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六十三話 ネーレウスの失態

 甘ったるい煙とアルコールが混ざった悪臭が充満する、悪夢めいた酒池肉林としか形容出来ない室内では荒い息遣いと娼婦達の愉悦の声が響いていた。

奥の部屋に足を踏み入れて、目にした光景の所為でネーレウスは余計に具合が悪くなった。

また、無数に仕切られたカーテンの奥からは、はち切れんばかりの肉々しい肌が仄暗い視界の中でちらついた。

 酩酊してすっかり働かなくなった頭の中では、冒険者ギルドで耳にした“昼から裏の煙館で洒落こむか”という言葉が異様に鮮明に蘇ってきた。

その煙館とはまさしく”ここ”であり、売春宿も兼ねていた。

昼間にやっている怪しい店はここしかないのだから。何故もっと早く気付かなかったのか。そんな後悔が過る。


「うふ…一番の特等席が空いてる」


 娼婦はネーレウスの手を引いて、広々とした席へ案内した。

大きな寝台のような、ソファのような、それがどういった用途なのか判別のつかない家具には、柔らかそうなクッションがいくつか置かれていた。


「さ、上着を脱いで…」


 そして、その家具の上に案内するや否や、ネーレウスの道士服を剥ぎ取り、絹のシャツとスラックスだけの姿に変えていった。

すると、内ポケットから地図が一枚落ちた。

 娼婦は首を傾げた後、この家具の脇にあった小さな机にそれを置いた。

しかし、ネーレウスはそれに気が付く様子もなく、虚ろな目で身体を横たえたまま動かない。


「あら、物珍しさで他の娘達も付いてきたみたいね。いいわよねぇ?」


 返事を待たずに娼婦が手招きをすると、露出度の高い格好をした女達が艶めかしい肉体を揺らしながらその席に乱入し、横たわった細い体に蛆のように群がった。

かと思えば、豊かな黒髪や贅肉一つない腰回り、髭一つない輪郭を無数の手が弄び始めた。

 振り払おうにも、すっかり泥酔した身体では抵抗すらままならず、助けを求めて周囲を見回すと、女体の隙間から、カーテンの影に置かれた水煙草の器具が金色の目に映った。


「それだ、それはなんだ?…ひっく」


 呂律の回らない口調で、ネーレウスはどうにか娼婦に訊ねた。

指先は震えながらも、揺れるカーテンで見え隠れするそれを指し示した。

直感だけはまだ働いており、それが流通している薬物の吸引器になっていると告げていた。


「これが例の良いものよ。試してみる?少し気分が良くなるかもね。…それに、私達もやりたいもの」


 その言葉と共に、娼婦は奥の棚から水差しや“乾いた葉”の入った瓶を取り出した。

そして、手際よく準備が続いて行ったところで、声が上がった。


「葉だけ、少し…」


 息も絶え絶えにネーレウスは瓶を掴もうとして手を伸ばしたものの、空中で滑って豊かな二つの果実に触れかけたところで引っ込めた。


「あら?駄目よ。常連さんじゃないと渡せないわ」


 娼婦はそう言って、手を自身の肌に誘導しようとした。

必死に拒もうと身体を縮こまらせているネーレウスのすぐ隣では、他の娼婦が準備を進めていき、吸引器が机の上に置かれた


「さ、あとは給仕に火を貰うだけ…」


 マニキュアの塗られた指先が絹のシャツの胸元に触れた。

ネーレウスは、抵抗すら出来ないまま、釈迦結びの留め具が一つずつ外されていくのを見つめる事しか出来なかった。

されるがままに、脱力しきった長い首と筋張った鎖骨が露になっていった。

娼婦達の目は飢えた獣じみて、今にも理性ごと食い千切りそうな様相だった。

挿絵(By みてみん)


「…やめて…ください…ひっく」


 その声は虫が鳴く程、か細かった。

ネーレウスは肋と僅かな筋肉が浮き出た貧相な上半身を隠しながら、力なく逃げ出そうとしたが、それを嘲るかのように、身体の上に乗った柔らかい感触に阻まれた。


「…ならどうしてここに来たのかしら?私達だってたまには愉しんでいいでしょ?」


 派手な娼婦達が舌なめずりをしながら、最後の尊厳の砦と化していたスラックスに指を伸ばした、その次の瞬間。

節くれ立った指先が艶めかしい肉の間で動き、同時に周囲の空気、魔力は僅かに揺れた。


「それとも、もしかして…初めて?」


娼婦達は迫り、ある者は腕を押さえつけ、またある者はこの突如現れた東洋の美男子を弄ぼうとした。

 ネーレウスはなんとかしてこの場から逃げ出したかった。

――王都側としては恐らく隠密に済ませたい問題であるかもしれないが……

判断が形になる前に思考は崩れていき、”呼び出そうとした術式”が別空間で引っかかったように途切れたような感覚に陥った。

それでもなお、強引に展開を続けたが――術式は誤作動を起こし、三半規管の異変を催したのは自分自身だけとなった。

最後の抵抗は虚しくも、泥酔に追い打ちを掛けた。


「…駄目か……」


 どうにか絞り出した「…趣味じゃない」という声すらも、娼婦達は聞き入れずに、接待が始まろうとしていった。

朦朧とした意識の中、ネーレウスは水煙草に火をくべに来た給仕に、視線だけで助けを送った。


「何かお困りでしょうか?チェンジですか?」


 机の上に置かれた地図を一瞥した後、半裸状態で助けを求める憐れな東洋の魔術師の姿を、ニタつきながら給仕は見つめた。


「…そろそろ店を出ないと……」


 帰ると伝えた時間をとうに過ぎているように感じ、ネーレウスは焦燥した面持ちで訊ねると、ようやく手を止めた娼婦達の間から、シャツと道士服を引っ張り出して、腕に抱えたまま項垂れた。

虚ろな目はまだ、酒気を孕み、耳や首元が茹蛸のように真っ赤だった。


「もう少し、休んでいかれては?非常に体調が悪そうに見える」


 給仕はそう勧めながらも、目が離れている隙に机の上にあった地図を拾って懐に仕舞い込んだ。


「…待っている人が居るので……」


 しゃっくりと嗚咽交じりの返事をしながら、ネーレウスは息も絶え絶えに立ち上がろうとしたが、脚に力が入らず尻餅をついた。


「それでしたら、なおさら酔いが醒めてからの方が…この辺りは物騒ですので。ささ、こちらです」


 給仕は手を差し伸べ、別室に案内し始めた。

何も分からぬままに、ネーレウスはこの乱痴気部屋を後にして、地下への階段を下りた。

辿り着いた先には、灯り一つない奇妙な部屋があり、足取りおぼつかないまま、中に入ったかと思うと、紐が切れた人形のように半裸の身体が倒れ込んだ。


「それでは…どうぞごゆっくり」


 給仕はほくそ笑んだ顔のまま、懐から坑道の地図を取り出してヒラヒラさせた。

ネーレウスはそれに気が付かず、目を閉じたまま、肩で息をした。


「諜報員よりも、貴方にはふさわしい仕事がありますよ」


 その言葉と共に扉が閉まり、鍵が施錠される音がした。

後を追おうと、ネーレウスは起き上がったものの、足元は酔いでぐらつき、もう一度転んだ。

 失態を犯した。そう気付いた頃には既に時は遅かった。

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