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六十二話 いかがわしい店と下戸

 エルザが目を覚ますと、埃っぽい天井と薄汚れた壁が視界に入り、胸元には薄っぺらい毛布が被せられていた。

身に付けられたままの装備一式と、窓から差し込む霞んだ陽光はここが夢ではない事を伝え、崩落の後、宿屋で借りていた一室に帰還した、という事実だけを示していた。

 ――あのぬめついた物体はなんだったんだろう?そして、どうやって抜けたんだ?

そう思い、起き上がったところで、床に座り込んでいたネーレウスが心配そうな表情を浮かべて近付いてきた。


「起きたんだね、怪我とか具合はどう?」


 その声はまだどこか不安げだったが、眼差しは徐々に安堵の色を帯びていった。


「特に…なんともないが…崩落は?閉じ込められてたよな?とりあえず、お前も無事で良かったが…あのぬめついた生臭い奴は一体…」


 数々の疑問は留まる事を知らず、エルザは矢継ぎ早に訊ねた。


「転移魔法で脱出できたんだ。あと、ぬめついたのは…敵ではないよ」

「…いずれ何だったのか分かるよ」


 静かに答えた後、ネーレウスは思案した様子で睫毛を伏せた。

エルザはその面持ちに違和感を覚えて問い詰めようとしたが、話は続いていく。


「それにしても怪我がなくて良かった。…さて、これから私は少しの間、また調査に出るとするよ。夜には帰るから」


 ネーレウスの言葉は何かを誤魔化しているようだった。

暫くの間、お互いに言葉を選び合い、沈黙した。


「…どこに行くんだ、また坑道か?」


 “ぬめついた物体の正体”についての言及が喉元まで出かかったが、触れてはいけない話題のように思え、エルザは口を噤んだ。


「まあ…うん、そんなところだね。君はここで待っていた方が良い、…町から少しいかがわしい臭いがする」

「昼ご飯はそこにある買ってきたやつを食べてね」


 エルザが口を開く前にそう伝えると、ネーレウスは借りている客室から出ていった。


「なんだ?…確かにあの鉱山は崩落が危なかったが…まあいいか」


 返事は誰の耳にも届かず、扉が軋んだ音を立てて閉まった。

室内には、扉と食料が入った紙袋を見つめながら困惑するエルザだけが取り残され、薄い壁の向こうから小さくなっていく足音が聞こえた。


 ネーレウスの向かった先は件の鉄鉱山ではなく、クテトウ町の寂れた裏通りだった。

宿屋の外は山からの冷たい風が吹きすさび、すり減った石畳を往く人影は相変わらず少なかった。

足取りを進める中、目的地である煙館についての憶測が浮かんでいく。

 ――町の人間が立ち寄りやすい場所。しかし、大っぴらになっているならもっと早く目についているはず。

あるいは、ギルドで聞いた通りに受け取って、建物の裏手にあるのか。

 鉱山で見つかった“国外への抜け穴を示す地図”と“乾いた葉”

そして民間への流通を裏付ける証拠や、元締めへの糸口が、耳に挟んだ“裏の煙館”に存在すると、内心で確信を持っていたのだった。


 足の向くままに、ネーレウスは冒険者ギルド付近の裏路地を確かめていったが、それらしい建物は無く、そのまま直進していくと、寂れた歓楽街のような通りに出た。

並ぶ店の数々は色褪せて草臥れていたものの、外観の作りがかつての煌びやかだった面影を感じさせた。

その街並みにきな臭さを感じながら観察を続けている内に、閉まった飲み屋の中から営業している店が視界に入った。

向かっていくや否や、看板を確かめるとそこはカフェのようだったが、建物からはそれらしい様子は窺えない。

ネーレウスは僅かに訝しんだものの、煙館の手掛かりを求めて、扉を開けた。

 ベルが小さく鳴ったその瞬間、目に映る光景に目を背けた。

最低限の灯りの下、身体が透ける程に薄いレースの衣装を纏った女達が、ソファの上で豊満な体躯を強調してくつろぐ姿や、男の膝の上で尻肉を揺らしながら談笑する姿があった。

