五十話 接待と怪しい手紙
辺りは静まり返っており、外からは足音一つ聞こえてこなかったが、時折瓶の当たる小気味良い音が聞こえてきていた。
ネーレウスは気が紛れず、目的の読めない王都への不信感を募らせたまま、酒盛りに勤しむエルザをベッドの上からぼんやりと見つめていた。
軽食は酒の進む速さに合わせて減っていき、林檎の芯やら、切り出されたままのサラミが皿の上で転がっている。
「こんなに美味いのに飲めないの勿体ないよなあ」
封が開いたばかりの酒瓶をみるみる空にしていき、エルザは次の瓶に直接口を付けた。
「そうかな?見てるだけで満足だよ」
ネーレウスはその様子を遠巻きにしつつ、内心ではその健啖さに微かな敬意すら持ち始めていた。
ワインを一本、二本と空けてもなお、顔色の変わる素振はなく、彼女の飲み食いの勢いは豪胆そのものだった。
部屋に充満するアルコール臭に、彼がそろそろ酔っ払いそうになったところで、エルザはソファにそのまま横たわった。
「あぁ、寝る前にちゃんとお風呂に入るの忘れないようにね」
うたた寝しかけるエルザに苦笑いしながら、ベッドから起き上がったネーレウスは浴室の扉を開けて、灯りを点けた。
まるで親のような彼の声と扉から流れ込む冷たい空気に、彼女の瞼が開いた。
「あー、そうだったな」
満腹と飲酒による満足感ですっかり重くなった胴体を上げると、エルザは渋々浴室に入った。
浴室にはシャワーや白磁の大きなバスタブが鎮座し、大理石の洗面台に並ぶ色とりどりの小瓶や小物の数々が艶めいている。
換気の為の窓にはカーテンが掛かっており、壁と天井に取り付けられたランタンが浴室を心地よい明るさにしていた。
「うわ…豪華だなあ」
エルザは眩しい浴室に溜息を洩らした後、手に取った小瓶の数々を物珍しそうに眺めたり、匂いを嗅いだりした。
一通り、その香しい中身を確認した後、瓶の横にひっそりと置かれた籠へ目を移した。
「なんだこれ?」
中には薔薇や布袋に入った薬草が所狭しと詰められていた。
好奇心の赴くままに籠の中身に鼻を近付けると、芳香の刺激に咳き込み、涙目になりながらエルザは顔を上げた。
彼女の視界に、乾いた血で汚れた自身の髪や服、筋張った身体が映った途端、昂ぶっていた心は一気に現実に引き戻された。
慌てたように自身の防具や衣類に手を掛けていき、衣擦れの音と共に、鏡の前には一糸も纏わぬ真っ白な肌が現れた。
彼女は治癒魔法で完治した“死食鬼戦での傷痕”を、鏡に映る白い皮膚から無意識の内に探してしまっていたが、脱ぎ散らかした衣類に視線を移した。
「着替え…欲しいな」
エルザはそうぼやきながら、近くにあった桶の中に水を汲んで、衣類を沈め、シャワーを浴び始めた。
足元には濁った湯が流れ、石鹸と血が混じった臭いと湯気が充満していく。
水音は続き、次第に生々しい臭いは消えていった。
自身の身体を整え終えると、エルザは漬けていた衣類を濯いで絞り切り、隅にあったタオルラックの空いている箇所に干した。
それから、見慣れぬ豪華な浴室をもう一度眺めた後、ふと、あの籠の中身を何に使うのか考えた。
「あ、湯船に入れるのか、あれ」
閃いた瞬間、彼女の手は籠の中身と蛇口に手が伸びていた。
エルザには自身の心音が大きく聞こえ、花を手に取ったのは不相応ではないかという考えが過った。
バスタブに湯が溜まっていくのを眺めながら、踏ん切りが付かない様子でその場を動けずにいたものの、尻込みした感情を仕舞い込んで、そっとエルザはお湯に浸かった。
