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五十五話 拗ねる男と政治の裏側

 日も暮れて、カーテンが閉め切られた客室には、衣類が詰まった紙袋がソファの脇にあった。

別邸に戻ってから、二人の会話が始まる様子はまだなかった。

ベッドの上からネーレウスは、落ち着きなく結われたシニヨンをつついたり、髪飾りをいじくり回したりするエルザの様子を眺めていた。

シャンデリアの下で、リボンのあしらわれた銀色のお団子頭が均質な光を反射している。

 帰ってきてから、卓上の軽食や新しいワインに手が付けられておらず、エルザがこの髪型にすっかり夢中になっている事が窺えた。


「…この…紙袋に入った服は?」


 ようやくネーレウスは口を開き、そっとエルザに近付いたが、無意識の内に髪飾りに伸びそうになった自身の手に気が付いて、引っ込めた。


「なんか知らんが買ってもらった。出世払いだってさ」


 その髪飾りに伸びかけた手にも気付かず、返ってきた声は未だに夢見心地のままであった。

遂にエルザはソファから立ち上がると、そのまま駆けていき、洗面台で髪を観察した。

視界に映る今の容貌は相変わらず別人のように見えて、まだなおこそばゆく感じながらも、脳裏には昼間見かけたあの東洋風のワンピースの事が過った。


「…まあ、汚したりボロボロにしそうだし普段は仕舞っておくか…」


この髪型にあのワンピースが似合いそうだ、という一抹の考えを捨て、エルザは髪を解こうとする。


「…今日だけは付けておいたら?」


 どこか浮き立つような素振で、はしゃぐ姿を見て、ネーレウスは形容し難い心のざわつきを覚えるも、返事を絞り出した。

僅かな溜息と道士服を脱ぐ衣擦れの音、それからベッドの軋む音が続く。


「…なんだ?事情聴取が長引いて疲れたのか?」


 エルザは隣のベッドに腰掛けて、仏頂面な横顔を不思議そうに見つめた。


「まあ、そうだね、うん。そういう事にしておこう」

「…似合ってると思うよ」


 どうにか言葉を続けると、ネーレウスはそっぽを向いた。

視界に映っていた銀色の髪が少しだけ遠ざかったように思え、その内心にささくれが出来ていたのだった。


「…変な奴」


 拗ねた様子のネーレウスを不可解そうに見つめ、小首を傾げた末、エルザは違和感を無視して卓上の軽食を食べ始めた。

そのまま咀嚼音は続いていき、ワインを一瓶空けたところで唐突にノックの音が響いた。

そして、外鍵の金属音と扉が軋む音の後、廊下から女中がワゴンを持って現れた。


「失礼します。夕食のお時間になりましたが…部屋食になさいますか?来賓用の食堂もございまして、今でしたらギルバート少佐とそのご息女もいらっしゃるかと…」


 女中は部屋に入らずに一礼すると、夕食について二人に訊ねた。


「いや、食堂は結構だよ」


 女中の声に、ネーレウスが起き上がって首を横に振った。


「承知しました。勇者様はどうされますか?」


 食事が乗ったワゴンを室内に運び入れた後、女中はエルザの方を向いた。


「んー…どっちも食べたいなあ…」


 瓶から直接ワインを飲みながら、エルザは皿から立ち昇る香草と肉の匂いに顔を綻ばせた。

しかし、それと同時に、食堂へ行けばメイヴィスに髪の結い方を聞けるとも思い、胸中ではくすぐったい感情が再び燻った。


「…君もここに居たら?例の依頼についても話したいし」


 ネーレウスはソファに移動し、女中の方を見やると夕食を並べるように促した。


「あぁ、あれか。…まあいいか」


 エルザはネーレウスの声にどこか湿り気を感じたが、例の依頼を思い出し、意識をメイヴィスからクテトウ町の調査に向けた。

ソファに挟まれたテーブルからは、軽食が片付けられていき、切り分けられた肉が乗った皿や、冷えた前菜、新しいワインが所狭しと置かれていく。


「配膳ありがとう。すまないが、少し仕事の話をしたいもので…席を外してもらえると…」


 ネーレウスは女中にチップを渡すと、扉の方に視線を送った。


「かしこまりました。では、どうぞごゆっくり…」


 女中は掌の中の小さな金貨に一瞬だけ視線を落とした後、静かに一礼し、ワゴンを置いたまま客室から去っていった。

エルザはその後ろ姿を眺めながら、皿の上の肉を頬張り始めた。

 食器の音のぶつかる音だけが響いていき、食事の度に揺れる髪留めをネーレウスはただじっと見つめた。


「どうしたんだ?女中まで下げて…」


 視線に気付いたエルザは口をもごもごさせたまま、顔を上げた。


「…どうやらこの件、王都では大っぴらに出来ないみたいなんだよね。それに…君、食後にはどうせ眠くなっちゃうでしょ?」


 ネーレウスはワゴンから炭酸水を引っ張り出すとグラスに注いで飲み始めた。


「いや、そんなことはないが…」


