六十七話 完全制圧
扉の先は真っ暗な部屋だった。
奥には衣類の山や木の札が散乱しており、手前には見慣れた道士服とシャツを抱えたまま倒れているネーレウスの姿があった。
細い手首には手枷が付けられており、乱れた黒髪に隠れた身体は半裸のまま寒そうに震えていたものの、暴行の痕跡はなかった。
その様子にエルザは、思わず息を深く吐き、口を開いた。
「…迎えに来たぞ。今助ける」
安堵の声と共に枷の鍵をピッキングする音が響いていった。
しかし、短い金属音の後、拘束が解けて胸を撫で下ろしたのも束の間、ネーレウスは身体を揺さぶられても起きる素振を見せなかった。
「ネーレウス…?」
エルザが不安げに寝顔を確認すると、紅潮した頬や苦しそうに半開きになった口元が見えた。
呼気はあまりにもアルコール臭く、昏睡しているようだった。
「これ、無理矢理飲まされたのか?…大丈夫か?」
まさか本当に下戸だったとは、という考えがふいに脳裏を過る。
雑念を振り切り、腕の中から取り上げたシャツを、肋が僅かに浮くほど華奢な体に羽織らせていると、ようやく閉じていた瞼が開いた。
「エ…ルザ……?ひっく…寝ちゃってた…寒い…あれ…ここどこ…?」
そのたどたどしい言葉を無視して、エルザはなんとか道士服ごとネーレウスを抱き抱えると、痛みも無視して執念で階段を上っていった。
途中、銃撃を受けた腿に鋭い痛みが走り、眉間に皺が寄ると同時に、小さな呻き声が漏れる。
「血が…?その怪我…は?」
ネーレウスは異変に気が付いて、途切れ途切れに訊ねたものの、返事はなく、エルザは階段の先をじっと睨んだまま動かなかった。
視界に映る通路は、既に騒ぎを聞きつけた他の用心棒によって塞がれており、一斉に銃口が並ぶ。
階段の陰に隠すようにネーレウスを座らせて、銃を抜いた直後、怒声が轟いた。
「その男は商品だ!傷をつけるな!」
横暴な声にエルザがすかさず引き金に指を掛け、ネーレウスがゆっくり振り返った瞬間――
敵は銃を構えた姿勢のまま、平衡感覚を失ったかの如く一斉に倒れ、締め付けるような重苦しい魔力の気配が場を支配していった。
「…隠密に……守りたいのに…だめだ…うまくいかない…」
その異様な通路の有様とは裏腹に、ネーレウスはしゃくり続けている。
「いや、今だ。逃げるぞ」
エルザはこの魔力の残滓に強烈な耳鳴りと、足元が不安定になったような錯覚を感じながら、ネーレウスを抱えて逃げ道を必死に探した。
しかし、出口になりそうな扉は見当たらず、強行突破を試みて、足を引き摺って表の出入口を目指した。
そして、脇目もふらずに奇妙なほどに静まり返った乱痴気部屋を抜けた途端、赤と青の瞳は震えた。
無数の客席がある広間では、客も従業員も娼婦も諸共、手足をばたつかせながら床に崩れ落ちていた。
「…は?」
と、訝しんで、静まり返った乱痴気部屋を振り返って確認すると、そこは地獄絵図と化していた。
漂っていた水蒸気が床に沈む中、ある娼婦は嘔吐し、全裸の客が重力の定まらぬまま起き上がろうと藻掻き、倒れたまま動かない給仕の姿もあった。
吸引器の水が沸騰する音だけが異様に大きく聞こえ、煙館そのものが急に店仕舞いをしたかのようにすら見えた。
呆然と立ち尽くしたまま、泥酔した赤ら顔を見ると同時に、今起こった事象が「うまくいかない」という発言と結びつく。
――何が起こった?ネーレウスがやったようだが…“この様相”は一体何なんだ?
まだなお立ち込める悍ましい残滓と、この得体の知れない光景に心臓が早鐘を打った。
しかし、腕の中で上がる呻き声を聞いて我に返ると、エルザは扉からひっそり抜け出して、歩みを進めて行った。
夜は更けきっており、雲がどんより掛かった空はいつになく寒々しく、風の吹く人気のない街道には、足を引き摺る足音としゃっくりだけが響いて行った。
疎らな街灯がすり減った石畳を照らし、細長い影を落としていく。
煙館から宿までは目と鼻の先だったにも関わらず、エルザには道のりが長く感じられた。
負傷しながらも宿に戻って、ネーレウスをベッドに寝かせた途端、その身体はゼンマイが切れたように床に倒れ込んだ。
呼吸の度に肩は上下し、床には銃創から滲む血液が垂れていた。
「…怪我は…?」
その声は不安げであり、呂律がまだ回っていなかった。
ネーレウスは身体をゆっくりと起こし、怪我の具合を見ようとして、壁に頭を思いっきりぶつけた。
酔いはまだ深く残っているばかりか、頭の鈍痛も相まって目は潤んでいた。
「そりゃこっちの台詞だよ。…お前は無事そうだが」
エルザが苦笑いを浮かべながら野次を入れ、裂けた布越しに血塗れになった腿を観察すると、銃弾が掠めた生傷が見えた。
――この程度なら、明日には治っているだろうが。
そう思ったものの、いつだかの死食鬼戦の時のように、ネーレウスが血相を変えて心配する様子を想像して一つ溜息を吐いた。
防具とシャツを脱いでいき、傷を治癒能力で塞ぐまでの間、晒を包帯代わりにしようとしたところで、スプリングが軋む音が耳に入った。
振り向くと、そこには寝床から落ちそうになっている、酔っ払いの姿があった。
「着替え中だぜ。…もう寝てろよ。私は怪我とかないから」
銃創から遠ざけるように、エルザはネーレウスをベッドに寝かしつけた。
「でも…さっき倒れたような…?」
しかし、介抱されても一切食い下がらず、おぼつかない様子で細腕を伸ばして起き上がろうと躍起になっていた。
「あー…気の所為だろう」
押し問答が続いていき、遂に傷口が露になりかけた瞬間、「いいから!」と言いながら、エルザはこの酔っ払いを無理矢理、ベッドに押し倒した。
そして、酒気を孕んだ熱っぽい表情とこの一連の大事故に段々と奇妙な可笑しさを覚え、ついに堪えきれず吹き出した。
かと思えば、華奢な上半身や長い首筋、初めて目にした寝顔が、唐突に胸の内に現れて急に顔が熱くなるのを感じ、慌てて目を逸らした。
「…どうしたの?……ひっく…うぅ…」
くるくる変わる表情を、とろんとした金色の瞳が不思議そうに見つめた。
薔薇色の頬や半開きになった口元が、普段の様子とは打って変わって酷く無防備に見えた。
暫く浮ついた沈黙だけが続き、目のやり場に困ったかのように、エルザは視線を右往左往させた。
「あぁ、いや、うん。なんでもない」
しどろもどろな返事をすることしか、今のエルザには出来なかった。
まだなお、その目を直視する事は出来ず、くすぐったいような気まずいような感情が内心にはあった。
「……ありがとう…助けてくれて…」
そう言って、ネーレウスは寝そべったまま、真っ白な手を優しく握った。
不意に与えられた温かさに、エルザは恥ずかしそうに俯いたまま、指をそっと絡め合わせた。




