四十五話 キュクロプス
日の差す事務室にて、ネーレウスは司教のバネッサに死食鬼の件について報告を済まそうとしていた――はずだった。
相変わらず窓の外を呑気に眺める彼の背に、年老いた溜息が落ちる。
「…で、隠密に討伐しろと言ったのだけど…?」
「昨日の局地的な大雨はなんなのかしらねぇ…高位魔術師さん?もしかしたら、こんな事になるだろうとは思っていたけれど…」
バネッサは事務用の机に肘を突き、その手でこめかみを押さえながら、もう一方の手は火の点いたままの葉巻を灰皿にコツコツと叩きつけている。
室内には煙が充満しており、この押し問答が長く続いている事を物語っている。
息を呑み、もう一度質問をしようとしたその時、事もなげな調子の声が上がった。
「あれは…偶然だよ。君のお弟子さんにも説明したけど、天候の操作は…複数人かつ、大掛かりな儀式が必須。つまり、即時に展開できるものではない」
苛立った空気を意にも介さず、ネーレウスが窓の外から視線を逸らす気配は未だに無い。
やがて、やきもきしたように独り言を漏らす。
「あぁ…この位置からだとエルザが見えないな…」
昨夜の密談と変わらず熱っぽい声は、かつての旅路で本来の彼を理解している老司教の頭痛の種となっていた。
そんな彼の呟きを無視して、しゃがれた声が低く落ちる。
「…騎士団の到着が降雨の影響で遅れたと明朝に聞いている。そして辺りはもぬけの殻であり、待っても死食鬼どころか魔術師すら来なかったと」
「何か秘匿しなければならない行為を騎士団が来ない間に行ったと受け取るが?」
「全く。明け方から若い衆に、件の魔術師はどこだと詰め寄られて大変だった」
続いて、煙を細長く吐き出した、その年老いた眼孔にはクマが出来ており、どこか疲弊している様子だった。
「嫌だなあ、雨はたまたま。私は普通の魔術師…君もそうしておきたいはずだ。よってそんな事を考える必要はない」
ネーレウスは素知らぬ顔でようやく来客用のソファに腰を掛けると、机に出されていた紅茶を一口飲んだ。
紅茶はすっかり冷めきっており、湯気は消えていた。
あまりにも自由気ままな彼の振る舞いに、落ち窪んだ頬には乾いた笑いすら浮かんでいた。
「お前のような者に二日連続でお茶を出す事になるとは…私も随分焼きが回ったようだな」
「…で、討伐は成功したのか?」
二本目の葉巻に火を点けた後、バネッサは話を続けた。
「うん、駄目だったね。中々手強かったよ」
飄々と、しかし、じっと正面を向いたままネーレウスは答えた。
その返答に間髪を入れずに、鋭い声が被さる。
「…わざと逃がした、の間違いだろう?何故そんなことをした?」
その尋問が向かってきてもなお、彼の微笑は崩れていない。
しかし、その眼差しからは熱が消え去り、氷のように鋭い、深淵な知慮に満ちた目付きに変容していた。
口角は更に上がり、淡々とした問い掛けが放たれる。
「逃がしたかどうか、よりも…良い事を教えてあげるよ。あの死食鬼は元人間だ。これについてどう思う?」
この予想外の切り込みにバネッサは閉口したまま手を組んだ。
互いに視線を逸らせぬまま、灰皿の上で紫煙だけが静かに燻っていく。
「…それは教団としての意見か?それとも、私個人としてのか?」
ネーレウスは何も答えず、ただ、視線だけで返答を促した。
沈黙は長く続き、空気が重量を持ったかのような錯覚を与える程だった。
テーブルを照らす木漏れ日の揺れと、立ち昇る葉巻の煙だけが、刻一刻と時間の経過を伝えていく。
重圧を感じながらも、やがて、バネッサは観念したように口を割った。
「…非常に芳しくない。一刻も早く捕縛し…直ちに救済するべき存在だ。…これは教団としての意見」