そして、至極大事そうに握っていた薔薇から手を離すと、湯気の甘い香りに鼻をくすぐられながら、湯に浮かぶ花をつついて遊び始めた。
その最中に、何かを思いついたかのように彼女は一輪の薔薇を銀髪に飾ると、真横にある洗面台の鏡を見た。
「…あんまりしっくりこないな」
視界に映った風貌がちんちくりんのように彼女には思え、薔薇を湯に戻した後、溜息を一つ吐いた。
すると、ノックの音が彼女の耳に入る。
「エルザ、大丈夫?のぼせてない?」
長湯を心配したネーレウスの声はエルザが我に返えるのに充分なものだった。
「平気だ」
一言だけ返事をすると、エルザは急いで温かい風呂から上がり、タオルで身体を拭き始めた。
そして、まだ濡れている服をちらりと見た後、彼女は観念した表情を浮かべ、バスタオルを身体に巻くと浴室から出た。
浴室の外では落ち着かない様子のネーレウスがソファに座っていた。
腰を掛けたまま、湯上りのエルザに声を掛けようとしたものの、目の前に現れたタオル一枚の姿に一瞬息が詰まり、反射的に顔を逸らした。
その居た堪れない空気感に、気まずそうな笑い声を上げると、ネーレウスは極力彼女を見ないようにして、ベッドから持ってきた毛布を渡した。
「本当に君は…。そんな恰好で出るんじゃない。何か着るものはなかったの?」
静かな注意が落ちた。
なお、エルザから背は向けており、絶対に視界に入れないという固い意思がその彼の姿から滲み出ている。
「だって…服汚いし…その…」
彼がどんな顔をしているのか、確かめる勇気もなく、貰った毛布を被ってエルザはベッドに腰掛けた。
その言葉を聞くや否や、ネーレウスは浴室にあった濡れた服を回収した。
「はい、これ。私が風呂に入っている間にちゃんと着ておくんだよ」
少しの間も開けずに服が彼女の手元に戻ってきた時、それらは既に乾いていた。
彼は視界の端に映る、毛布に包まったエルザを見ないようにどうにか努めた。
「乾かしてくれたのか?…お前の魔法って…なんか無駄に生活力高いよな…」
この返事に微かに笑うと、「少し待っててね」とだけ言い残し、ネーレウスは浴室に入っていった。
扉の閉まる音が聞こえた後、清潔になった服を着てエルザはベッドの上で丸くなった。
彼女の耳に入る浴室からの小さな水音が眠気を誘う。
「エルザ、ちゃんと着替えあったよ」
暫くして、ガウンを着たネーレウスが片手にエルザの分の着替えも持って浴室から出てきた。
しかし、返事は無く、そのままベッドを覗くと、穏やかな寝顔が目に入った。
「…寝てるのか」
ネーレウスは真っ白な顔を暫く眺めた後、エルザに毛布を掛け直し、ガウンを浴室に戻した。
そして、ふと、部屋の扉の方を見やると、封蝋の施された手紙が挟まっている事に気付き、内容を確認する。
「本日は長旅の中お越し頂きありがとうございます。
明朝十時頃、係の者が参ります。
変異個体討伐に関する詳細について、勇者様及び、同行の魔術師殿よりお話を伺いたく存じます。
なお、それまでは別邸にてご静養下さい
ラオサ監査局 連絡役」
その手紙は先程までは確かに無く、急遽差し入れられた事が窺えた。
中身を読んだ後、金色の瞳は細められ、形の良い口角が僅かに上がった。
手紙は内密に差し出されていたが、赤い封蝋の紋章は王都の公式のものであることを示していた。
「…どうやら、中々切羽詰まった事情がありそうだ。一体あの司教は私について王都になんて説明したんだか…」
ネーレウスはそう言いながら、手紙を仕舞うと、エルザのベッドの天蓋を閉じた。
室内には彼女の寝息が静かに落ちていった。