「エルザを待たせておいて本当に良かった」そう思いながらも、状況が理解出来ずに立ち往生していると、すぐ傍から声が掛かった。


「いらっしゃいませ。当館は初めてのご利用でしょうか?」


 振り向いた先には、薄ら笑いを浮かべる給仕が立っていた。

奥からは件の甘ったるい臭いが鼻を突き、少し考えた後、ネーレウスは頷いた。


「お好みなどございますか?」


 給仕は、大きなソファと酒類が並んだ小さなテーブルがある席まで案内して、そっと尋ねた。


「好み…?えっとそうですね…お茶とかあると嬉しいんですが」


 腰掛けた途端、女達の劣情の籠った視線を感じ、ネーレウスは気まずそうに俯いたまま答えた。


「お茶?…あぁ、そういう事でしたか。お飲み物はこちらからご自由にどうぞ」


 噛み合わない会話に思わず聞き返したが、この誤解に下卑た笑いを給仕は浮かべ、卓上のワインやブランデーを飲むように促した。


「それではごゆっくりお楽しみ下さい」


給仕と入れ替わるように、近付いてくるハイヒールの足音が耳に入ったかと思うと、その隣に豊満な女が座ってきた。

 ネーレウスが給仕の言葉の意味と、ここが娼館である事をようやく理解した時には既に遅く、慣れない場に紅潮していた顔はますます強張った。


「…初めましてぇ、お兄さんは旅の人?」


娼婦は胸元を見せびらかしながらお酌を始めた。

透けたレースの下には何も纏っておらず、肌が鮮明に見えた。


「えぇ、旅の…魔術師です」


 どうにか、ネーレウスは隣の娼婦を視界に入れないようにしつつ、当たり障りのない返しをした。

そのまま煙館のヒントを探るために聞き耳を立てていると、陰口が聞こえて来た。


「…あの男、エルフか?金持ってそうな身なりしてんなあ。女なんて喰い放題だろ、あれだけ上玉なら」

「俺達なんてボロい商売で小金をなんとか積んでるのに。ああいう新参は分からせねぇとなあ」


そして、娼婦を膝に乗せている鉱夫崩れの男達と目が合いそうになり、視線を逸らして溜息を吐くと、奥から漂ってくる甘ったるい臭いに注意を向けた。


「…あの、この匂いは?何かの香か薬草でしょうか?」


 目のやり場に困り果て、遂には床を見ながらネーレウスは訊ねた。

周りを取り囲む状況は悪化しており、前からは鉱夫崩れからの悪辣な眼差し、横には全裸のような恰好の娼婦という、何もかもがままならない状態だった。


「薬草や香なんかよりも、ずっと愉快で良いものよ。…良い雰囲気になったら一緒にやりましょ。さ、飲んで」


 娼婦は注いだ酒を飲むように促すと、身を乗り出して、肉付きの良い太腿を服越しに絡ませようとした。


「私は…アルコールが実は苦手でしてね。さ、君に全部上げます」


 触れそうになる脚から、逃げるように距離を取り、ネーレウスは酒の入ったグラスを娼婦の方に押しやった。

一瞬、この衣装をエルザが着たらどんな感じだろうか等という、煙館とは全く関係のない情景が浮かび、この空想に説明のし難い感情を抱いたものの、それはよくないと思い、床を眺めて邪念を振り払った。


「あら?一人で飲ませるなんて…一緒に楽しんで下さらないの?」


 胸や脚を艶めかしく強調しながら、娼婦はなおも詰め寄ってくる。

気が付けばグラスが二つ出ており、片方は既に半分ほど減っていた。

一対の豊かな膨らみと熱を孕んだ吐息が、ソファの隅で縮こまったまま固まっているネーレウスに迫る。


「…本当に、私はいいですから」


 一切の欲情すら感じられない、静かな返事の裏では激しい葛藤がせめぎ合っていた。

――恐らくこの店の奥に煙館か、もしくは件の葉に関連する施設があり、このままなら直接入れるかもしれないけれど、ここまで分かっているのならば、もう帰っても良いのではないか?

しかし、ここで決定的な証拠を逃すのは、流通元の手掛かりを取り逃がす事と同じだ。…何とか酒を飲まずに切り抜けられないだろうか。

そこまで考えたところで、冷たいグラスの縁が唇に当たった。

 娼婦が口元まで酒を持ってきていたのだった。

口に流れ込んだ液体を反射的にネーレウスは飲み込んで、咽せた。


「…なにをする……これ…度数が……ひっく」


 次の瞬間、頭はぐるぐる回り出し、頬が勢いよく熱くなった。

急激に体調の悪化していく中、ネーレウスが何かを訊ねようとしたところで、目の前がチカチカし始め、身体から重力の感覚が失われていった。

そのまま娼婦に頬や首筋を触れられている事すら気付かず、瞼が閉じられようとしていく。


「真っ赤になって…可愛いわぁ。そのブランデー、まだ一口しか飲んでないのに…少し奥で休みましょうか?」


 濃い口紅が引かれた口元には淫靡な微笑みが浮かんでいた。ふらついて立ち上がれなくなったネーレウスの手を引いて、娼婦はそのまま奥の部屋に向かっていった。

その行先からは鼻腔に留まるような甘ったるい臭いが漂っていた。

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