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三十七話 事案と密談

 エルザは基礎トレーニングを行っていた。

忙しなく動く影とそれを見物する、若き冒険者の特訓風景は、遠くの窓越しにネーレウスとバネッサの視界にも入り込む。

教会の応接間の窓から差し込む陽光は彼の黒髪と司教の白髪頭を柔らかく照らし、壁に飾られた宗教画の数々に温かみを与えている。

 また、修道女が用意した熱い紅茶とナッツ入りのジンジャーブレッドが、机の上で魅力的な芳香を放つ。

面談のような張りつめた気配の中、ティーポットからは細く湯気が立ち昇っていた。


「今度は教師の真似事か?」


 バネッサは静かに葉巻に火を点けると、要件を話し始めた。


「そんな。ただ、私はユーリア君やシャロン君に頼まれたから普通の…魔術理論とコツだけ伝えただけだよ」


 ネーレウスは飄々としたまま、バネッサの視線などありもしないかのように、窓の外を見ていた。

手元のお茶や焼き菓子すら減る素振もない。


「…お前の普通は普通ではない。それは既知の事実だ」


 鋭い眼光が陽光に照らされた横顔を射抜く。

神経質そうに灰皿の縁を葉巻で叩く音が僅かに響いた。


「本当に大した事はしていないよ」


 僅かにネーレウスの目が泳ぐ。

ふと、シャロンに講義した摩擦帯電についての解説と実演が脳裏に過る。

それを誤魔化すかのように彼はティーカップに口を付け、小さく息を吐いた。


「…まあいい」


バネッサはそう言うと、淡々と話を進め始めた。


「既に気付いていると思うが…勇者エルザは異質だ。あれには…お前と…同じ匂いを感じる」

「そして相変わらず随分、ご執心なようだが?理由は…」


 しわがれた言葉を遮るかのようにネーレウスは紅茶を吹き出しかけた。

彼の頬は血色を帯び、鼻の頭まで朱が差す。

咳払いをした後、彼は恍惚とした面持ちで窓の外を眺めながら、熱っぽく語り始めた。


「…それは…だって…あんなに可愛い子は初めてだから……」

「生きているのに必死でどこか儚くて…あんな荒唐無稽でそれでいて守りたくなる…こんな気持ちは初めてだよ」

「ほら、見て。トレーニング中かな?あの木の下で懸垂してる。いっぱい汗までかいて…」

「カウントしてるのはリヒト君か。ふふ…回数は四百九十一回目。休憩は今のところ二回。頑張り屋さんだねぇ」


 髭の剃り跡一つ無い、整った口元が緩やかな弧を描く。

また、黒い睫毛の下の瞳はまるで夢を見るかのように潤んでいる。

 日頃の彼の口から出ているとは思えない長台詞に、バネッサは思わず呆れと困惑の表情を浮かべた。

しかし――。それも一瞬に、心臓を強く掴まれたような感情が胸中に渦巻く。

彼の異様にのぼせ上がった眼差しが、ただの恋慕の感情ではなく執着の前触れ。際限のない感情である事を悟ったのだった。

 皺くちゃの指先の葉巻から、一片の灰が落ちる。


「もう一度確認する。…何を企んでいる?」

「本当に少しだけ、外の空気を吸いに来ただけだよ」


バネッサの猜疑心に塗れた問いに、ネーレウスはあっさりと答える。


「最近…少しきな臭い。あの死食鬼の一件といい、何かが絡んでいるように思う」


老練たる意見と共に向けられた物は、何かを知っているか?という目だった。


「それについては私も同意するよ。司教様。…いや、“破戒僧バネッサ”」


 彼はまだ呑気に、エルザが懸垂する様子を眺めていた。

しかし、その眼差しから熱は引きつつあった。


「その呼び方はやめろ。過去の話だ」

「…この異変について知っている事はあるか?教団としても把握しておきたい。(もっと)も、お前に尋ねるのも奇妙な話だが…」


 暫く、両者は黙り切ったままだったが、ネーレウスはバネッサの方をようやく正面から見据える。

陽光に照らされた顔貌は、先程までの緩み切った顔から一変していた。

まっさらな片頬に影が深く落ちている。


「……神託の周期が今回は少しおかしい。恣意的な物を感じる。君達が気付いているかは知らないけれど」


 その言葉はバネッサの眉間に皺を作った。

そして、一瞬の思考が走る。

 ――恣意的?周期?勇者選別の神託は“本来は仕組みのある物”なのか?

“この男”は何故、それを知っている?ならば、神託はいつから存在していた?

かつて旅で見た過去の文明と、その遺跡内の罠に酷似した構造の武器を構想する勇者。

“この男”はやはり過去の文明の――

 過去の勇者一行の一人として、脳内で警鐘が鳴り響く。

危うくバネッサは口を開きかけたものの、喉元にその台詞を押し込んだ。


「…なるほど。…つまり、お前が同行している理由は異変の調査か?」


絞り出された問い掛けに、ネーレウスは何も答えもせず、質問を返す。


「私からも質問だ。君は…どこまで知っている?」


 声色は穏やかだった。

しかし、彼の目つきは――かつて勇者一行と共に居た時に、刻まれた記憶と寸分も変わらない物に変容していた。

圧迫感を纏った、底の知れない金色の瞳。

 この瞬間、時間が止まったかのような錯覚と吐き気。節々まで硬直する感覚をバネッサは感じた。

重苦しい空気と沈黙が続く。

やがて、それも束の間、観念した様子で煙と共に台詞が吐き出された。


「…そうね」

「どこまで……か。前代勇者が“触れてはいけない場所”から“林檎”を探しに行った事」


 壁に掛けられた宗教画の一枚をバネッサは葉巻で指す。

差し込む光を反射する額縁の中には、林檎の木と一糸も纏わぬ男女の姿、蛇が描かれていた。

 ネーレウスはその絵画を見て、口角を片側だけ上げた。

その視線はなおも冷たい知性を帯びたままだった。


「そして、その後の行方を、私は追えていない事」

「昨夜の死食鬼の件はその“触れてはいけない場所”と同じ気配を感じる」

「…あの“勇者”も同じように」

「人語を返す変異個体と魔力の流れが身体に存在しない生物など…前代未聞だ」


 バネッサは苦々し気にそう告げると、葉巻を消した。

続いて、息を静かに長く吐いた。

 長い沈黙の後、窓を隔てた先、相変わらず懸垂をするエルザと数え疲れているリヒトの影に視線を移す。

丁度、リヒトがカウント係をシャロンと交代しているところだった。


「私は…本質的にはただの普通のお嬢さんだと思っているよ」


 ネーレウスもまた、恍惚とした表情で窓の外を眺める。

彼の反論は、そうであって欲しいという願望のようにバネッサには聞き取れた。


「その“普通のお嬢さん”が、真夜中に立ち上がらないと良いのだけれど」


 彼女の苦言がネーレウスに届いているかは曖昧だった。

それでもなお、老獪たる声は続いていく。


「…あの死食鬼だが、なるべく隠密に倒してくれ。私としても、お前の存在は普通の魔術師、という事にしておきたい」

「そして…勇者に林檎と同じ匂いを纏わせるな」


 バネッサは机の上で肘を着くと首を項垂れた。

組まれた皺だらけの両手は祈りを捧げるようにも見えた。

室内には、窓越しのシャロンの甲高い歓声だけが聞こえてきている。

 またしても、ネーレウスの返事は無かった。

ただ、影が床に長く伸び、揺らめいている。

その様子が、年老いた僧侶の中で焦げついて離れない名状しがたい記憶を彷彿とさせた。

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