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七十九話 怪しい祝福

 僅かな燭台で照らされた室内では、揃わない讃美歌が四方に反響し、祭壇に置かれた香炉から鼻につく甘ったるい臭いが立ち込めていた。

列を成す長椅子の向こうには、白い貫頭衣を着た住民達の集団や、はだけた修道服を着た聖歌隊が、漂う煙越しには見えた。


「これは……」


 その全員が恍惚とした眼差しで祈りを上げ続けており、異様な光景にネーレウスは思わず眉を顰めた。

押し流されるように、エルザが修道士に囲まれたまま聖堂の祭壇まで連れて行かれた瞬間、歪な歌声が途切れ、視線はその姿に集中した。


「我々の祈りが届き……この聖地へ、神託に導かれし救世主が現れました」

「これより禊を執り行い、下界の穢れを離れ、御身に神とその使いの導きを満たします」


 思わずエルザとネーレウスが目だけで見合わせたのも束の間に、修道士が恭しく口を開いた。


「さあ、勇者様。防具をお脱ぎになって…こちらの聖衣を」


 なおも言葉は続き、修道士達はエルザの腕を抑えながら、留められた防具を取り外し始めた。


「あの…儀式の趣旨だけ先に伺えますか?」


 取り囲まれ、抵抗すら見せないエルザの姿にやきもきしながら、ネーレウスは声を潜めて訊ねると同時に、聖堂が霞む程に濃い煙が肺の奥に張り付くように感じられ、咽そうになるのを堪えて息を呑んだ。


「お連れの魔術師様も、こちらを」


 苦々しい問いを無視して、修道士はネーレウスにも白い聖衣を手渡した。

鼻につく甘い臭いが染みつき、燭台の光を反射する汚れ一つない生地は、生活と信仰と“例の薬物”が一体化している事を示唆していた。


「…このような祭祀は見た事がありませんが」


 妙にしっとりした薄手の聖衣がどこか得体の知れないもののように思え、ネーレウスは険しい顔のまま、静かに修道士を睨んだ。

しかし、視界の端に映る、“聖衣”を着せられ、祭壇の上に連れて行かれるエルザに気を取られて、思わず息を呑んだ。

付けていた髪飾りが外されて乱れた銀髪に、植え込みにあった赤い花で出来た冠が付けられている事に、不快感と苛立ちがその胸中に募っていった。


「ご心配ありません。下界の穢れを払う儀式ですので…」


 修道士の返事は相変わらず噛み合わないものだった。

その言葉にネーレウスは閉口しながらも、半ば強制的に儀式に参加させられたエルザが気がかりになり、修道士の陶酔した眼差しを浴びながら、聖衣に着替え始めた。

平静を装ったその視線の先では、薄布の下で透ける身体の線と露出した真っ白な裸足がちらついた。

目に映る光景に、自身の心拍を強く感じながら拳を強く握り締め、儀式をじっと睨みつけたものの、促されるままに祭壇の上に立った。


「…居心地はあまり良くないな。適当なところで切り上げられればいいが…」


 エルザは隣に立ったネーレウスを一瞥すると、ひっそりと耳打ちしたが、香炉から立ち昇る細い煙を眺める横顔が口を開く事はなかった。


「……」


 無言のネーレウスは何か答えようとしたものの、甘い煙が喉の奥を焼き、普段よりも思考が纏まらない感覚に支配された。

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる事しか出来ず、この目配せの間、足元では修道士達が祭壇を整え、聖杯を用意し始めていた。


「それでは…皆の祝詞をお聞き下さい」


 修道士がそう告げると同時に、奇妙な祈祷の声が再び上がり始め、背筋をざわつかせるような歪な讃美歌が壁や高い天井に反響し始めた。

この密教めいた儀式の中、苦渋の表情を浮かべていたネーレウスの顔は更に険しくなっていった。


「さぁ、勇者様。浄化も完了致しましたので…こちらを」


 祝詞の一節を終えた修道士が真っ白な手に小さな盃を渡した時、誰もが息を詰めるように口を閉ざし、聖堂の空気そのものが盃を持つ勇者へ注がれた。

揃わない讃美歌すらも途切れ、辺りからは音という音が急激に失われていった。


「何これ?ワイン…?」


 エルザはどこか濁ったような色合いの赤い液体で満たされた盃を凝視して、匂いを嗅いだ。

――これを口にしなければ、この気味の悪い連中が何を見ているのか、“神の使い”が何なのかも分からない。ならば、一口だけなら大丈夫だろうか?

