四十六話 *チュドーン!*
ベコ村の隣、キアキの町では、人が居るにも関わらず、声だけが存在していなかった。
辺りには数々の建物があり、いくつか倒壊しかけていたものの、まだ栄えた町としての姿は保たれていた。
しかし、その様子は異常事態そのものだった。
石畳に残る血痕と咀嚼音が、不可視の怪物の存在を知らしめており、また、警備に回る騎士団の戦士達や派遣の魔術師達が武器を携えながら、息を潜めて辺りを包囲している。
彼らは何もない場所を注視しており、誰一人として、乱入者が居る事に気付いていない。
ベコ村から物資を受け取って再度調査に向かう騎士団の中に、どさくさに紛れて一人の侵入者が忍び込んでいたのだった。
エルザは罠が入った麻袋を背負ったまま、死食鬼の襲来した様子を見渡すと思案した。
――思ったよりは楽に来れたが、死食鬼は居るのか?
気の抜けた声が上がり、馬車での移動によって凝り固まった身体が伸びる。
死食鬼戦のリベンジをしたい、その一心だけで彼女はこの場に現れたのだった。
なおも物陰から観察いると、彼女の視界には、建物の陰に見え隠れする“宙に浮いたまま滴り落ちる血”が映る。
その挙動をじっとエルザは注視しつつ、罠を設置しようとしたところで、背後から低い声が落ちた。
「なんだ?おい、そこの白髪頭の女。ここは危ないから入るなよ」
警告は騎士団のものだった。
鎧から覗く顔には疲弊と不信感が滲み、夜通し見張りをしていた事が窺える。
「あー、その、あれだ。バネッサ司教の推薦で来た勇者だ」
いとも平然とエルザは嘘を吐いた。
その発言に少し訝しみながらも、戦闘員だと知った騎士団の戦士は僅かに表情を和らげる。
「勇者様?…そういった話は教会での朝の謁見で来ていないような…まあいい」
「見てくれよこの惨状。てっきり魔王の仕業だと思っていたが、司教様は違うと。今、教会まで援護を求めに向かっている者も居るが…それまで囲い込めるかどうか…」
突如、甲高い悲鳴と何かをかみ砕くような濁った音が響く。
音の出所を探ると、遠くで腹部から宙釣りになった魔術師らしき女が血を流して四肢を震えさせていた。
そして、魔術師の女を救護する為に切りかかるも、吹っ飛ばされる屈強な戦士達の姿がある。
また、間髪入れずに物陰から詠唱の声が聞こえたかと思えば、遠くから不可視の怪物に向かって閃光が走り、宙吊りになっていた魔術師はようやく地面に放り出された。
騎士団はかなり強固に編成されていたものの、攻撃は躱され、死食鬼には無意味だった。
その光景を横目に、エルザは急いで地雷を設置し始める。
規則正しく敷き詰められていた石畳に短剣が差さったかと思えば、テコの原理により引き剝がされ、次に下の砂利が穿り出されていく。
そしてそこにブリキ缶で作った手製の罠を設置すると、慎重に石畳を直していき、また別の場所まで物音を立てずに移動して同じ事が繰り返される。
「おい、何をしている?これは…罠か?」
手慣れた様子で何回も繰り出される工程に騎士団は狼狽えた。
鎧の下の顔は、眉間に皺が寄ったまま、石畳の上を観察していた。
「上手く行くか知らねぇけどな。退け」
質問と共に近付こうとした騎士団をエルザは追い払う。
この異変に気付き、包囲していた他の騎士団員が集まりかけたところで、誰かが一歩踏み出した。
もう一歩進み、軍装に包まれた足が地に着きかけた次の瞬間――銃口が向いた。
「全員ここから去れ。五体満足で帰りたければな」
屈強な男たちが口を開く前に、銃声が轟いた。
それは死食鬼の注意を引く為の物だった。
瞬きが落ちる前に、歪な声と共に宙に浮いた血痕と真っ赤な口は足音を轟かせ、筒音の方に駆けていった。
