三十八話 鈍感勇者の一瞬の誤解
辺りは僅かに薄暗くなっており、廊下では伸びた影と橙色の陽光が強いコントラストを作っている。
あのお茶会の後、ネーレウスは見計らったかのようなタイミングで廊下に出てきていた。
死食鬼の行方と対策についてバネッサと話し合いながらも、エルザの懸垂を件の応接間からひっそり眺めていたのである。
また、手の中には、紙で詰まれたジンジャーブレッドと、瓶に入った紅茶があった。
そのまま呑気に佇んでいると、廊下の向こう側から修道女達の静かな足音に紛れて、談笑が聞こえてきた。
先程まで特訓に付き合わされていた二人と汗だくになった勇者の三人だった。
その活気に溢れた集まりを観察しながら、彼は勇者エルザについて思案した。
懸垂等の特訓はともかく。身体強化がかかったリヒト君を押し込む程の怪力を発揮するエネルギーはどこから?疲労の蓄積も少ないように見える…。何故、今まで気付かなかったのだろうか?
現象としての興味なのか、はたまた別の物なのか。彼自身にもはっきりしないまま、ネーレウスの意識は廊下の先に向く。
彼の視界の先では三人が楽し気に会話をしていた。
「流石にあちぃな。でも、妙な達成感がある」
エルザは革製の軽鎧を外しており、シャツの胸元をパタパタさせている。
僅かに彼女の頬は紅潮していたが、息を切らす素振りも無い。
「にしても凄いなあ、懸垂千回超えてなかった?」
「途中から私達が数えてなくてもずっとやってるし…」
リヒトやシャロンが各々、感想を述べていた。
エルザは笑いながら、なおも手を止めず、服の裾を扇ぐ。
「っていうかこれ、私も回数数えてないんだよな。しかも限界来る前に飽きてるし」
千七百五十六回。それが君の懸垂の回数だよ。全く…。
遠くに聞こえる話声に、ネーレウスは思わず内心でそう軽口を叩く。
「もし騎士団に居たらエルザお姉ちゃん、きっと凄い事になってそう。ねぇ、魔王を倒したら…どこか入ってみたら?」
「そうだよな。…あれだけ強そうな罠なんかもすぐに思いつくわけだし。専門的な事を習ってないのが不思議なくらいだ」
シャロンの意見にリヒトは頷き、私見を交えた。
「…あの設計図の罠、踏むと爆発するんだっけ?…ちょっと怖いなあ」
その意見に対し、シャロンは僅かに表情を曇らせる。
「まあ、あれただの落書きだからな。実際はどうだか。…旅を終えたら、ネーレウスと…」
言いかけられたエルザの台詞はそこで終わる。
長い通路の向かい端に立つネーレウスに気付いたからではない。
小さな子供たちに揉みくちゃにされながらも、どうにか教室から現れたユーリアが三人に小さく手を振りながら合流したからである。
「三人共、お疲れ様。…エルザだけ凄い汗まみれね」
ユーリアは苦笑しつつ、張り付いたシャツをまじまじと見つめた。
エルザとは対照的に、彼女の顔色からは僅かに疲弊の色が浮かんでいる。
廊下の騒がしい様子から、疲労の理由が三人にしっかりと伝わった。
「ユーリア授業終わったの?司教様のお手伝いも大変だね」
「えぇ。でも、皆にとって必要な物でもあるし、私自身の為にもなるから」
ユーリアが抱えた教材を断りもなく奪い取り、シャロンはそのまま周りをうろちょろし始める。
リヒトとエルザはその動きを見て思わず吹き出しかけた。
落ち着きのないシャロンの動きを気にも留めず、しかし感謝も忘れずにユーリアは話を続けていく。
「ねぇ、エルザ…もし良かったらその、一回だけ授業を受けて見ない?もしくは私の助手でも…」
「旅の途中で忙しいとは思うけど、その…学校に行ったことが無いって言ってたわよね…?明日は神学と歴史の授業があって…」
エルザは気まずそうに俯くと僅かに後ずさった。
何故なら、この勇者は勉強が嫌いだった。うんざりする程に。
「あの、エルザ…?」
ユーリアが心配そうに声を掛けるや否や、教室から出てきた小さな子供が騒ぎ立てる。
「あっ!高速ジャグリングのお姉ちゃんだ!学校…行ったことないのか?変な奴!」
「クソガキ!…学校なんか行かなくてもな、フィジカルってもんがあるんだぜ?」
揶揄う少年の首根っこをエルザは素早く掴んだ。
そしてそのままもう片方の手で抱き上げると、視線を合わせる。
腕の中で少年は狼狽えたまま、しかし同時に目を輝かせた。
「こら、そんなこと言わないの。勇者様にごめんなさいは?」
ユーリアは慌てた様子で少年を叱りつつも、エルザに降ろすように手で合図をする。
