四十話 盗みはいけない
空気はしんと静まり返り、草原を撫でる微かな風の音だけが時折聞こえてくる。
高く昇った月が周囲を照らし、青白く輝く放牧地が見渡せるほどだ。
裏庭の隅では、夜の特訓が始まっていた。
木々の影でリヒトが模擬刀を振っているが、その全てはことごとく避けられており、手応えは無い。
しかし、その太刀筋は以前よりも洗練されている。
「あー。脇が甘いぞ、もっと詰めてけ」
そう言いながら、エルザは剣先を躱しながら銃を撃つジェスチャーをした。
地面には踏み跡が無数にあり、この特訓が長時間に及んでいる事を示していた。
「くそっ!今日こそ一発だけでも当てたい…」
リヒトは悔しそうに歯軋りをする。
額には汗をかいていたものの、剣を持つ手はまだ力強い。
再び斬撃が夜風を斬る。
「おーおー、さっきよりは、重心移動とか良いんじゃないか?」
攻撃を今度は受け止めながら、エルザは感想を述べる。
どことなく返事の様子が上の空であるように、リヒトには感じられた。
「…っていうかさっきから何か考えてるよな?…俺、この状態のエルザにすら一発も当てられないのか…」
リヒトは落ち込んだ様子で剣先を下げる。
「まあな。逆に今がチャンスだぜ?」
来いよ、という素振りに、リヒトは溜息を吐いた後、剣を素早く振り下ろす。
そして動きは次第に早くなり、太刀筋の読みづらい物になっていく。
一つひとつ、見切った末、後方に跳ねたエルザは、新体操選手のようにそのまま一回転して着地した。
踏みしめた土と小石が混ざって靴底はざらつく。
「今のは…悪くない。まあまあ実戦向けじゃないかと思うぞ。大きく避ける以外の選択肢がなかったからな」
「相手の選択肢を狭める攻撃は強い。こっちの流れに乗せやすくなる」
ひとしきり感想を述べた後、煙草の煙が漂い始めた。
特訓も束の間に、再び彼女の脳内は、例の設計図についてと、キアキ町に一人で向かったネーレウスの事でいっぱいになっていた。
自身がリヒトに放った「もっと詰めてけ」というワードに、炸薬の事が過る。
そして、ふと、肥料の中に火気厳禁な物があった事をエルザは思い出す。
――漂白剤と聖なる金属、そしてランプオイル。
ランプオイルと肥料を混ぜるとどうなる?そこに漂白剤と聖なる金属を接触させて発火させれば…?
それにあの死食鬼。確かにネーレウスは強いが、嫌な予感がする。
「なあ、少し良いか?」
その台詞と共に唐突にエルザはしゃがみこむ。
煙草の火を消すと、彼女はならした地面の上に、昼間に描いた図を書き起こし始めた。
リヒトは不可解そうにその様子を眺めた。下げられた剣先は微動だにしない。
「すげえ。そっくりそのまま昼間の奴じゃん」
リヒトの呟きが落ちる。声色には興奮の感情が籠っていた。
続いて、描かれた線画の隣に、サラサラと別の設計図が描かれていく。
より簡略化されたように見える図の内容は、どこか見覚えのある材料で構成されたものだった。
「これは改良案…?」
と、リヒトは新しい図案を指差した。
「…もしかすると教会にある材料で作れるかもしれない。まあ、必要ないとは思うが」
エルザは線画を描き終えて、満足げに次の煙草を吸い始めた。
二つの設計図が地面の上に並んでいる。
リヒトは剣を持ったまましゃがみこむと、描かれた物を食い入るように見つめた。
「ネーレウスが討伐に失敗するとは考えづらいしな…逃げられた。とかじゃなければ」
「…ん?あの死食鬼は転移魔法が使える。そして不可視……」
エルザの言葉がふっと途切れた。
「牧草地ではなく、街中……あっ」
僅かに眉間に皺を寄せ、煙草を持つ手が震えた。
彼女が抱いていた嫌な予感が形になったのである。
「…今夜のあいつの討伐。どうなるかな。必要ないと思ったがこれは…」
夜気が一瞬、冷たく感じられた。
リヒトも続いて、何かに気付いたように青ざめた。
