぎではあったが…」


 そこまで言って、エルザは花の冠を退屈そうに弄んだ。


「……なら、煙だけじゃない」

「香はクテトウで嗅いだものと同じだった。だから、別の何かがある」


 ネーレウスは思案した面持ちで口を閉ざし、沈黙が続いた。


「にしても、変な花だな。外の花壇に生えてたやつと同じものっぽいが…野生で見たことがない」


 その姿を意に介さず、なおも指先で摘まんだ真っ赤な花弁を、エルザが物珍しげに眺めていると、ネーレウスがベッドに近寄った。


「この赤い花…ケシの仲間のように見えるけど…」


 そう話を続けた後、ネーレウスは何かを言い淀み、花の冠をそっと預かると花弁を睨みつけた。

狼狽えるエルザを尻目に観察は続いていき、花弁の匂いを嗅いだかと思えば、咽返るような甘い臭いに端正な顔を歪ませた。


「…この花も同じ臭いがする。つまり、例の煙草とあの香に使われた葉の正体はこの植物。そして…墓地はあれだけ荒れていたのに、花壇だけ妙に手入れされていた」

「死者を弔うより“これ”を優先しているのだとしたら…」


 扉の先から聞こえる祈りの声が止む気配はまだなかった。

ネーレウスは扉に一瞬だけ目を向けて顔を顰めると、更に話を続けた。


「おかしな点はまだある。町の静けさと聖堂の人だかりだ」

「…もし、住民の大半が夜ごとあそこへ集まっているのなら、あの無人ぶりにも説明がつく」


 そこまで憶測が述べられた後、花冠が机の上に置かれた。


「へーんな町だよな。同じ植物なのに…クテトウの時とは様子が変だ」


 そう言って、不可解そうに肩を竦めるエルザの真っ白な喉元に、ネーレウスの意識は向いた。


「加工に手が加わっているのか…あるいはまだ何か流通しているものがあるのかもしれない」

「…君が口をつけたものに“何かを見せる為の”仕掛けがありそうだけど…あの液体自体は、恐らく普通のアルコール類だった」


 その言葉の後、金色の目が見開かれた。


「…いや、盃だ。あれに恐らく何か細工があったのか…。しかし…魔力の反応も薄いし…おかしいな」


 はっとした面持ちでそう呟くネーレウスを横目に、エルザはベッドから立ち上がった。

真っ白だった顔色は幾分かは良くなっており、僅かに血色が戻ってきていた。


「よくわからんが、あの儀式で使われていた盃をここに持ってくりゃ良いのか?」


 そして、そう言いながら伸びをすると、机の前に置かれていた衣類を手に取り、聖衣の裾の中で手早くズボンを履いた。


「…君はまだ顔色が悪い。行くなら私が行く。それに…もしかすると思い違いかもしれないし」


 この今にも廊下に飛び出しそうなエルザを、ネーレウスは引き留めた。


「いや、ここは…なんかヤバそうな気配がする。あの時の煙館のような…。それなら、私の方が早い」


 二人は暫く見つめ合ったまま、言葉を失った。


「…でも…うーん…」


 ネーレウスはこの提案を反芻した途端、クテトウでの不名誉な記憶が脳裏を過り、頬に熱が差すのを感じた。


「なーに、このくらい簡単だ。聖堂以外は手薄そうだしな。…お前は待ってたら良い。勇者ってことでこっちなら見つかっても…多少はお目こぼしもらえんだろ」


 眼前の煮え切らない態度を他所に、着替えを終えるとエルザは部屋を去っていった。


「分かった。…気を付けてね」


 ネーレウスは内心で、コソ泥のようだとも頼りになるともつかない、相反した感情に包まれながら、誰もいない廊下を歩いていくエルザの後ろ姿を見送った。

遠くの聖堂からはまだ、歪な祈りの声だけが何重にも重なって、小さく反響していた。

エルザの足音が廊下の奥に消えていくにつれて、部屋の静けさだけが余計に深くなっていった。

 その静寂の中、机の上に置いた花冠へ視線が移った。

甘ったるい臭いは、花そのものというより、既にこの部屋の壁や寝台や衣類にまで染み込んでいるようだった。


「……“神の使い”ね。…とても興味深い。全く、どこまで汚染されているのか…」

「…本当は、もう少し穏当に探りたかったのだけど」


 ネーレウスの疲弊の混じる声は、祈りの残響に薄く飲み込まれていった。

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