そんな嫌な確信を抱きながらも、盃を持つ手を離す気にはなれなかった。


「我々に神の御言葉をお聞かせ下さい。声を聞く為には…まず喉を開かなければなりませぬ…」


 この静まり返った空気の中、恭しく修道士は口を開いた。

今や、恍惚とした甘美な眼差しの全てが聖杯を手にしたエルザの方を向き、その祭祀の成り行きを見守ろうとすらしていた。

ネーレウスが「エルザ、駄目だ。口にするな…それは何か細工が…」と、制止しようとしたものの、遅く、盃は既に傾けられていた。


「…まっず」


 一口飲み込んだ液体に、エルザが「アルコール類か?」と、首を傾げた次の瞬間、生臭さと舌にこびり付くような甘さが喉の奥へ落ちていった。

灼けるような熱が喉元を襲い、エルザは咳き込んだ。

そして、僅かに意識が遠のくような錯覚に陥ったかと思えば、足元と視界はぐらつき、甘い陶酔よりも先に舌に残る不快感が勝った。

その時、どこから聞こえてくるのかも曖昧な、何かを伝えようとする囁きが耳の奥をくすぐり、エルザは周囲を見渡した。


「…勇者様、聞こえますか?素晴らしい景色が見えるでしょう」

「どうか、ただ耳を澄まして下さい。どうか賜った言葉を…我らに…。神の御使いはなんと囁いておいででしょうか?」


 修道士達は畳みかけるように語り掛け、またある者は香炉に薪をくべて、燻る煙をより濃いものにした。


「……ん?…景色…?」


 エルザは訝しむようにそう呟いた後、ネーレウスの表情を横目に見た。

しかし、視界が揺れている事を除けば、ちらりと映る横顔がいつになく強張っている事しか変化は見当たらなかった。


「…こちらに来い……?解脱せよ…?」


 眉を顰めながら、誤魔化すようにエルザは曖昧な囁きに耳を傾け、そう答えた。

耳を撫でる声は甘美でありながら、内容は細切れの単語がやっと聞き取れるばかりで、夢現の出来事のようだった。


「…素晴らしい。神の御使いが…聖なる器に言葉を授けられた」

「御使い様も、お喜びです…」

「どうか、続きを……もう少しだけお告げを……」


 修道士達が跪き、縋るようにエルザの素足に触れたと同時に、長椅子に居た集団が一斉に首を垂れ祈りを上げ始めた。

この光景が病的なもののように思え、エルザの背筋には冷たいものが走った。

助けを求めるように、赤と青の瞳が再びネーレウスの横顔を見つめたその刹那、香炉が“水分が熱せられたような音”を小さく立て、煌々と燃えていた炎が消えた。


「…さあ。これ以上は“神の言葉”も濁る。…勇者の身体の為にも、そろそろ休ませてもらうとするよ」


 ネーレウスはそう告げると、祭壇から降りた。

この唐突な制止に、修道士達はたじろく事すらせず、むしろ恍惚とした表情で火の消えた香炉を見つめていた。


「御使い様が…」

「お喜びになられた……」


 厳かな震える声だけが祭壇の元で響いた。

ネーレウスはその感嘆を無視すると、ふらつくエルザを支えながら、この密教の場から抜け出した。

 ――神の使いなど、教義には存在していないはずだ。

ものものしい聖堂を背に、新たな疑問が胸中で燻り続けた。

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