「…ネーレウスさんは強い。強いからこそ…あの死食鬼が見つかる前に逃走する可能性もあるのか」
何かを考えた様子でリヒトはエルザの直感を代弁する。
二人は目を合わせたまま黙りこくったものの、それも束の間で終わる。
「今からでもキアキ町に向かうか?すぐ隣だ。俺達が囮になれば…」
「いや、あれを作る。…魔力を含んだ物か」
投げかけられた提案にエルザは首を横に振ると、静かに思案を続けた。
――例の危険物についてである。
いつぞや拾った彗光石を使うか?駄目だ…魔力媒体が無いのでは意味がない。
あと、使ったらネーレウスに怒られそうだし…。
等と考えた末に閃く。
彼女の脳内では“昼間に行われた会話”が思い起こされていた。
「確か昼間に“体内に魔力がある”って話あったよな?…抜け毛にも含まれるのか?」
「えっ、抜け毛?…まあ多少は含まれていると思うが…」
リヒトは思いもよらない単語に驚く。
彼女の意図はまだ伝わっていない。
「それならいい。丁度“魔力”の素材にピッタリな人物が居る」
エルザの視線が、教会から自分たちが寝泊まりしている修道院の方向へ流れた。
頬には悪戯坊主のような笑みが浮かんでいる。
「…それってまさか……」
「そうだ、そのまさか。だ。そいつの抜け毛を使って例のブツを作る」
二人の脳裏には共通の人物が思い浮かぶ。
波打つ黒い長髪と金色の瞳、昼行燈のような風体。エキゾチックなエルフ風の男――ネーレウスである。
「よし、まずは材料集めだな…」
「…教会から盗むつもり?」
リヒトは「やめとけ」とでも言いたげな顔でエルザを見る。
しかし彼女は振り向きもせずぼやいた。
「…この村のどこで手に入るか分からんからな」
「それに、少しだけだ。バレなきゃ犯罪ではない」
図面を爪先で消し、踵を返した足取りは妙に粛々としていた。
向かう先はこの教会と修道院の倉庫である。
彼の視界に映るエルザの姿はどんどん小さくなっていく。
「待て、待ってくれ!」
制止の声は届かなかった。
抜き足、差し足、忍び足というには彼女の移動速度は速く、走らなければリヒトは追いつけないほどだった。
「…倉庫に忍び込むのか?まだシスター達だって起きてるんだぞ」
その台詞にエルザは飄々と返事をする。
「起きてるとはいえ、わざわざ屋外の倉庫、ましてや日用品置き場は見ないだろ。現に足音一つ聞こえやしない」
「だが問題は…燭台だけだな。あれは恐らく倉庫にはない。貴重品っぽいから室内かな?礼拝堂の付近が怪しいが…」
そのあまりに明快な説明にリヒトが頭を抱えたのは言うまでもない。
「…一体いつからその情報を集めていたんだ」
彼の目は「教会の備品を盗み、仲間の抜け毛を魔力媒体に使う勇者は倫理的に不味い」とあからさまに告げている。
「えっ、懸垂中だけど?…内部情報ペラペラ話してるよなーここの修道女。こっちは元盗賊だってのに」
次の返事も単純そのものだった。
エルザには非難の目もどこ吹く風である。
あっさりと昼間の盗み聞きの内容を伝えるように、指先が地面に、教会と修道院周辺の構造を描く。
「今の時間、修道女達が居るのはここだろうな」
指先が図面上に描かれた礼拝堂の位置を指した。
その口調の軽さと綿密な図面の落差にリヒトはついて行けず困惑した。
例の地雷の改良案から材料調達に映るまでの行動に、あまりにも無駄がない。
しかし、それと同時に奇妙な高揚感もあった。
こんなに思い切ったことをする人間が――今まで居ただろうか?
自分の気持ちに迷いが生じ、リヒトはしばし立ち尽くした。
それとは対照的に、エルザは図面を消すと歩みを再開した。
伸びる二つの影の距離は徐々に離れていく。
「待て!盗みはやっぱり良くないって!」
リヒトは刺激への誘惑に打ち勝ち、小さくなっていく影を再び追い始めた。
まだ月は高く昇っており、夜は長い。
そして遠くからは、祈りを捧げる小さな声が聞こえてきていた。




