七十七話 パメド国
二人はかれこれ半日以上も歩き続け、山の中腹を抜ける頃には空は鉛色の夕闇に染まりつつあった。
それでもなお歩みを進めていくと、次第に木々が鬱蒼と茂る獣道から、草がぼうぼうに生えた古い馬車道に辿り着いた。
「そろそろキアナ国は抜けたかな?」
細い獣道から広い道に出て、ネーレウスは一息吐くと、地図を片手に消えかけの轍の跡を眺めた。
「この辺りが国境か?…この道は使われていないようだが…」
エルザは息も切らさずに返事をしながら、呑気に枝の隙間からクテトウの街並みや王都と城、遠くに広がるベコ村の平原を一望した。
遠くに映る風景は長閑であり、これまでの騒動が全て霞んでしまったかのようだった。
「そうだね。…で、ここからはパメドの管轄になる」
「…もう転移を使っても問題ないだろう。流石にここから先は、騎士団にも探知出来ないはずだ」
ネーレウスは言葉を続けた後、地図を仕舞い、パメド国の方を眺めた。
生い茂る緑の先は暗い影に閉ざされ、古い馬車道の向こう側は闇に飲み込まれているようだった。
「そうだな」
一言だけ返し、エルザが頷いた瞬間、二人の間の空間が僅かに歪んだ。
唐突に四肢の感覚が消えたような錯覚に陥ったかと思うと、瞬きをする間もなく、人通りの異様に乏しい街道の端に二人は立っていた。
転移魔法による足元が抜けた感覚よりも先に、冷たい風と奇妙な重い空気に鳥肌が立った。
「うお、久しぶりだと変な感じがするな…」
「…メイヴィスの手紙通りだな。関所…としては形だけ機能しているのか」
独り言を呟きながら、エルザが後ろを振り返ると、遠くには、閉ざされた大きな門が聳えていた。
しかし、そこに立っているはずの兵の一人すら見当たらず、関所を不可解そうな面持ちで眺めた末、更に口を開いた。
「あの“例の煙草の葉”の運搬に使っていそうな道は探さなくて良いのか?」
と、続けると、エルザは門から目を背けて薄暗い街灯に照らされた端正な横顔を見つめた。
「…そこまでは私達の仕事じゃないよ。後は騎士団がやってくれるだろう」
ネーレウスは肩を竦め、街中を観察した。
誰一人として、外を出歩く者はおらず、同じような背格好の建物の窓という窓は全て閉め切られていた。
また、夕闇に浮かび上がる、ざらついた漆喰の壁の白さと、異様に大きな教会の尖塔は街並みとちぐはぐなように見えた。
辺りには風の音しかないように思えたものの、耳を澄ますと遠くからは何かを祈るような、ぼそぼそした声と調子外れの讃美歌が微かに聞こえてきた。
「クテトウも中々だったが…ここもなんだか…気味悪いな」
エルザは不可解そうな面持ちのまま、同じようにきょろきょろと辺りを見渡した。
目に映った街並みの様子は、下手くそな讃美歌以外に生物の気配すらなく、まるでこの土地から住民が全員出払っているように感じられた。
更に注意深く町の様子を窺っていると、あちこちから漂ってくる湿った土と草の匂いに紛れて、甘ったるい臭いが鼻腔を刺激した。
「…この国は信仰が厚い。古い文献も多く残っているはずなんだけど……」
そこまで口にした後、ネーレウスは険しい表情を浮かべて再び日の落ちた風景を一瞥し、苦々しげに溜息を吐いた。
建物の数々は小綺麗で整然と並んでいたが、清廉さというよりもむしろ、肺の奥が苦しくなるような閉塞感を漂わせていた。
「…宿を一旦探そう」
渋い感情を隠すように硬い笑みを浮かべると、ネーレウスは立ち往生するエルザを連れて街道を進んだ。
真っ直ぐに敷かれた石畳に乾いた靴音が響いていき、教会との距離が近付くにつれて、狂った歌声も次第に大きくなっていった。
しかし、いくら歩いても街並みの様子は変わらず、二人は黙りこくったまま顔を見合わせた。
「本当にあるのか?…宿なんて…」
エルザは街道の奥をじっと見つめながらぼやいた。
迫ってくる尖塔の影との距離だけしか変化を示していないように思え、表情には不快感が薄らと滲んでいた。
「…流石にあって欲しいけど…広場や掲示板もこの町、見当たらないね」
ネーレウスは困惑した面持ちで答えた。
「……変な町だ。宗教に厳格な町ってのはこんなもんなのか?」
不安げな表情をよそに、エルザは身体を伸ばすと煙草に火を点けた。
「いや、流石に…」
言葉の途中でネーレウスは突然口を噤み、立ち止まったかと思えば、睫毛を伏せて注意深く讃美歌に耳を傾けた。
「…おかしいな、聞こえてくるこの歌…声が揃っていない」
いつもの凛とした声は僅かに震えていた。
「…下手なだけじゃないのか?」
その意味が伝わらず、エルザは思わずそう訊ねた。
「いや……厳格な国なら、節も文句も揃える。あの老司教やユーリアが聞いたら何事かと思うほどには…今聞こえるものはバラバラだよ」
そう返すと、ネーレウスは足取りを早めていった。
「…あー、なんかヤバいっていうのは分かったな、まあ…」
エルザは煙草を揉み消して、紙に包むと歩調を合わせた。
そのまま二人が真っ直ぐに歩いていくにつれて、変わり映えのしない建物の並びの中に、暗闇に溶けかけた宿屋の看板が視界に入った。
宿屋の前に立つと、閉まり切った窓の向こうから、誰かが祈りを反芻するような小さな独り言が聞こえた。
その響きは讃美歌に合わせているようで、どこか噛み合わず歪さを孕んでいた。
「随分古いな…本当にやってるのか?」
不可解そうに宿屋の看板を二度見した後、エルザが慎重に手を掛けると、扉は軋みながら開いた。
その室内は真っ暗であり、何かが動く様子も、息遣いすらもなかった。
街灯からの光に照らされた、埃の積もったテーブルや床が目に入ると同時に、二人はカビ臭さに咳き込んだ。
「…これは……」
ネーレウスは口籠るように呟いた後、その暗闇から目を逸らせずに立ち竦んだ。
「お化け…?…潰れた宿…?いや鍵くらい閉めるよなあ。それにこの一軒しかぱっと見、宿は無さそうだったが」
エルザは恐怖と困惑が入り混じった面持ちで開口した。
もぬけの殻の室内は、不気味さよりも空虚さが目立っていた。
「…どうだろうね。教会に誰か居るか…確かめに行っても良いとは思うけど」
ネーレウスはそっと首を横に振ると、宿屋の扉を閉めた。
「…そうだな。人は…少なくとも居そうだしな。ベッドの一つや二つ貸してくれるかもしれない」
身震いを抑え、エルザは教会に視線を移した。
再び二人は無機質に整えられた石畳を進んでいったが、相変わらず誰ともすれ違わず、異質な空気は増していくばかりだった。
変わらぬ街並みを進んでいく二人の姿だけが、この街道で動きを持っていた。