赤と青のオッドアイが罠の位置と動線を一瞬確認したその時、爪による斬撃が銀髪を掠める。
素早く身を躱すと同時に、僅かな手掛かりに向けて銃撃が向く。
「…ぁあ!お前…あの時の…!」
濁った声と共に不可視の足が石畳を踏み抜いた刹那、爆風が走り、それと共に外套を翻す影が建物の屋根へ跳んだ。
屋根の下では騎士団がどよめき、立ち込める煙を窺うも、低い悲鳴が響いた。
その晴れた靄から、鎧ごと食い千切られた戦士と、血塗れになった狼のような怪物の姿が現れる。
金色の爆発と湿った魔力は確かに作動し、死食鬼を捉えていたものの、巨体は爆心から僅かに逸れていた。
「…クク……!面白い!!あの変な男の魔力か!」
「俺は今、心底腹が減っている…邪魔だ」
死食鬼の声に息を呑むも、屋根から飛び降りたエルザは歪な体躯を睨む。
「おかしい…前見た時と違う…?」
オッドアイは見開かれ、疑問の声が上がる。
視界の中の死食鬼の体躯は数日前に見た時よりも肥大し、胴と脚が金属で覆われていた。
「それがなんだ?」
その声が落ちた時、照準が反応するよりも早く、間合いは詰められた。
首を絞められるように捕まれたエルザは歯を食い縛りながらも、引き金を引く。
魔弾が装填されたリボルバーを右手に持ち替え、魔法陣が展開されるや否や、眩い光が走る。
しかし、銃身は力づくで逸らされ、弾道は逸れていた。
「銃は無駄だ。残念だったな」
死食鬼は細首に爪を食い込ませて掴んだまま、牙を剝き出しにして唸った。
首筋から滲み出た血液がシャツや銀髪を汚していく。
革の軽鎧ごと腹部が引き裂かれたコンマ秒後、真っ赤に染まった獣染みた顎の下は蹴りによって衝撃を受けた。
そして、彼女の体躯が緩んだ手から逃れたと同時に、上空から閃光が走る。
それは魔弾ではなく、魔術師の詠唱によるものだった。
怒号が飛び交う中、高い塔の一部が崩壊し、バラバラと瓦礫が落ちる。
エルザは残骸の落下地点を見ると、死食鬼を誘導するように一気に駆けていった。
彼女の脚が罠の設置点を一歩大きく避けた次の瞬間、瓦礫による衝撃が爆発を起こす。
僅かな間を置いて立ち込める煙の中、死食鬼の姿は見当たらない。
「…クソが、どこに行った?上か?」
エルザの呟きに被さるように、騎士団の男の怒声が飛ぶ。
「この罠はなんだ!?」
「…さあな。当たらないのなら、当たるようにすればいい」
その返答は今度は上からの醜い笑い声に遮られる。
罠を理解した死食鬼は降りず、崩れかけた屋根の上から爆風で焼け爛れた狼頭を覗かせていた。
牙を鳴らしながら嘲笑を浴びせるも、顔貌からはダメージを負っている事は明瞭だった。
「動くな。罠は残り一ヶ所だが…人間なら…どうなるか分かるだろう?」
追い打ちを掛けようとする騎士団に向かってエルザは制止すると、屋根に飛び乗った。
その刹那、銃声と斬撃が空を斬る。
隣の建物に飛び乗った影を追い、飢えた怪物はなおも執拗に喉笛を狙っていた。
その一瞬の隙に。
「今だ!!絶対に外すな!!」
屈強な男の声に続いて、無数の輝く矢のような攻撃魔法が放たれるも、それらは悉く躱されていた。
死食鬼の身体の代わりに屋根諸共、瓦解させていき、路地には瓦礫の砂埃が上がった。
眩い光に紛れて、道を挟んだ別の建物に人影が飛び移った後、舌打ちが小さく響く。
「余計な真似を…」
苦々しい台詞は背後を狙う斬撃によって途切れた。
外套に覆われた背から吹き出す血を気にも留めずにエルザは持ち替えた散弾銃を構える。
間合いを取りながらも、彼女の脳裏では思考が走っていた。
――下には騎士団。屋根の上にこのまま居ても悶着が続くだけだ。
なら、私が囮になってあのホワイトカラーの連中に魔法を撃たせるか?…避けられて被害が広がるだけだ。ならば、最後の一つの罠にどう死食鬼だけを誘導するか。