苦々し気に意見が述べられた後、そのまま灰皿の上で燻っていた葉巻が一喫みされる。
白く煙った息が吐き出され、僅かな沈黙が落ちる。
老司教は俯き、回答をあぐねているようだったものの、やがて次の返答を零した。
「そして…生身の人間が一戦力として強大になり、デコイのような動きをさせられている。この時点で国家としての危機が視野に入る」
「感情のまま有体に振る舞う魔王より、現状では例の“林檎”に利用される人間の方が常に厄介かと。…これは私個人の意見だ」
ようやく私見を言い終え、バネッサは葉巻を咥えたまま天井を向く。
「ふふっ…随分君らしい意見だ。聞いていて胸が空くよ」
「でも、そんな事を言ってしまっていいのかい?一応…司教だろう?」
背中を震わせながら笑うネーレウスの様子に、バネッサは再び溜息を洩らす。
ソファに腰掛けたまま喉の奥で声を上げる男に対して、今や、見た目の年齢相応の青臭さを感じざるを得なかった為だ。
バネッサは僅かに目を逸らし、思案しながら続けた。
「…だからこそ、言っている」
「ここから先は老人の戯言だ。……教義も伝承も…脆い。私は今…」
声は低く落ちたまま、古びた事務机の真横、壁際に隠れて掛かっていた一枚の絵が葉巻で指された。
注視しなければ目の届かない位置にあった絵画には、花畑で眠る少女を岩山の陰から見つめる単眼の巨人がパステルで描かれていた。
「これは?…キュクロプス?」
ネーレウスは誘導されるままに、その絵画をじっと見つめ、首を傾げた。
鮮やかな色彩の中で身体を横たえる少女が彼にはエルザに似ているように思えた。
「…ただの贋作だ。この絵は…他の修道女達からは不評だが、私にとっては…今では一番正確に思える」
ようやくひねり出されたバネッサの台詞は途切れ途切れに紡がれた。
「…なるほどね」
ネーレウスは何も言わずに、しばしその絵を食い入るように眺めた。
やがて、観念したように肩を竦めると、ぽつぽつと口を開き始めた。
「昔、まだ私が子供だった頃…あるゲームが流行っていてね。それが好きだったんだ」
「主人公が仲間を集めて悪い竜王を倒す。少しだけ、この世界の勇者の伝承と似ているかもね」
バネッサが何か言おうとするも、それは無視され、畳みかけるように話は続いていく。
「面白いのは…その竜王が何故存在していたのか、最後まで誰も気にしない事だ」
「…勝った主人公は祝福されて世界は救われたことになる」
その話は年老いた心臓に早鐘を打たせた。
これ以上聞いてはいけない。直感でそう理解していてもなお、バネッサには彼を遮る事は出来なかった。
「私はね、その結末が…どうしても好きになれなかった」
「昔、一緒にそのゲームで遊んだ友達が居た気がするんだけど…誰だったっけな。抜け穴を探すのが上手い子だったんだけど…どうしても思い出せないんだ…」
「あぁ、失礼。これはどうでもいい話だね」
ネーレウスは思い出を語りながら、少しだけ悲しそうな微笑みを浮かべる。
「では、この辺りで私は失敬させてもらうよ」
踵を返し、扉に手を掛ける後ろ姿に、まるで引き止めるかのように静かな声が投げかけられる。
彼が扉の前で振り向くと、いつになく憂わしげな表情をした皺くちゃの顔が映る。
「……気を付けろ、ネーレウス。この先…全て上手く行くと思うな」
その声が届いたか曖昧なまま、扉の閉まる音だけが耳に入った。
バネッサは項垂れたまま、二本目の葉巻に火を点けた。
煙の中、年老いた司教には一つ目をした巨人の絵画が何かを訴えているようにも感じ取れた。
「さて…エルザは何をしているかな?妙な事をしてなければ良いんだけど…」
「キュクロプス、か」
廊下を歩きながら、ネーレウスは独り言ちる。
彼の目は窓から見える長閑な田園風景を映していた。