 口の端にソースを付けたまま、エルザは僅かに眉間を寄せた。

膝の上に抱えられた皿からは順調に香草漬けの肉が減りつつあった。


「…君は依頼についてどこまで聞いた?…後から入ってきたギルバート少佐が君にも伝えた…と言っていたんだけど」


 否定の声を無視して、ネーレウスは話を続けていった。


「あーえっとその…なんだ?鉄の町で奇病がうんぬんかんぬん…っていうのは覚えてるな」


 エルザは肉が残った皿をテーブルに戻すと、パンを一切れ取ってソースに浸した。


「なるほど…ね」

「少し奇妙な点が多いとは思わないかい?…私が聞いた限りでは、魔物の襲撃による被害者は若者や子供ばかりだそうだよ」

「そして、その関連性について調べろと。王都から見ても、若年層だけが襲われるのは不可解なんだろう。しかし、騎士団の調査だけではここまでしか分からない、と」


 溜息を吐いた後、ネーレウスは食事に手を付けずに、言葉を続けていく。


「…これは私の直感だけど…人身売買の臭いがする。ただ、矛盾もあって…場所は鉄鉱山の町。普通なら、若い人間を手放したくないと思うんだ」

「恐らく…政治が絡んでいる。そこに調査が進まない理由があると思っていい」


 ネーレウスはそう言い終えると、ようやく皿に目を向けて、冷めた肉を一枚口に運んだ。

なお、肉は半分以上がエルザによって食べ尽くされていた。


「政治?」


 エルザはパンを咀嚼しながら首を傾げており、フォークで肉を刺したままの片手は微動だにしていない。


「派閥が絡んでいるんだろう。ギルバート少佐と敵対している人達の、ね」

「そしてその派閥が…邪魔をしている。政治的に見ても…旅の勇者一行がたまたま問題を解決した、という事になった方が角が立たない」


 ひっそりと声を抑えてそう伝えると、ネーレウスは肩を竦め、また一口、香草漬けの肉を食べた。


「うーん…?なんだか複雑だな…。人身売買をせざるを得ない状況を作らされている…ってことか?それに、こんなん外の人間に頼むなよ」

「…にしても、そんなのすぐに公になりそうなもんだが…しかも奇病まで流行ってるんだろ?…余所者を出向かせるって事は伝染病では無さそうだが…」


 エルザの抗議の声が上がるも、怒りの色はなく、むしろ困惑したような口調だった。


「…だからこそ、建前上は込み入った調査は難しいんだと思うよ。ねぇ、エルザ…」


 ネーレウスの言葉はそこで途切れ、その脳裏では陰謀論めいた論理が展開されていった。

――バネッサ司教が近頃きな臭いと言っていたが…誰かが鉄目当てでこの国への侵略を企てていて、兵力を削る為に死食鬼を投下したのではないか。では、この“流行の奇病”は?。

深く考える間もなく、彼の視線は現実逃避めいた挙動でエルザの髪飾りに向かった。


「ネーレウス?」


 訝しむような様子で、エルザは金色の瞳を見つめた。

なお、口元はまだ肉やパンを咀嚼している。


「…あぁ、なんでもないよ。そろそろ食器を下げてもらおうか」


 そう言って、立ち上がったネーレウスが、入口の近くの呼び鈴を鳴らすと、女中が再び室内に入ってきた。

「失礼します」という声の後、散らかっていたテーブルでは食器がぶつかる音が小さく響いた。

「…あぁ、そうだ。明日の午前中からクテトウ町に向かいたいのですが」


 その声に、空になった食器を下げていた女中の手が止まった。


「クテトウに?…かしこまりました。馬車の方、手配をさせていただきます」


 女中はテーブルに新しく軽食代わりの果物やパンが乗った籠を置くと、一礼した。


「えー、なんだよ。もう少しゆっくりでもいいだろ…って馬車?二人だけだし、転移魔法とかで行けるんじゃないのか?」


 むくれながらソファに寝そべり、名残惜しそうに天井を眺めるも、違和感に気が付き、エルザは起き上がる。

記憶を辿る中で、前にネーレウスが転移魔法を使っていた事を思い出したのだった。


「クテトウ町の転移魔法用のアクセスポイントは、どうやら今は壊れていて封鎖されている…と少佐から聞いたよ」


 ネーレウスは淡々と述べた後、脚を組み直した。


「ん?アクセスポイントってのが…転移には本来は必要なのか?」


 エルザはまだどこか腑に落ちない様子で再び体を横たえると、彼が転移魔法を使っていた時の記憶を反芻した。

――果たして、彼はアクセスポイントとやらを使っていたのだろうか?


「うん、まあ…そうだね。基本的には」


 どこか誤魔化すような様子で、ネーレウスはソファに腰掛けたまま視線を逸らした。

その目には、一言、二言程度の挨拶を述べて去っていく女中の姿が映っていた。

 そして、扉が閉まり施錠される音が室内には落ちた。

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