直感的な閃きが起こる。
エルザは騎士団の巻き添えを防ぐ為に、倒れかけていた建物の支柱を何本か蹴り飛ばして落下させると、そのまま罠への誘導の為に更に奥の建物へ跳躍した。
「何をしている?」
濁った眼が煙る銃口を睨みつけ、襲い掛かった直後――その巨体は女とは思えぬ怪力に、羽交い絞めにされたまま落下した。
地面、もとい地雷の設置場所に向かって死食鬼を抑えたまま、エルザは飛び降りたのだった。
着地する寸前、死食鬼の背は彼女の脚力のままに踏み締められる。
騒然とした騎士団が援護に向かうも、既に遅く、路地は轟音と衝撃波、金色の閃光で溢れた。
立ち込める魔力の残滓と黒煙の中に勇者の姿は無かった。
そして、ヒビが入って凹んだ外壁の下で唐突に呻き声が上がる。
死食鬼の身体を足場にすると共に、爆風の推力を使って爆心地から身を反らすも、細い体は勢い余って壁に激突していたのである。
四肢も胴体も、真っ白だった顔も全てが爆発の巻き込みによって赤く染め上げられ、へたり込む肉体が荒く息をしていたが、目と銃口はなおも執念深く、煙の先を向いていた。
次第に煙の中からは、爆発で覆われていた鎧が剥がれ、片腕の削げた体躯が浮かび上がる。
「ゲームオーバーだ!」
「…僅差で俺の勝ちだ……」
引き金を引く隙すら与えず、死食鬼は血に濡れたエルザに掴みかかったかと思えば、ボロ雑巾のようになった身体をゆっくりと持ち上げた。
そして、咽返るような生臭い息を吐きながら白い頬に付着していた血液を獣のように舐めとっていく。
次にその牙が革の防具の下の腹部に入り込み、僅かな肉を貪り始めたその時。
「…なんだこれは?!痺れ…ッ!…ガフッ…ッグ……ガ…チガ…チガウ……コレハ………」
死食鬼は泡を吹き、口内の物を突如として吐き出したかと思えば、音を立てて倒れた。
白目を剥き、焼けて疎らになった毛を逆立てながら痙攣するその僅かな隙を見て、血塗れの手は魔弾を何発も打ち込んでいく。
光と共に魔法陣が展開される中、ついにその怪物は動かなくなった。
「…おい、倒したぞ。治癒魔法があると助かるが…あれは便利だからな…」
「骨が…何か所か折れた…腕も…」
空になった散弾銃を支えにエルザは立ち上がると、息も絶え絶えに騎士団を見やる。
その手は腹部にバックり空いた傷口に宛がわれ、彼女が瀕死である事を明らかにしていた。
――しかし。
「…来るな。お前は何者だ?本当に神託の勇者か?」
立ち上がったエルザに対して騎士団から浴びせられる視線は、今や死食鬼を見る目と同じ質を帯びていた。
放たれた質問が彼女には“人間か?”という問いのようにも聞こえた。
「…一応、な。被害は最小限に抑えたつもりだ」
ふらつきながらもエルザは腹部の傷口から手を離し、自力で肩の関節を嵌めなおした。
そして、乱雑に血を地面に吐き出す。
「…化け物め」
騎士団の中から一つ声が漏れるも、それを遮るかのように低い声が上がる。
「治癒は回す。だが、お前はこの町から出ろ。これ以上ここに居られると困る」
指揮官と思わしき男が、何らかの術式が書かれた羊皮紙を血塗られた手に握らせた。
エルザはその羊皮紙を一瞥して、ポーチに仕舞うと、路地をゆっくりと進む。
その背後では、戦士達の議論が淡々とした様子で始められていた。
「…今から来るお上さんにどう報告するか、だ。正体不明の白髪の女が全て処理した…とは流石に書けない」
「まず、バネッサ司教にあの勇者と名乗った女の証言が真実なのか確認しなければ…」
その低い声を耳にすると、エルザは外套のフードを深く被って、出来る限り歩みを早めた。
石畳に滴り落ちた生々しい血の跡と足跡だけがその行方を知らせていた。