降ろされた少年は打って変わって興奮しきった様子だった。
「うぅっごめんなさい…父ちゃんにもこんな持ち上げられたこと無いや…すげぇ…」
一瞥して去っていく少年を尻目に、エルザはユーリアに返事をする。
「大丈夫、私には必要が無い。今までも問題は起きていないし」
彼女はそう言った途端、逃げるように辺りを見渡した。
辺りには修道女と子供達が疎らに動き回っていたものの、その中に一人だけ微動だにしない長身の影があった。
――ネーレウスである。
「ネーレウス!なんだ居たのかよ」
この話題を変える為に、エルザは全力で手招きをする。
ネーレウスははっとした様子で三人の元に向かった。
彼が歩く度に黒い長髪と道士服の影が廊下で揺れている。
「君達の仲が良さそうだったから、つい入りそびれてしまったよ」
柔和な微笑みを浮かべたまま、ネーレウスは照れくさそうに頭を掻いた。
「中々こっちはいいトレーニングだったぜ。…司教様と何を話してたんだ?」
「あぁ、少し世間話をしていただけだよ。大した内容じゃない」
親し気に話すエルザとネーレウスを僅かに見た後、ユーリアは口を開く。
「あの、ネーレウスさんは…司教様の知り合いとかなのかしら?」
彼女の質問にネーレウスは微笑みを向けた。
暖色を帯びた陽光が長い睫毛に影を落としている。
「そうだね、昔…少し私の仕事を手伝ってもらった事があってね。知り合いというほどではないけど」
「私がここに居るのが、きっと凄く珍しいんだろうね」
その返答を聞いて、ユーリアは腑に堕ちない様子だった。
「それもそうね。東洋系のエルフは確かにここでは…」
「そうそう。東端からここまで来るような物好きなんて滅多に居ないよ」
どうにか自身を納得させようとしたものの、司教様がネーレウスを警戒しているように見える。
その事実は彼女の胸に重くのしかかる。
次第に彼女は自身の気持ちに整理を付けられなくなり、目線を床に落とす。
また、エルザもこの返事に違和感を覚えた。
――珍しい?…初めて会った時にネーレウスは“東の国で長耳を持つのは私だけ”…とまで断言していたが。
っていうか、何故ユーリアはこの質問を?何か気になるんだろうか。あいつの正体について疑っているのか…それとも。
さっきの特訓でもずっとネーレウスを見ていたし、まさか…?
ネーレウスへ抱いた違和感がユーリアの柄にもない挙動によって塗り潰されていく。
エルザは僅かに心臓を締め付けられるような感覚に拳を強く握った。
「そんな遠くからわざわざ…」
「その距離は…船とか使ったんですか?」
ユーリアの周りをうろちょろしていたシャロンとそれを収めていたリヒトが各々呑気な感想を述べる。
「まあ、そんな大した移動手段ではないよ」
エルザは三人の声が耳に入らない程に動揺をしていたものの、それを隠すように声を上げた。
「端って事は、東の大陸の方じゃなくて小国の方だったんだな」
「まあね、うん。そういえば、君には詳しく伝えていなかったか」
「…さて、そろそろ夕飯じゃないかな?私は先に荷物を置いてくるとするよ。皆さんまた後で」
そう言うと、ネーレウスは借りている部屋にそっと戻っていく。
足音は遠くなっていき、すっかり薄暗くなった廊下に消えていく後ろ姿を四人は見送った。
「ネーレウスさんの席も取っておかないとな。結構混むから…」
四人は廊下を進んでいった。
リヒトとシャロンが元気よく前を進む中、ユーリアは何かを思案した様子でその背後をゆっくりと歩いていく。
そして、その横顔をちらちら覗きながら、エルザは前を歩く二人に気付かれないように小さく呟いた。
「なぁ…その。…ああいう物知りが良いのか?」
隣からの震える声にユーリアは思わず目を丸くした。
「えっ。いや…あの。エキゾチックでかっこいいとは思うけど…」
「エルザ、その…多分あなたのそれはどこからどう考えても、誤解だから安心していいわ。私、聖職者なのよ?」
エルザはその言葉に安堵の息を漏らした。
「そうか…」
その言葉を吐き出し、すっきりしたような顔をすると、彼女は歩みを速めた。
活気づいた背中を見つめながら、ユーリアは言葉を続けそうになったものの、口を閉ざした。
彼女の知っているエルザらしからぬ、あまりにも年相応な様子を見て、何も言う気になれなかったのである。
静まり返った廊下には四人の足音とシャロンの騒ぐ声が響いていく。
向こう側には温かい光が窓から差し込む光よりも強く輝いていた。




